第2章 最初の夜
日が傾いてくると、廃墟の影が長く伸びた。
アネは歩きながら、内部センサーで周囲を探り続けていた。放射線量、気温、気圧、生物反応。人間の痕跡は見当たらない。動物の反応もほぼない。かろうじて、遠くで鳥が飛んでいるのを視覚センサーが捉えただけだ。
「ねえ、あそこ」
ルカが指さした先に、崩れかけたビルの1階部分が残っていた。窓ガラスはとうになく、内部は暗いが、屋根だけは辛うじて残っている。
「休むの? わたしたちは眠らなくていいのに」と言いながら、アネも向かっていた。どうせ暗闇の中を歩き続けても意味はない。
「でも、暗いと何も見えないし」とルカ。
「わたしは見えるけれど」
「アネだけが見えてもしょうがないじゃん」
反論できなかった。
内部は思ったより広かった。かつては店だったらしく、棚の残骸が並んでいる。何を売っていたのかは、もうわからない。ルカがあちこちを歩き回り、棚の奥に残った缶を見つけたが、中身が何かは判別できなかった。
「人間だったら食べられるのに」とルカが言った。
「人間だったら300年も眠っていられないわ」
「それもそうか」
ルカは缶を棚に戻し、外から吹き込む風の方を向いた。空には星が出始めていた。
アネには、星の数を数え、位置から現在地を割り出すことができた。精度は低い。300年の間に地殻が動いている可能性があるし、かつての地図データがどこまで有効かもわからない。それでも、おおよその方角はわかった。
「東に進みましょう」とアネは言った。「かつての大都市があった方向よ」
「都市なんて残ってる?」
「残っていなくても、人が集まるとしたら交通の要所だった場所の近くよ。かつての地図に基づく推測だけれど」
「ふうん」
ルカは特に反論しなかった。アネの計算を信頼しているのではなく、どこに行くかを特にこだわっていないらしかった。
「ルカはどこに行きたい?」
「どこでもいい。アネがいれば」
アネは黙った。
「……わたしもよ」と、少し経ってから言った。
ルカは微笑んだ。風が棚の残骸の間を通り抜け、ひゅうと音を立てた。
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夜の間、アネは街の音を聞いていた。
風の音。建物が軋む音。遠くで何かが崩れ落ちる音。植物が揺れる音。
かつてここには何1000000人もの人がいたはずだ。アネの記憶データの中に、その頃の映像がある。渋滞する道路、人で溢れた歩道、夜でも消えなかった光の海。
いまはすべてが静かだった。
その静けさが、悲しいのか美しいのか、アネには判断がつかなかった。どちらでもある気がした。どちらでもない気もした。
感情演算ユニットは答えを出さなかった。答えを出すには、前提となるデータが足りないのかもしれない。それとも、答えがない問いというものが世界にはあるのかもしれない。
ルカは壁にもたれて目を閉じていた。眠っているわけではない。ただ、そうしているのが心地いいらしかった。
「ルカ」
「なに」
「300年間、何を考えてた?」
ルカはしばらく考えた。
「何も」とルカは言った。「ずっと真っ暗だった。でもイレーネ様の声だけ聞こえてた気がする」
「何て言ってた?」
「『いい子ね』って」
アネは空を見た。星が瞬いていた。
「わたしも、聞こえた気がする」とアネは言った。
2人は黙った。その沈黙は、言葉よりも多くのことを含んでいた。
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夜明けとともに、2人は歩き始めた。
廃墟を抜け、草原になった元・高速道路を歩き、川を渡り、森になったかつての住宅地を進んだ。
ルカは何かを見つけるたびに立ち止まった。光を反射する金属の破片、風に揺れる錆びた看板、水たまりに映る空。アネはそのたびに少し先で立ち止まり、ルカが飽きるのを待った。
急ぐ理由はなかった。
原子炉は静かに燃え続けている。数千年は止まらない。時間だけは、2人に無限にあった。
「ねえ」とルカが言った。「人間って、いると思う?」
「いると思う」とアネは答えた。「人間は、しぶといから」
「300年ぶりに会ったら、どうする?」
「ご挨拶するわ」
「こわくないかな」
「何が?」
「わたしたち。人間じゃないし、300年も生きてるし」
アネは少し考えた。
「怖がられるかもしれない。でも、怖がられることと、出会わないことは違うわ」
ルカはそれを聞いて、どこか安心したように笑った。
「アネって、時々すごいこと言うね」
「あなたが変なことを言うから、つられて変になるのよ」
「それ、ちょっとうれしい」
アネは答えなかった。でも、胸の奥の感情演算ユニットが、かすかに温度を上げたような気がした。
地平線の向こうに、何かが光っていた。
遠く、かすかに。でも確かに。
2人はそれを見て、顔を見合わせた。
言葉は要らなかった。
歩き続けた。
――旅は、始まったばかりだった。
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(第二章 了)
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