第10話 名前で呼んでいいか
冬凪草が、咲いていた。
春の朝。窓を開けると、薬草畑から甘い匂いが流れ込んできた。冬の間じっと耐えていた冬凪草が、銀色の小さな花を五つ、開いていた。
「咲いた……」
祖母の種が、半年かけて花になった。銀色の花弁が朝日を受けて淡く光っている。花の中心に、金色の雄蕊。こんなにきれいな花だったのか。
レオンハルトの手紙の肥料が効いたのか、ルークの水路の水が良かったのか。
たぶん、両方だ。
◇◇◇
あれから数ヶ月が過ぎた。
冬は静かだった。雪が積もって薬草畑は休眠期に入り、私は小屋の中で乾燥薬草の仕分けやポーションの仕込みをして過ごした。
調合台の上に、瓶が並んでいく。回復ポーション、解毒ポーション、鎮痛剤、虫除け。祖母の時代よりも種類が増えた。星辰草の鎮痛薬は私のオリジナルで、隣村の鍛冶屋の奥さんに大好評だ。あの迷子のおかげで見つけた薬草が、こうして人の役に立っている。
ルークは冬の間も毎朝、水路の点検に来ていた。雪の中を歩いて。
「凍結してないか確認するだけだ」と言っていたけれど、確認にしては滞在時間が長い。だいたい確認のついでにお茶を飲んで、ついでに薪を割って、ついでに屋根の雪を下ろして帰っていく。
ルークの「ついで」は、いつもそうだ。
嘱託薬師の仕事も軌道に乗っていた。リンデン村だけでなく、近隣五村からの依頼が定期的に届く。腰痛の湿布、風邪の煎じ薬、虫刺されの軟膏。大きな仕事じゃないけれど、毎日誰かの役に立っている実感がある。
先月は隣村ヴァルトまで往診に行った。もちろんルークが一緒だった。ルークがいないと私は辿り着けない。方向音痴は相変わらず治っていない。
◇◇◇
マーサが最新の噂を持ってきてくれた。蜂蜜クッキーと一緒に。
「レオンハルトのパーティー、Bランクに降格したって」
「あら」
「スポンサー全部離れて、Sランクダンジョンの攻略権も返上したらしいわ。まあ、薬師もいない、盾役も抜けたパーティーじゃ当然よね」
ガルドは回復後、パーティーを辞めたらしい。辺境の町でギルドの受付職員に転身したと聞いた。地味だけれど安定した仕事だ。ガルドには合っていると思う。あの人は、剣を振るうより人と話す方が向いている。追放の日、何も言えなかった優しさが、受付嬢として生きるかもしれない。
「レオンハルトとセレーナは?」
「別れたわよ。『あなたのせい』『あなたが吹き込んだ』って大喧嘩して。ギルドの食堂で皿が飛んだって」
皿が飛ぶ喧嘩。壮絶だ。
「レオンハルトは新しいパーティーを組み直して、中級ダンジョンからやり直してるみたい。勇者の称号は残ってるけど、実質的にはCランクと同じよ」
Cランクからのやり直し。五年前の私がパーティーに入った頃と同じだ。
少しだけ、ほんの少しだけ、レオンハルトに同情した。彼は根っからの悪人ではない。ただ、「当たり前にあるもの」の価値がわからなかった。毎朝そこにあるポーションが、どれだけの手間と技術で作られているか。隣にいる人がどれだけ自分を支えているか。失って初めて気づくのは、人間のありふれた弱さだ。
私だって同じだ。この村に来るまで、土の温かさも、朝露の冷たさも、隣にいてくれる人の存在も、当たり前だと思っていた。
でも同情はしても、戻りはしない。ここが私の場所だから。
クッキーを三枚食べた。四枚目に手を伸ばしかけて、やめた。おばあちゃんは三枚目で罪悪感を覚えたそうだけれど、私は四枚目だ。少し成長した。いや、退化か。マーサが「食べなさいよ」と笑って、結局五枚食べた。
◇◇◇
夕方、薬草畑で冬凪草の花を眺めていた。
銀色の花弁が、夕暮れの光を受けて橙色に染まっている。きれいだ。
足音がした。ルーク。
いつもの場所、畑の柵のところに立っている。今日は手ぶらだ。鍬も籠も持っていない。
「ルークさん、冬凪草が咲きましたよ。見ますか?」
ルークが柵を越えて、こちらに歩いてきた。冬凪草の前にしゃがみ込む。銀色の花を、じっと見ている。
「きれいですよね。祖母が『咲いたら一番大切なものがわかる』って書いてたんですけど」
「ナターシャ」
名前を呼ばれた。
ルークが私の名前を呼んだのは、初めてだった。
いつも「お前」か、何も呼ばないかのどちらかだった。名前を呼ぶのを避けているようにすら見えた。
「は、はい」
「その……名前で、呼んでもいいか」
ルークの耳が赤い。首まで赤い。夕焼けのせいじゃない。
名前で呼んでもいいか。今まさに呼んだのに。つまり、これからもずっと呼び続けていいかという意味だ。
「もう呼んでますよ、ルークさん」
「……違う、そうじゃなくて」
ルークが立ち上がった。目を逸らして、畑の向こうを見ている。こめかみに汗が浮いている。
「ナターシャ、って。——呼びたい」
声が小さかった。でも、はっきり聞こえた。
この人は、水路を掘る時は黙って何週間も働けるのに、名前を呼ぶのに何ヶ月もかかる。行動は雄弁なのに、言葉は不器用。でも、だからこそたった一言の「呼びたい」が、誰の愛の言葉よりも重い。
私の口元が緩んだ。止められなかった。
「どうぞ、ルーク」
さん、をつけなかった。
ルークがこちらを見た。目が合った。
笑っていた。ルークが。口元がぎこちなくて、目が少し潤んでいて、不格好で、でも、間違いなく笑っていた。
マーサが言っていた、「初めて笑った」顔。
これだ。
冬凪草の花が、風に揺れた。銀色の花弁が一枚、ふわりと宙に舞った。
『これが咲いたら、あなたの一番大切なものがわかるよ』
おばあちゃん。わかったよ。
一番大切なものは、ここにあった。薬草畑と、この村と、隣の畑の不器用な人。
冬凪草の花言葉、調べたことがない。
祖母の薬草辞典を開けば載っているかもしれない。でも、調べなくてもいい気がする。花言葉なんて誰かが決めたものだ。この花の意味は、私が自分で決める。
半年前、勇者パーティーを追い出された日に握りしめた銀色の種。あの種がここまで育ったのは、勇者の手紙の肥料と、ルークの水路と、この村の土のおかげだ。
そしてこの花が咲く頃に、「一番大切なもの」がわかった。ぴったりだ。おばあちゃん、すごいな。
春の風が、二人の間を通り抜けていった。薬草畑から甘い匂いが立ちのぼる。月見草と、銀露草と、冬凪草の。全部混ざった、ここにしかない匂い。
明日も水やりをしよう。ルークと一緒に。




