第4話 銀露草は夜明け前に摘むもの
気がつけば、この村に来て一ヶ月が経っていた。
村の暮らしには、ダンジョン生活にはないリズムがある。日の出に起きて、日の入りに寝る。パン焼き窯に火が入る日は村中にいい匂いが漂って、井戸端では洗濯しながら噂話が弾む。
私はいつの間にか「薬師のナターシャ」として村に受け入れられていた。
腹痛にはこの煎じ薬、虫刺されにはこの軟膏、冷え性にはこのハーブティー。祖母がかつてこの村でやっていたことを、私が引き継いだ形だ。
代金は半分くらいが野菜や卵になった。村の人たちは現金が少ないのだ。でもそれでいい。冒険者時代は金貨の計算ばかりしていたけれど、籠いっぱいの新鮮な野菜をもらう方が、なんだか豊かな気がする。
子供たちにも懐かれた。三人の子供が毎日のように畑に遊びに来て、薬草の名前を覚えたがる。
「ナターシャ先生、これなに?」
「これはね、セイヨウノコギリソウ。ギザギザの葉っぱが鋸みたいでしょう。すり潰すと血が止まるんですよ」
「じゃあこれは?」
「これは……ただの雑草ですね」
「えー!」
子供たちが笑う。ついでに私も笑う。五年間、笑うことがほとんどなかったことに、今さら気づいた。
レオンハルトのパーティーにいた頃は、毎日が任務だった。起きたら調合、移動中は素材集め、戦闘中は回復、夜営では明日の準備。「楽しい」と思ったことが、一度でもあっただろうか。
あったかもしれない。最初の一年くらいは。でもいつからか、「役に立たなきゃ」という焦りの方が大きくなって、楽しさなんて考える余裕がなくなった。
◇◇◇
銀露草の摘み時は、夜明け前だ。
日の出前に葉の表面に露が溜まる。この露ごと摘むことで、回復効果が三倍になる。祖母が教えてくれた知識だ。
まだ暗い畑に出て、銀露草の前にしゃがみ込む。指先に朝露の冷たさが伝わる。月明かりの下で、銀露草の葉が淡く光っている。この光り方をする時が、摘み頃の合図だ。
「摘む角度は茎の第二関節のすぐ上。力を入れすぎると繊維が潰れて薬効が落ちるんです。でも弱すぎると千切れない。この力加減がなかなか難しくて、祖母は『赤ん坊の手を握るくらいの力で』って言ってましたけど、私は赤ん坊を握ったことがないのでよくわからなくて」
誰に説明しているのだろう。振り返ると、ルークが三歩後ろに立っていた。
「わっ!」
「……」
「い、いつからそこに?」
「……第二関節あたりから」
ほぼ最初からだ。
ルークは手に籠を持っていた。中に、摘みたての薬草が入っている。
「この辺の銀露草は東の斜面がいい。日当たりの加減で露が多い」
ルークが、喋った。
三語どころか、二文も喋った。これは事件だ。
「ルークさん、薬草にお詳しいんですか?」
「……少し」
少し。「少し」であの的確な指摘はできない。銀露草の自生地と日当たりの関係は、薬師ギルドの中級テキストに載っているレベルの知識だ。
でも、深く聞かない方がいい気がした。ルークの目が、一瞬だけ暗くなったのを見たから。
「東の斜面ですね。ありがとうございます。今度行ってみます」
「……ああ」
ルークは籠をこちらに差し出した。中を見ると、月見草の蕾が七つ、きれいに並んでいた。解毒効果のある部位を、正しく切り取って。
「これ……摘んでくださったんですか?」
「ついでだ」
また「ついで」だ。
月見草は東の斜面ではなく、ルークの畑の反対側、南の林の縁に自生している。そこまで行くのは「ついで」の範囲を明らかに超えていると思うのだけれど、言わないでおく。
「ありがとうございます。この月見草、蕾の時に摘むと解毒効果が最大になるんです。完璧な時期です」
ルークの首筋が、わずかに赤らんでいた。
「……あ、声低いんだ」
口から出た言葉に、自分で驚いた。なんでそんなことを言ったのだろう。
ルークは目を逸らして、黙って自分の畑に帰っていった。
……なんだ今のは。今のはなんだったんだ。
空が白み始めて、東の山の稜線が橙色に染まっていく。朝の空気は冷たくて澄んでいて、遠くの林から鳥の声がする。
こんな景色を、五年間見ていなかった。ダンジョンの中では日の出も日の入りもない。ずっと同じ暗闇だ。
自分の畑で、自分の足で土を踏んで、夜明けの空を見ている。
それだけのことが、こんなに贅沢だなんて。
◇◇◇
午後、祖母の調合台で初めての本格的なポーションを完成させた。
銀露草の露を基材に、月見草の蕾のエキスを加え、蜂蜜で粘度を調整する。温度は四十二度を三分間維持。すり鉢を回す速度は一定に。二十分で完成した緑色の液体は、まだ市販品の二倍程度の効果しかない。
祖母の畑の薬草がまだ若いからだ。あと三ヶ月もすれば、もっと良い素材が育つ。冒険者時代に作っていた特製ポーションには届かないけれど、村の人たちの怪我や病気には十分な回復力がある。
瓶に詰めて、ラベルを貼った。
「第一号ポーション、完成です」
窓の外で、ルークが畑を耕しているのが見えた。毎日同じ時間に同じ場所にいる人だ。
マーサの雑貨屋に寄って、お茶をご馳走になった。マーサは手作りの蜂蜜クッキーを出してくれた。さくっとした生地に、蜂蜜の甘さがじんわり広がる。おいしい。
「おばあちゃんもよくこのクッキー食べてたのよ。いつも三枚目に手を伸ばす時だけちょっと申し訳なさそうな顔するの」
「……わかります。三枚目って罪悪感ありますよね」
「あなたもう五枚目よ」
しまった。
帰り道、村の広場で子供たちが遊んでいた。そのうちの一人、八歳のミーナが走ってきた。
「ナターシャ先生! 明日も薬草のこと教えて!」
「ええ、もちろん。明日は……」
ミーナの手が、やけに熱かった。
「ミーナちゃん、ちょっと待って」
額に手を当てた。
熱い。三十八度は超えている。
「お母さんに言ってきてね。今夜は早く寝て、水をたくさん飲んで。明日の朝、私が見に行くから」
ミーナは元気そうに走っていったけれど、あの熱は普通の風邪じゃない気がした。
嫌な予感がする。あの手の熱さには、覚えがある。
Sランクダンジョンの瘴気層で、毒に冒された冒険者の肌がこんな熱さだった。もちろんここはダンジョンじゃない。でも辺境の村は魔物の行動範囲と近い。魔物由来の毒が、風や水に混じって流れてくることがある。
小屋に戻って、解毒ポーションの素材を確認した。月見草の蕾が七つ、銀露草の露が一瓶。足りるといいけれど。
冬凪草の芽が、畑の隅で銀色の葉を広げていた。もう五センチほどに育っている。
「おばあちゃん、一番大切なものって、なんでしょうね」
返事はない。でも、冬凪草の葉がかすかに揺れた。




