第2話 隣の畑のついでの人
朝露で濡れた雑草に手を伸ばすと、指先に冷たい水滴が転がった。
十月の朝はもう寒い。リネンの作業着の上に祖母の古い上着を羽織って、私は雑草と格闘していた。
薬草畑の復旧は、思った以上に大仕事だった。祖母が亡くなってから三年。雑草たちはすっかり我が物顔で、根っこが地中深くまで張り巡らされている。一本抜くたびに土がごそっと持ち上がる。
「あなた方、ずいぶんお元気ですね……」
雑草に話しかけるのは薬師の職業病だ。いや、この雑草、よく見ると葉の形が。
「あら。これ、セイヨウノコギリソウじゃないですか。止血効果があるんですよ、すり潰して患部に当てると……」
……誰に説明しているんだろう、私は。
ひとまず薬効のある雑草だけ別にして、残りをひたすら抜いていく。腰が痛い。ダンジョンの戦闘より畑仕事の方が体にくるとは思わなかった。
◇◇◇
問題が起きたのは、昼過ぎだった。
村の雑貨屋に買い物に行こうとして、道がわからない。
祖母の小屋を出て、右に曲がって、畑の横を通って。あれ、ここさっき通った。
もう一度。右に曲がって。同じ場所に出た。
三回目。今度は左に曲がってみた。自分の畑の裏側に戻ってきた。
私は、自分の薬草畑の周りをぐるぐると三周していた。
「……あの」
振り向くと、隣の畑の青年が立っていた。昨日荷物を運んでくれた人だ。手に鍬を持ったまま、こちらを見ている。
不審者だと思われただろうか。だって同じ場所を三回も。
「あの、すみません。雑貨屋さんに行きたいのですが、道がわからなくて」
青年の目が、ほんの少し大きくなった。
それから鍬を畑の端に立てかけて、無言で歩き出した。
ついていくと、小屋から歩いて三分の場所に雑貨屋はあった。三分。私は三分の距離を三十分さまよっていたのか。
「ありがとうございます。あの、お名前は……」
「……ルーク」
短い名前。去っていく背中を見送りながら、私は少しだけ安心した。名前がある。名前がある人だった。
◇◇◇
雑貨屋の扉を開けると、干し肉と蜂蜜と埃の混じった匂いがした。
「あらまあ!」
カウンターの奥から、白髪の老婆が飛び出してきた。小柄だけれど、声が大きい。
「あなた、リンデルのターニャおばあちゃんの孫でしょう! 顔がそっくりだわ!」
「はい、ナターシャです。祖母がお世話に……」
「マーサよ。おばあちゃんとは四十年来の友達でね。あなたが小さい頃、うちで蜂蜜パンを食べたの覚えてる?」
覚えている。焼きたてのパンに蜂蜜をたっぷり塗ってくれた。指がべたべたになって、祖母に笑われた。
「覚えています。あの蜂蜜パン、おいしかったです」
マーサが目を細めた。
「あの子が帰ってきたって聞いた時はねえ、嬉しかったのよ。おばあちゃんの畑、ずっと気になってたんだから。で、何が必要?」
種と肥料と、基本的な生活用品を買い揃えた。マーサは何かとおまけしてくれようとするので、断るのに苦労した。村の暮らしの話も色々と教えてくれた。井戸は広場の中央、パン焼きは村の共同窯が週三回、洗濯は川で。情報量が多い。全部覚えられる気がしない。
「困ったことがあったらいつでもおいで。おばあちゃんの代わりにはなれないけど、相談相手くらいにはなれるから」
その言葉が、心の奥にしみた。五年間、パーティーで困ったことを相談できる相手がいなかったことに、今さら気づいた。
「そういえばね」
帰り際、マーサが声を低くした。
「隣のルーク、あの子は口下手だけど悪い子じゃないからね。ちょっと愛想がないだけで」
「ええ、荷物も運んでくださいましたし、道も教えてくださいました」
「あら、ルークが自分から動いた? 珍しいこともあるもんだわ」
マーサが意味ありげに笑ったけれど、意味はよくわからなかった。
帰り道、案の定少し迷った。でも今度は大きく外れる前にルークの畑の柵が見えたので、十分のロスで済んだ。進歩だと思いたい。
薬草の匂いで方角がわかるんじゃないかと試してみたけれど、風向きが変わると全然当てにならない。薬師としてはちょっと情けない。
◇◇◇
翌朝、異変に気づいた。
薬草畑に出ると、土が湿っている。昨夜は雨が降っていない。
よく見ると、畑の端から端まで、丁寧に水が撒かれた跡があった。
隣の畑を見ると、ルークが黙々と自分の畑を耕している。
「あの、もしかして……私の畑にお水を?」
「……ついでだ」
「ついで?」
「隣の畑に水を撒くついでだ」
ルークはこちらを見ずに鍬を振っている。
ついで、と言うけれど。
ルークの畑は私の小屋から見て西側にある。私の薬草畑は東側だ。「隣の畑のついで」で水を撒くには、わざわざ反対方向に来なければいけない。
まあ、深く考えるのはやめよう。ご好意はありがたく受け取るものだ。
「ありがとうございます。あ、そうだ。明日、虫除けのポーションを作るので、よかったらルークさんの畑にも撒きますね」
「……別に」
「別に、というのは『いらない』ですか、『お好きにどうぞ』ですか」
ルークが一瞬だけこちらを見た。
「……好きにしろ」
了解した。好きにする。
その日の午後、畑の半分ほどの雑草をようやく片づけた。土を掘り返すと、祖母が植えていた薬草の根がいくつか残っていた。月見草の根株が三つ、銀露草の球根がふたつ。三年経ってもまだ生きている。
「強い子たちですね……。おばあちゃんが育てた子は違うなあ」
根株に水をやりながら、少し嬉しくなった。ゼロからのスタートじゃない。祖母が残してくれたものが、土の中でずっと待っていてくれた。
夕方、小屋に戻って、祖母の調合台で虫除けポーションの仕込みを始めた。セイヨウノコギリソウの葉をすり潰して、月見草のエキスと混ぜる。すり鉢を回す手触りが懐かしい。ダンジョンではいつも急いで調合していたけれど、ここでは時間がある。
窓の外が暗くなっていた。
夜、祖母の畑の隅に、冬凪草の種を植えた。
銀色の種を五粒、丁寧に土に埋める。水をやって、そっと手のひらで土を押さえた。
「咲いたら一番大切なものがわかる、か」
空を見上げると、星がやたらと多い。王都では見えなかった星が、ここでは数え切れないほど瞬いている。
虫の声がうるさいくらいに響いていた。
明日は、もう少し遠くまで歩いてみよう。道に迷わなければ、の話だけれど。




