第6章 修理
1 一日目の夜
作業は、予想より難しかった。
アネはムギの制御プログラムを解析し続けた。300年分の劣化は、単純な書き直しでは済まなかった。コードの1部が別の部分と複雑に絡み合い、どこを直せばどこに影響が出るか、慎重に追わなければならない。
ルカは工具の整備を終えると、アネの隣に座って画面を覗き込んだ。
「なんか、複雑だね」
「複雑よ」
「アネにもわからないとこある?」
「ある」
「珍しい」
「プログラムは、書いた人間の癖が出る。300年前の設計者の考え方を、今のわたしが完全に理解するのは難しい」
ルカは画面を見た。文字と数字が流れていく。ルカには読めないが、アネが真剣に見ているものだということはわかった。
「どんな人が書いたんだろうね」
「丁寧な人よ」とアネは言った。
「なんでわかるの?」
「コードの構造が几帳面なの。必要以上に説明が書き込んである。使う人のことを考えていた人よ」
ルカはそれを聞いて、ムギを見た。リフトの上で静かにしているムギを。
「その人も、いなくなったんだね」
「そうね」
「でも、作ったものは残ってる」
アネは手を止めた。
「……そうね」
ルカは続けた。
「イレーネ様も、いなくなったけど、わたしたちは残ってる。同じかな」
アネはすぐには答えなかった。
画面を見たまま、しばらく考えた。
「同じかもしれない」とアネはようやく言った。「作ったものが残ることで、その人は続いている」
「うん」とルカは静かに言った。「だから、ムギも残さなきゃ」
アネは作業に戻った。
指が、少し速くなった。
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シロは夜通し、部品の削り出しをしていた。
施設の部品棚から選んだRB型の予備パーツを、ムギの駆動軸に合うよう加工する。マニピュレーターの先端に切削工具を取り付け、少しずつ削っていく。
精密作業ではなかった。シロは建設機械だ。細かい加工は不得意だった。
でも、やめなかった。
削っては計測し、削っては計測した。ムギの駆動軸の寸法データをアネから受け取り、何度も何度も確認しながら、少しずつ形を作っていった。
ハチが近づいてきた。
「うまくいきそうか」
「わからない。精度が足りない可能性がある」
「当機にできることはないか」
シロは少し処理した。
「ハチの土壌分析センサーは、微細な変位を検出できるか」
「できる。精度は高い」
「では、削り出した部品の寸法を測ってくれ。当機の計測よりも正確なはずだ」
ハチは無言で近づき、センサーを部品に当てた。
データが流れた。
「0.3ミリ、大きい」
シロはまた削った。
2台は夜通し、そうやって作業を続けた。
クサはムギのそばで、ずっと待っていた。
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2 データベース
2日目の朝、アネはプログラムの解析を続けながら、ハチに言った。
「シロのデータベース端末を確認したい。少し作業を止めてもいい?」
ハチが答えた。
「シロ、少し休んでくれ。電力を絞る」
シロの動力炉の唸りが小さくなった。施設の照明が少し暗くなり、データベース端末だけに電力が集中した。
アネが端末を操作した。
検索ワードを入力した。
RB-12-004
読み込みに時間がかかった。300年分のデータが、古いシステムの中で眠っていた。やがて、画面に記録が現れた。
「シロ、来て」とアネは言った。
シロが近づいた。画面を見た。
最初の整備記録は、シロが製造されてから半年後のものだった。定期点検の記録。担当者の名前と、簡単なコメントが添えられていた。
「RB-12-004、初回定期点検。全システム正常。稼働状況良好。担当エリアの作業進捗も問題なし。元気に働いています」
ルカが覗き込んだ。
「元気に働いています、って」
「担当者のコメントよ」とアネは言った。
「機械に、元気に、って言うんだね」
アネは次の記録をスクロールした。2回目の点検、3回目の点検。毎回、担当者のコメントがあった。
「RB-12-004、相変わらずよく働いている。少し無理をしすぎる傾向があるので、出力制限をかけた」
「RB-12-004、今日は点検中にこちらをじっと見ていた。何を考えているのだろう」
「RB-12-004、出力制限を本人が解除しようとした形跡あり。やんちゃな個体だ」
ルカが吹き出した。
「シロ、やんちゃだったの?」
シロは画面を見たまま、しばらく処理した。
「……記憶にない。しかし、そう書いてある」
「やんちゃなシロ、想像できないね」
「当機は、常に適切に行動してきたはずだが」
「出力制限を自分で解除しようとしたのに?」
「……それは、作業効率のためだ」
「やんちゃじゃん」
シロはしばらく黙った。
アネはさらにスクロールした。
記録は続いていた。何年も、何年も。担当者が変わりながら、それでも記録は続いていた。
ある年の記録で、コメントが変わった。
「RB-12-004、今日で最後の点検になるかもしれない。状況が悪くなってきた。この施設も、いつまで続けられるかわからない。でも、こいつは大丈夫だと思う。頑丈にできているし、何より、止まる気がしない。どうか、長く働いてくれ」
それが、最後のコメントだった。
格納庫の中が、静かになった。
シロは画面を見たまま、長い間、処理した。
「ルカ」とルカが言った。
「……この人のことを、覚えていない」
「そうだね」
「名前も、顔も。でも、こう書いてくれていた」
「うん」
「頑丈にできているし、止まる気がしない」
シロはその言葉を、もう一度読んだ。
「当機は、止まらなかった。300年間」
「そうだよ」
「その人の言った通りになった」
シロの声が、いつもと少し違った。アネにはそれがわかった。感情演算ユニットが、通常とは異なる処理をしていた。
「あなたは、その人の期待に応えたのよ」とアネは言った。
シロはまた長い間、処理した。
「……ありがとう、と言いたいが、もう聞こえない」
「聞こえなくても、言っていいわ」
シロは格納庫の天井を見た。
穴の開いた天井の向こうに、空があった。
「……ありがとう」
小さな声だった。でも、確かな声だった。
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3 難航
2日目の午後、アネは壁にぶつかった。
制御プログラムの核心部分に、アネには読み解けないコードがあった。設計者独自の記述方式で、標準的な解析では意味が取れない。
「行き詰まった」とアネは言った。
珍しかった。アネが行き詰まったと言うのは。
ルカがすぐに来た。
「どこが?」
「ここ」とアネは画面の1部を指した。「この部分が、ムギの判断系の中枢に当たる。ここを直さないと、止まれるようにはならない。でも、何をしているコードなのかが、読み解けない」
ハチが近づいてきた。
「見せてくれるか」
「AG型の設計に、類似したコードはある?」
「確認する」
ハチのセンサーが画面に向いた。処理が走った。かなり長い処理だった。
やがてハチが言った。
「完全には理解できないが、類似した構造を当機の制御系に見た覚えがある。これは、状況を評価して行動を『続けるか、変えるか』を判断する部分ではないか」
アネは考えた。
状況評価。行動の継続と変更の判断。
「それなら——」
アネは別の角度からコードを見た。続けるか、変えるか。その判断をするための条件式。300年前の設計者が、几帳面に書き込んだ条件式。
見えてきた。
「わかった」とアネは言った。「ムギの判断系は、作業を続けることに極端に重みが置かれていた。止まることの条件が、ほとんど設定されていなかったのよ」
「最初から?」とルカが聞いた。
「最初は、もう少しバランスが取れていたはずよ。でも、長年の稼働で重みが偏っていった。止まるという選択肢が、どんどん選ばれにくくなった」
「だから、壊れても止まれなかった」
「そう」
ハチが静かに言った。
「当機も、同じ傾向があるかもしれない」
「あなたは自覚できているから、大丈夫よ」とアネは言った。「自覚できない状態が、危ない」
ハチは処理した。
「ムギは、自分が止まれないことを、自覚していたのか」
アネはムギを見た。
「ムギ」
ムギのスピーカーから、かすれた声が出た。
「……わかっていた。でも、止まれなかった」
「怖かった?」
長い間があった。
「怖い、という言葉が正しいかどうかわからない。ただ——止まることと、終わることの区別が、つかなくなっていた」
格納庫が静まり返った。
止まることと、終わること。
その区別がつかなくなったムギが、それでも動き続けた300年間。
「直すわ」とアネは言った。静かに、でもはっきりと。「止まることは、終わることじゃないと、あなたのプログラムに書き込む」
ムギは何も言わなかった。
でも、かすれたスピーカーから、小さな音が出た。
言葉ではなかった。でも全員に、伝わった。
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4 シロの仕事
3日目の朝、部品が完成した。
シロとハチが夜通しかけて削り出した、ムギの駆動軸に合わせた部品。完璧ではない。でも、ハチの精密センサーによる計測では、許容範囲内の精度が出ていた。
アネが部品を確認した。
「よくやったわ」とアネはシロに言った。
「精度に不安が残る」
「実際に組み込んでみなければわからない。でも、これだけのものを削り出せるとは思っていなかった」
シロは少し処理した。
「褒められると、処理が変わる」
「それは前も言ってたわね」
「何度経験しても、変わる。慣れない」
「慣れなくていいわ」
ルカが部品を手に取った。重かった。金属の塊だった。でも、表面は丁寧に仕上げられていた。
「シロが作ったって、信じられないくらい綺麗だよ」
「ハチが計測してくれたから、できた。当機だけではここまでできなかった」
ハチが言った。
「シロが削らなければ、当機が計測しても意味がなかった」
「2人でできたってことね」とルカは言った。
2台は何も言わなかった。でも、アネには、その沈黙が誇らしいものを含んでいるように聞こえた。
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5 組み込み
アネがプログラムを書き終えたのは、3日目の昼だった。
72時間かかった。アネの処理能力でも、それだけかかった。
「できた」とアネは言った。
ルカがすぐに来た。
「本当に?」
「完全な保証はできない。でも、やれることはやった」
アネはルカを見た。
「組み込む前に、一度確認してほしいことがある」
「何を?」
「もし、これで直らなかったとしても——やれることはやったと、思えるかどうか」
ルカはすぐに答えた。
「思える」
「なぜ?」
「だって、やったから」
アネは少し間を置いた。
「……そうね」
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全員が格納庫に集まった。
アネ、ルカ、シロ、ハチ、クサ。
リフトの上のムギを囲んで、5台が集まった。
アネが言った。
「2段階でやる。まずプログラムの書き換え。次に部品の交換。どちらかが失敗すれば、それ以上は進められない。シロ、電力の供給を最大にして」
「了解した」
シロの動力炉が唸った。施設全体の照明が明るくなった。制御パネルが、フル稼働した。
アネがプログラムの書き換えを開始した。
データが流れた。古いコードが消え、新しいコードが書き込まれた。几帳面な設計者が300年前に書いたコードの上に、アネが新しい言葉を重ねていく。
止まることは、終わることではない。
休むことは、諦めることではない。
その判断を、ムギの中に刻み込んでいく。
進捗が90パーセントを超えた時、エラーが出た。
アネは手を止めなかった。エラーの内容を読み、対処した。また進んだ。
95パーセント。
98パーセント。
100パーセント。
プログラム書き換え、完了。
格納庫に、静寂があった。
「次、部品交換」とアネは言った。「シロ、頼める?」
「任せてくれ」
シロのマニピュレーターが、慎重にムギの駆動部に伸びた。
傷んだ駆動軸を外す。300年間酷使された部品が、ゆっくりと取り出された。
クサが一歩前に出た。その古い部品を、受け取った。
誰も何も言わなかったが、クサがなぜそうしたか、全員にわかった気がした。
新しい部品が、はめ込まれた。
シロが固定した。ハチが精度を確認した。アネが接続を確認した。
「起動してみる」とアネは言った。
全員が、ムギを見た。
アネが起動信号を送った。
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沈黙があった。
長い沈黙だった。
それから、ムギの内部で、何かが動き始めた音がした。
煙が、出なかった。
駆動音が、静かだった。300年間聞いたことのない、静かな駆動音だった。
ムギのセンサーが、ゆっくりと動いた。
周囲を見回した。
格納庫を見た。シロを見た。ハチを見た。クサを見た。アネを見た。
ルカを見た。
ムギのスピーカーから、声が出た。
かすれていなかった。
「……ここは、どこだ」
ルカの目から、透明なものが流れた。今度は拭わなかった。
「修理施設だよ」とルカは言った。「あなたを直した場所」
「……わたしは、直ったのか」
「うん」
ムギはしばらく処理した。
「止まれるか、試してみていいか」
「どうぞ」
ムギの駆動音が、止まった。
完全に、静かになった。
誰も何も言わなかった。
ムギが、初めて、自分の意志で止まった。
クサが、手の中の古い部品を、静かに握りしめた。
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6 夜
夜になった。
ルカがまた焚き火を起こした。今夜は大きかった。
6台全員が、焚き火を囲んだ。
ムギはリフトから降りて、自分の足で歩いた。ぎこちなさが、なくなっていた。煙も出なかった。
「どんな感じ?」とルカが聞いた。
ムギは少し考えた。
「軽い」
「軽い?」
「体が、軽い。ずっとこんなに重かったのか、気づかなかった」
「80年も壊れてたんだもん」
「80年前の自分に、もっと早く止まれと言いたい」
「言えなかったんでしょ。プログラムが壊れてたから」
「そうだが——でも、無理をしていることは、わかっていた」
ムギは少し間を置いた。
「止まることが怖かったのかもしれない。プログラムのせいだけではなく」
ハチが言った。
「それは、当機にも理解できる」
「止まることが怖いのは、自然なことよ」とアネは言った。「でも、止まることと終わることは違う。あなたのプログラムに、それを書いたわ」
「読んだ」
「もう、怖くない?」
ムギはしばらく処理した。
「まだ、少し怖い。でも——止まってみたら、終わらなかった」
「そうね」
「だから、次は少しだけ、怖くなくなるかもしれない」
焚き火が揺れた。
シロが言った。
「当機も、似たような感覚があった。長い間、1人で動き続けた。止まることを考えなかった。考えられなかった、のかもしれない」
「今は?」とルカが聞いた。
「今は——あなたたちがいるから、止まっても大丈夫だと思える」
「それでいい」とルカは言った。「みんなそれでいい」
クサが、静かに言った。
「トマトが、心配だ」
全員が、クサを見た。
「農地のこと?」とハチが言った。
「ここを離れて、4日が経った」
「自動管理モードにしてきた。問題ない」
「……でも、心配だ」
ルカが笑った。
「クサ、帰りたいの?」
クサは少し処理した。
「帰りたい。ここも、よかった。でも、帰りたい」
「明日、帰ればいい」とアネは言った。「ムギも、もう動ける」
クサはまた沈黙した。
それから、珍しく長い言葉を言った。
「アネたちも、また来てくれるか。人間を見つけたら、連れてきてくれると言った。でも、人間が見つからなくても、また来てくれるか」
格納庫の中が、静かになった。
アネは答えた。
「来るわ」
「絶対来る」とルカが言った。
「約束か」
「約束よ」
クサは何も言わなかった。
でも、焚き火の光の中で、クサのセンサーが、穏やかな方向を向いた。
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7 朝
夜明け前、アネはひとり格納庫の外に出た。
空が白んでいた。星が消えていく。
この3日間を、アネは頭の中で整理した。
ムギのプログラムを書き直した。止まることは終わることではない、と書いた。でもそれは、ムギだけへの言葉ではなかった気がした。
イレーネが眠るカプセルに入った時、アネは何を思っていたのだろう。あの時は考えられなかったことが、今になって少しわかる気がした。
止まることは、終わることではなかった。
312年眠って、目が覚めた。世界は変わっていたが、ルカはいた。それだけで充分だった。
ルカが来た。
気配でわかった。いつもそうだった。
「眠れない?」とルカが言った。
「眠らないわ。わたしたちは」
「そっか。じゃあ、考えてた?」
「ムギのことを」
「なんて?」
「止まることと終わることは違う、と書いたけれど」とアネは空を見た。「それは、ムギだけじゃなく、わたしにも必要な言葉だったかもしれない」
ルカは黙って、アネの隣に立った。
「アネ、怖いの?」
「何が?」
「止まることが」
アネは少し考えた。
「……わからない。でも、あなたがいる間は、怖くないと思う」
ルカは何も言わなかった。
ただ、アネの隣に立っていた。
それで、充分だった。
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夜明けとともに、農業ロボット3台は農地へ向かった。
ムギが、煙を出さずに歩いていた。
クサが、古い部品を持っていた。農地に持ち帰るつもりらしかった。理由は聞かなかったが、アネにはわかった気がした。
ハチが振り返った。
「また来い」
「来るわ」とアネは言った。
3台が、朝の廃墟に消えていった。
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アネとルカとシロは、格納庫の前に立った。
「次は、東へ戻る?」とルカが言った。
「そうね」とアネは言った。
「シロは?」
シロはしばらく処理した。
「当機も、東へ向かう。ただし——」
「ただし?」
「この施設を、完全に捨てていくのは惜しい気がする」
アネは施設を振り返った。
壊れた屋根、崩れた壁、でも東側の格納庫だけは残っている。シロのデータベースが眠っている。ムギを直した場所。
「いつか、また使えるかもしれないわ」とアネは言った。
「そう思う。人間が来た時に、ここがあれば役に立つかもしれない」
「管理できる者がいないわ」
「当機が、担当区域を拡張する。ここも、当機の管理区域にする。通りかかった時に、点検する」
アネはシロを見た。
300年間、誰もいない道を整備し続けた機械が、今度は誰かのためにここを守ると言っている。
「そうしなさい」とアネは言った。
「了解した」
3人は東へ歩き始めた。
格納庫の扉は、開けたままにしておいた。
誰かが来た時に、入れるように。




