第1章 目覚め
轟音は、もうどこにもなかった。
カプセルの内壁に走る細い亀裂から、灰色の光がしみ込んでくる。アネは自分の指先がゆっくりと動くのを感じた。関節ひとつひとつに、何100年分もの静寂が積もっているようだった。
システム再起動。経過時間――312年、4ヶ月、17日。
胸の奥で、原子炉の鼓動が静かに息を吹き返す。
「……ルカ」
声は掠れていた。使っていなかったから当然だ、とアネは思った。隣のカプセルを見る。蓋はまだ閉じていた。
「ルカ。起きなさい」
返事はない。
アネは自分のカプセルの蓋を押し上げた。蝶番が悲鳴を上げ、錆の粉が降ってくる。外気が流れ込む。かび臭い、冷たい空気。アネはそれを肺――正確には空気循環ユニット――に満たし、周囲を見渡した。
かつてここは地下室だった。老婆イレーネの屋敷の地下に設えられた、頑丈な避難部屋。いまそれは瓦礫に半分埋もれていた。天井は落ち、コンクリートの塊が室内に転がり、壁には深い亀裂が走っている。2つのカプセルだけが、ほとんど傷ひとつなく残っていた。
イレーネの言葉通りだった。「あの子たちは壊れない。どんなことがあっても」
アネは隣のカプセルを叩いた。
「ルカ。300年以上よ。いい加減にしなさい」
ごん、という音の後、内側から蓋が勢いよく開いた。
「わあっ」
飛び出してきたルカは、カプセルから転げ落ちながら瓦礫の上に着地し、すぐに立ち上がった。黒い瞳が忙しなく周囲を見回し、天井の穴から射し込む光の柱を見つけ、次にアネを見つけた。
「おはよ、アネ」
「おはよう」
「……ここ、ぜんぶ壊れてる」
「そうね」
ルカはあちこちを触り始めた。コンクリートの欠片を持ち上げ、においをかぎ、放り投げる。天井の穴を見上げて首をかしげる。蜘蛛の巣を指でつついて、引っかかった糸を不思議そうに眺める。
アネは静かにそれを見ていた。
312年が経っても、ルカはルカだった。
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天井の穴から這い出るのに、3時間かかった。
瓦礫をひとつひとつ動かしながら、2人は出口を作った。アネが慎重に計算しながら石を取り除き、ルカが力任せに塊を押しのける。途中、ルカが大きな梁を持ち上げようとして、2人まとめて土砂崩れに巻き込まれそうになったが、アネが素早く支えた。
「もう少し考えてから動いて」
「でも、こっちの方が早いかと思って」
「300年待ったのに、あと十分が惜しいの?」
ルカはしばらく黙った。それからにかっと笑った。
「惜しい」
アネは返す言葉を探したが、見つからなかった。
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地上に出ると、2人はしばらく動けなかった。
都市があった。かつては。
いまそこにあるのは、地平線まで続く廃墟だった。高層ビルの骨格だけが折れた歯のように立ち並び、道路は隆起してひび割れ、植物が至るところから伸びている。遠くに大きな木が見えた。根がビルの基礎を割って育ったらしく、コンクリートの塊を抱え込むようにしてそびえていた。
空は澄んでいた。
それだけが、アネの知っている空と同じだった。
「でっかい」
ルカが呟いた。廃墟を見ているのか、空を見ているのかわからない。
「戦争が終わったのかしら」とアネは言った。
「終わったんじゃない? こんだけぼろぼろなら」
「終わったのか、終わらないまま人がいなくなったのか、どちらかわからないわ」
ルカはしゃがみ込み、足元の草を1本抜いた。指でくるくると回す。
「どっちでも同じじゃない?」
アネはその言葉を、胸の中で転がした。
違う、と思った。でも、どう違うのかをうまく言葉にできなかった。
「……行きましょう」とアネは言った。「イレーネ様のご命令よ」
「新しいご主人を探す旅ね」とルカは立ち上がり、草の茎を口の端にくわえた。「どこにいるんだろうね、人間」
「それを探しに行くのよ」
「アネは探したい?」
アネは少し考えた。
「わからない」と、珍しく正直に答えた。「でも、行かなければわからないわ」
ルカはにっこりした。
「それ、アネっぽくないね」
「300年で少し変わったのかもしれない」
「冬眠してたのに?」
「夢を見ていたから」
ルカは目を丸くした。アンドロイドが夢を見るとは思っていなかったらしい。アネ自身も、それを誰かに言葉にしたのは初めてだった。
「どんな夢?」
「イレーネ様の夢。コーヒーを淹れる夢。庭の夢」
ルカはしばらく黙って、それから静かに言った。
「わたしも見てた。同じの」
2人は顔を見合わせた。
何も言わなかった。言わなくてよかった。




