第6話 泣いてもいいですか
あの毒は、私のポーションなら治せた。そのことが、頭から離れない。
三日が経っても、ガルドの容態が好転したという知らせはない。マーサが商人経由で仕入れた情報によると、王都の薬師ギルドが解毒に当たっているが、上級ダンジョンの瘴気毒は特殊で、標準的な手法では核を分解できないらしい。
私の野外調合法なら、核を分解できる。
陽炎花の花粉を触媒にした低温抽出法。祖母から教わったあの技術は、薬師ギルドの正規課程にはない。私しか知らない調合法だ。
「ナターシャ」
マーサの雑貨屋で、ぼんやりとハーブティーを飲んでいた。味がしない。いつもはほろ苦くて好きなのに。
「あんた、三日前からずっとその顔よ。顔色が悪い」
「……そうですか」
「元パーティーの盾役さんのこと?」
頷いた。マーサは何でも知っている。
マーサが棚から蜂蜜の瓶を取り出して、私のカップに垂らした。甘い匂いが広がる。
「それとね、もうひとつニュースがあるの。勇者パーティーのスポンサー、二社が撤退したって。攻略速度が落ちて、成果が出ないから契約更新しなかったらしいわ」
スポンサー撤退。冒険者パーティーの運営費は高い。武器の修理、宿代、消耗品の補充。Sランクダンジョンの攻略には金がかかる。スポンサーが抜ければ、活動そのものが制限される。
「助けに行きたいの?」
「わかりません」
本当にわからなかった。助けに行くべきだ、という気持ちと、なぜ私が助けなければならないのか、という気持ちが、薬草のすり鉢みたいにぐるぐる回っている。
「『市販品で十分だ』って言って追い出したのは向こうでしょう」
マーサの言葉は正論だった。
「それに、引き継ぎメモを渡そうとしたのも断られたんでしょう? あんたのせいじゃないわよ」
そう。私のせいじゃない。
でもガルドは、追放に反対していた側の人だったかもしれない。あの時、奥の席で何か言いたそうにしていた。何も言わなかったけれど。
◇◇◇
夕方、畑で薬草の手入れをしていた。
手が荒れている。ここ数日、まともに調合していない。いつもならポーションの仕込みで忙しい時間なのに、調合台に向かう気力がない。
ルークが隣の畑から歩いてきた。手にスコップを持ったまま、私の畑の柵の前で立ち止まった。
「……助けに行かないのか」
唐突だった。
ルークがこんなことを聞くのは初めてだ。いつも何も聞かない人なのに。
私は銀露草の葉をむしっていた手を止めた。
「行けば助けられます。たぶん」
「たぶん?」
「私の調合法なら、ガルドさんの毒を解毒できると思います。確証はないけれど、可能性は高い」
「なら」
「行きません」
自分の声が、思ったより硬かった。
「私が『役に立たない』って言ったのはあの人たちでしょう!」
叫んでいた。
五年分の何かが、喉の奥から噴き出した。ルークの目が大きくなった。私も自分に驚いた。
「五年間、毎日。毎日ポーション作って。命張って回復して。それでも荷物持ちで。市販品で十分だって。いらないって。いらないって言ったのはそっちでしょう。なのにどうして。今さら。今さら私に」
止まらない。文が壊れている。自分でもわかっている。でも止められない。
奥歯を噛み締めすぎて、顎の付け根がじんじん痛い。
言葉が詰まった。
手の中の銀露草がぐしゃりと潰れた。
「……あ」
潰れた葉から、青い汁がぽたぽたと土に落ちる。銀露草は繊細な薬草だ。こんな乱暴に扱ったら、薬効が台無しになる。
「ごめんなさい……」
銀露草に謝った。
潰れた葉を丁寧に拾い上げて、手のひらに乗せた。指が青い汁で染まっている。
「ごめんなさい。八つ当たりしました。あなたは悪くないのに」
ルークに謝ったのか、銀露草に謝ったのか、自分でもわからない。
沈黙が長かった。
ルークが畑の柵を越えて、こちらに歩いてきた。目の前で立ち止まって、手のひらに何かを乗せた。
不格好なパンだった。
表面が焦げていて、形がいびつで、明らかに素人が焼いたパンだ。でもまだ温かい。
「……無理に行かなくていい」
ルークの声は低くて、静かだった。
パンを一口齧った。
外側がぱりっとしていて、中はもちもちしている。焦げた部分がほろ苦い。焼き加減が絶妙に失敗しているのが、逆においしい。調合で言えば、偶然生まれた新レシピみたいな味だ。
「……おいしい」
涙が出た。
泣かないと決めていたのに。追放された日も泣かなかったのに。勇者の手紙を肥料にした時も泣かなかったのに。
不格好なパンの温かさで、泣いた。
ルークは何も言わずに、隣に座っていた。私が泣き止むまで、ずっと。
夜風が冷たかった。でもパンは温かくて、隣に人がいるだけで、ひとりぼっちじゃなかった。五年間パーティーにいたのに、こんなふうに隣にいてくれる人はいなかった。
◇◇◇
翌朝、目が覚めた時、決めていた。
助けに行かない。でも、何もしないわけでもない。
調合台に向かって、魔瘴毒の解毒レシピを書き出した。陽炎花の花粉を触媒にした低温抽出法。手順は三十二工程。温度管理の注意点、素材の鮮度の見極め方、すべてを羊皮紙に書いた。
私の代わりに、このレシピが行けばいい。
「戻る」のではなく「知識を渡す」。完全な無関心でもなく、元の関係に戻るのでもない。距離を保ったまま、できることだけをする。
マーサの雑貨屋に駆け込んだ。
「マーサさん、お願いがあります。王都にいるお孫さんに、これを届けてもらえませんか。薬師ギルド宛に。匿名で」
「匿名?」
「私の名前は出したくないんです。ただ、このレシピがあれば、ガルドさんの毒は解毒できるはずです」
マーサは眼鏡を押し上げて、レシピに目を通した。
「……あんた、これ、自分しか知らない技術でしょう」
「ええ」
「それを渡していいの?」
少し迷った。この調合法は、祖母から私だけに伝えられたものだ。私の薬師としての最大の武器。
でも、人が死ぬかもしれない。
「いいんです。薬草は一人で抱え込むものじゃないって、祖母も言っていました」
嘘だ。祖母はそんなこと言っていない。でも、言いそうだな、と思った。
マーサが笑った。
「おばあちゃんに似てきたわね」
レシピを託して、雑貨屋を出た。
畑に戻ると、ルークがいつもの場所で鍬を振っていた。こちらをちらりと見て、すぐに視線を戻した。
「ルークさん」
「……なんだ」
「昨日のパン、また焼いてくれますか」
長い沈黙。
「……考えておく」
鍬を握る手の甲が、ほんのり赤い。
まあ、それは「はい」ということにしておこう。




