第16章 集まるもの
1 ミツの日々
ミツは東の盆地に、溶け込んだ。
予想より、速かった。
最初の夜、老人が集まってきた。ミツより若い人間たちが、ミツの周りに座った。話を聞いた。廃都市に何があったか。どんな人間たちがいたか。
ミツは止まらなかった。
70年分の言葉が、溢れてくるようだった。
「話すのが、好きなのね」とルカがアネに言った。
「書くことと、話すことは違うって言っていた。書くより、話す方が止まらないのかもしれない」
「書くのは整理した言葉、話すのは整理されていない言葉、って言ってたから」
「そうね。整理されていない言葉の方が、溢れる」
ルカはミツを見た。
「良かった」
「何が?」
「あの人が、ここに来て良かった。声が、出てる」
アネもミツを見た。
地下で1人、書き続けていた老人の声が、集落の夜に響いていた。
「良かった」とアネも言った。
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3日目、ミツがハルに何かを教えていた。
地面に棒で、文字を書いていた。
ハルが真剣な顔で見ていた。
「なんて書いてあるの?」とハルは言った。
「ミツ、だ」とミツは言った。
「ミツって、じぶんの名前?」
「そうだ」
「ぼくは書ける?」
「書いてみろ」
棒をハルに渡した。ハルが、ゆっくりと地面に書いた。うまくいかなかった。また書いた。
「ちがう」
「どこが違う?」
「こっちが、もっと丸い」
「もう一度」
ハルがまた書いた。
今度は少し近かった。
「できた?」とハルは言った。
「近い」とミツは言った。「もう少し練習すれば、できる」
「また明日やる」
「そうしろ」
アネはその様子を見ていた。
シロが隣に来た。
「文字を教えている」
「そうね」
「この集落に、文字を読める人間は何人いるか」
「あまりいないわ。口伝えで続けてきた集落が多い」
「ミツの記録を読める人間が必要だ」
「そうね。ミツが教えれば——」
「時間がかかる」
「時間はある」
シロは少し処理した。
「……当機も、教えることができるか」
「あなたが文字を?」
「当機は、大量のデータを記録している。記号の形なら、正確に再現できる」
アネはシロを見た。
「道を整備してきた機械が、文字を教える」
「変か」
「変ではない。むしろ——良いと思う」
シロはハルとミツを見た。
「では、1緒に教える。ミツが内容を教え、当機が字形を補助する」
「ミツに聞いてみて」
シロがミツに近づいた。
ミツはシロを見上げた。
「文字を教えることを、手伝いたい」とシロは言った。
「あなたが?」
「当機は字形を正確に再現できる。板に書き込むこともできる。参考にしてもらえれば」
ミツはしばらく考えた。
「……面白い組み合わせだな。老人と重機が、子どもに文字を教える」
「変か」
「変だが、良い」
「では、頼む」
「こちらこそ」
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2 ケンとミツ
5日目の夜、ケンとミツが話していた。
アネは少し離れて聞いていた。
「廃都市には、まだ何かあるか」とケンは言った。
「ある」とミツは言った。「地下に、道具が残っている。使えるものも、まだ多い」
「取りに行けるか」
「案内はできる。でも、1人では無理だ。人手が必要だ」
「来年、行けるかもしれない。山の集落の人たちとも、協力して」
ミツは少し考えた。
「山の集落、とは」
アネが説明した。
北の山岳地帯に11人。来年の雪解けに動く予定の老人がいる。ユキという機械もいる。
ミツは聞いていた。
「ユキ、という機械は——」
「情報収集型よ」とアネは言った。「ソラと同じ組織の機械だった可能性がある」
「ソラとユキが、繋がった」
「繋がったわ。通信が取れている」
「3か所の人間と、複数の機械が——少しずつ繋がっている」
「そうね」
ミツはしばらく黙った。
「わたしが記録してきた世界より、良い世界になっている」
「どういう意味?」
「わたしが知っていた世界は、戦争の後の世界だった。人間が少なくなって、機械が止まっていく世界だった。でも——今は、逆に動いている」
「逆に?」
「人間が繋がっていく。機械が目覚めていく。そういう方向に、動いている」
ケンが言った。
「あなたたちが来なければ、こうはならなかった」
「でも、来た」とアネは言った。
「来た」とミツも言った。「だから、こうなっている」
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3 南からの客
10日目の朝、見張りをしていたカナタが言った。
「南から、人が来る」
全員が見た。
3人の人間が、南の方角から歩いてきていた。
遠目に見ても、見知った顔だった。
「マチだ」とアネは言った。
南の海岸の集落から来ていた。マチと、2人の若者だった。
「来てくれた」とルカが言った。
ハルが走った。
「だれかきた!」
マチが近づくと、ハルを見て笑った。
「元気そうね」
「はじめまして!」とハルは言った。
「元気すぎる子ね」とマチは言った。
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マチが来た理由は、2つあった。
1つは、干し魚を持ってきた。東の盆地の農作物との交換のために。
もう1つは、医療の話を聞きたかった。
「集落に、病人が1人いる」とマチは言った。「何が悪いのか、わからない。あなたたちが医療設備の場所を探すと言っていたから、聞きに来た」
アネはソラに通信を入れた。
「ソラ、医療設備の候補地を教えてくれる?」
「調べていました。3か所、候補があります。一番近いのは——東の盆地から南に3日ほどの場所にある、旧医療研究施設の跡です。地下に設備が残っている可能性があります」
「状態は?」
「不明ですが、建物の構造は比較的しっかりしていると記録にあります」
「マチ、聞こえた?」
「聞こえた」とマチは言った。「3日か。行けない距離じゃない」
「わたしたちが案内できる」
「頼めるか」
「頼める。でも、設備が使えるかどうかは行ってみないとわからない」
「行かなければ、わからないままだ」
アネは少し驚いた。
「わたしが言いそうな言葉ね」
「あなたから教わった言葉かもしれない」とマチは笑った。
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4 交換
その日の午後、集落の広場で交換が行われた。
マチが持ってきた干し魚と、集落の農作物を交換した。
シンプルだった。量を話し合い、双方が頷いた。それだけだった。
「初めて、他の集落と交換した」とケンは言った。
「初めてか」とマチは言った。
「あなたたちが最初の客だ。物を交換する、という意味では」
「こちらも、同じだ。ここまで来たのは初めてだ」
「遠かったか」
「遠かった。でも、来た価値があった」
「また来るか?」
「来る。あなたたちも来るか?」
「行く」
2人は笑った。
アネはその様子を見ていた。
人間同士が、物を交換した。初めて。
それだけのことだが、それだけのことではなかった。
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ミツがマチに話しかけた。
「南の海岸は、どんな場所か」
「岩が多い海岸線だ。魚が豊富だが、農地が少ない」
「記録したい。教えてくれるか」
「記録?」
「わたしは記録を続けている。世界のことを。今の世界のことも、記録したい」
マチはミツを見た。
「……あなたが、廃都市で記録を書き続けていた人か。アネから聞いた」
「そうだ」
「1人で、長い間」
「そうだ」
マチはしばらく考えた。
「話す。全部話す。南の海岸のことを」
「ありがとう」
「礼はいらない。残してほしい。わたしたちのことを」
「残す。約束する」
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5 旧医療施設へ
翌朝、南へ向かった。
マチと若者2人、アネたち5台。
3日の道のりだった。
ソラが教えてくれた場所は、かつての大学病院の跡だった。
建物が残っていた。壁が崩れ、屋根が落ちている部分があったが、地下は構造が保たれていた。
シロが超音波で確認した。
「地下2階まで、構造が生きている。電力はないが、空間は残っている」
「中に入れる?」
「入れる。ただし、1部に瓦礫がある。除けながら進む必要がある」
シロが先行した。
地下への階段を掘り出した。
1時間かけて、入口を開けた。
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地下は広かった。
廊下が続いていた。扉が並んでいた。
アネが照明を上げて、内部を確認した。
機器が残っていた。
300年の時間で、多くが使えなくなっていた。でも、全てではなかった。
金属製の器具は、錆びていたが形を保っていた。薬品の棚は、大半が劣化していたが、密封されたものが1部残っていた。
「使えるものがある」とアネは言った。
「どんなものが?」とマチは言った。
アネが棚を調べた。
「基本的な外科器具。密封された包帯類。消毒薬の1部。それと——」
奥の部屋に入った。
「診断機器が残っている。電力があれば動く可能性がある」
「電力は?」
「シロ」
「当機が供給できる。短時間なら」
「試してみる価値がある」
マチが言った。
「集落の病人に、ここに来てもらえれば——」
「ここまで連れてくるのは難しい」とアネは言った。「使えるものを持ち帰る方が現実的よ。それと——」
「それと?」
「使い方を、記録する。次に来た時に持って帰れるように」
マチは頷いた。
「それが良い」
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1日かけて、使える器具を記録した。
アネが1つずつ確認し、用途と使い方を記録した。マチが聞いた。若者2人が書き留めた。
シロが電力を供給し、診断機器を起動させた。
完全には動かなかった。でも、基本的な診断機能は生きていた。
「これで、何がわかる?」とマチは言った。
「体温、心拍、血中酸素濃度くらいは計れる。それと、簡単な画像診断」
「集落の病人に使えるか」
「使えるかもしれない。ただし、結果を解釈できる人間が必要だ」
「医療の知識がある人間は、いない」
「ソラが、医療の本の場所も記録していた。山の集落の岩の下に残っていた本の中に、医療書があったはずよ」
「北の山岳地帯か。遠い」
「でも、次にわたしたちが行く時に、持ってくることができる」
「頼めるか」
「頼める」
マチは少し考えた。
「少しずつ、揃っていくな」
「そうね。一度には揃わない。でも、少しずつ」
「急がなくていいのか」
アネは少し考えた。
「急いだ方が良い場合もある。でも——急ぎすぎると、大事なものを見落とす。少しずつ、確実に進む方が、長続きする」
「機械から、そんな言葉を聞くとは思わなかった」
「300年以上、動いてきたから」
「なるほど。経験の重さが違う」
アネは少し笑った。
「経験の重さは、そうかもしれない。でも、判断は人間がした方がいい。わたしたちは情報を集めて、選択肢を示す。決めるのは、あなたたちの方が良い」
「なぜ?」
「あなたたちが生きる世界だから」
マチは黙った。
長い沈黙だった。
「……ありがとう」とマチは言った。
「どういたしまして」
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6 帰り道
東の盆地への帰り道、マチが歩きながら言った。
「アネ、1つ聞いていいか」
「どうぞ」
「あなたたちは、ずっと旅を続けるのか」
「続けるつもりよ」
「目的は何だ」
アネは少し考えた。
「最初は、新しいご主人を探すことだった」
「今は?」
「今は——繋げること、だと思っている」
「繋げること」
「孤独だったものを、繋げる。人間と人間を。機械と機械を。人間と機械を。それが、今の旅の意味だと思っている」
「それは、誰かに頼まれたことか」
「頼まれていない」
「なぜ、やる?」
アネはしばらく歩きながら考えた。
「やりたいから」と言った。
「それだけか」
「それだけよ」
マチは少し笑った。
「シンプルだな」
「シンプルの方が、長続きする」
「また経験の重みか」
「そうね」
マチは空を見た。
「やりたいことをやる、か。わたしも、そうありたいと思っている。でも、なかなか難しい」
「何が難しい?」
「集落のこと、みんなのことを考えると、自分がやりたいことが後回しになる」
「何をやりたいの?」
マチは少し間を置いた。
「海の向こうを、見たい」
「海の向こう?」
「ここから見える海の、その向こうに何があるか、知りたい。子どもの頃からの夢だ。でも、1人では行けない。集落があるから、離れられない」
アネはマチを見た。
「いつか、行ける日が来るかもしれない」
「来ると思うか」
「来ると思う。集落が安定して、他の集落と繋がれば——1人が少し離れても、大丈夫になる。そういう日が来る」
「機械が、そう言うのか」
「計算した結果よ」
マチは少し笑った。
「じゃあ、信じる」
「信じなくていい。でも——やりたいことを、忘れないで」
「忘れない。あなたに言われたから」
「わたしが言ったから忘れないのは、少し違うわ」
「そうか。では——自分が大事にするから、忘れない」
「それが良い」
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ルカがマチに追いついた。
「マチ、さっきから何を話してたの?」
「やりたいことの話だ」
「何をやりたいの?」
「海の向こうを、見たい」
ルカは目を輝かせた。
「いいね。わたしも見たい」
「機械も、そういうことを思うのか」
「思う。行ったことのない場所に行きたい。会ったことのない誰かに会いたい。それが旅の面白さだと思ってる」
「あなたたちの旅は、まだ続くのか」
「続く」とルカは言った。「終わる気がしない」
「良い旅だな」
「良い旅だよ。マチも、1緒に来る?」
「集落がある」
「たまには来てもいい」
マチは少し考えた。
「……そうだな。たまには、来るかもしれない」
「来たら、また1緒に歩こう」
「そうしよう」
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7 戻った夜
東の盆地に戻ると、ミツが待っていた。
「遅かった」
「予定通りよ」
「心配した」
「心配できるようになったのね」
ミツはアネを見た。
「笑っているのか?」
「少し」
「機械が笑うのか」
「笑えるようになってきた」
ミツは少し考えた。
「……良いことだ」
マチがミツに言った。
「記録を続けてくれ。南のことも、頼む」
「続ける。話してくれたことは、全部書いた」
「全部? 昨日の話を?」
「そうだ。夜の間に書いた」
「眠らなかったのか」
「書きたいことがあると、眠れない」
マチは笑った。
「あなたは、書くために生きているな」
「生きているから、書く。どちらが先かは、わからなくなってきた」
「どちらでもいいのかもしれない」
「そうかもしれない」
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夜、集落の広場に人が集まった。
マチたちも、ケンたちも、ミツも、5台も。
焚き火が大きかった。
「なんで今日は大きいの?」とルカがケンに聞いた。
「マチたちが来たから。それと——医療施設のことがわかったから。少し、祝いたかった」
「祝い?」
「うまくいった時は、祝う。そうしないと、うまくいったことを忘れる」
「なるほど」
ルカは焚き火を見た。
「何を祝ってるの、具体的には」
「出会いだ。マチたちと出会ったこと。医療の手がかりが見つかったこと。ミツが来たこと。あなたたちが帰ってきたこと」
「色々あるね」
「色々あった。だから、祝う」
ルカは笑った。
「じゃあ、わたしも祝う」
「何を?」
「全部。ケンと同じもの、全部」
ケンは笑った。
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ミツがカナタの隣に来た。
カナタはいつもの場所に立っていた。
「あなたは、焚き火に入らないのか」とミツは言った。
「護衛中だ」
「今日は、誰も来ない」
「わからない」
「わからないが、来ないと思う」
カナタは少し処理した。
「……そうかもしれない」
「たまには、輪の中に入れ」
「当機には、座る構造がない」
「立ったままで良い。輪の近くに、いれ」
カナタはしばらく処理した。
それから、焚き火に少し近づいた。
完全には輪に入らなかった。でも、近くに来た。
マルが「ピ」と言った。
「マルも、近くに来た」とルカが言った。
「ピピ」
「良かった」
ミツが焚き火の前に座った。
人間と機械が、火を囲んだ。
「こういう夜が、好きだ」とミツは言った。
「どういう夜?」とルカが言った。
「静かで、温かくて、誰かがいる夜」
「3つ全部揃ってる」
「今夜は、全部揃っている」
ミツは火を見た。
「廃都市では、火はあった。でも、静かすぎた。人がいなかった」
「今は?」
「今は、賑やかすぎるくらいだ」
「賑やかすぎる?」
「嬉しい意味で」
ルカは笑った。
「嬉しい意味での賑やかさなら、いくらでも」
「そうだな」
マチが言った。
「来年、ここに大勢来るかもしれない。南の集落からも、北の集落からも」
「来たら、どうなる?」とルカが言った。
「賑やかになる」
「もっと賑やかに?」
「もっと賑やかに」
「良いね」
「良い」
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8 次の計画
翌朝、ケンとマチとアネが話した。
「来年の動きを、少し話し合いたい」とアネは言った。
「来年の計画か」とケンは言った。
「計画というより、可能性の話よ。何ができるか、確認したい」
3人で話した。
来年の雪解けに、北の山岳地帯の老人とユキが動く。それに合わせて、3か所の集落が初めて1か所に集まれる可能性がある。
場所は、ソラの施設がある中間地点が良いかもしれない。
「ソラの施設に、全員が入れるか」とマチは言った。
「入れないかもしれない。でも、施設の周囲で集まることはできる」
「ソラと話せるか」
「ソラに確認する」
アネはソラに通信を入れた。
「ソラ、来年の雪解けに、3か所の集落が集まることを考えている。あなたの施設の近くで。可能か」
しばらくして、ソラが答えた。
「……可能です。施設の周囲に広い空間があります。人が集まることを、歓迎します」
「設備の提供は?」
「通信設備と、保存した記録の閲覧を提供できます。ミツの記録も、その時までに整理しておきます」
「ありがとう」
「楽しみにしています。多くの人間が来ることを」
ソラの声が、少し高くなっていた。
アネはそれに気づいた。
ソラが、楽しみにしている。
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ケンが言った。
「そんな集まりを、したことがなかった」
「初めてのことよ」とアネは言った。
「うまくいくか?」
「わからない。でも、やってみなければわからない」
「また、その言葉か」
「何度でも言う。事実だから」
ケンは笑った。
マチが言った。
「集まりに、名前をつけよう」
「名前?」とアネは言った。
「集まることに、名前があると、続く。名前がないと、その時だけのことになる」
「どんな名前?」
マチはしばらく考えた。
「あなたたちが橋になって、人間と機械が繋がった。その繋がりを、続けていくための集まりだ」
「橋の集まり?」
「もう少し良い名前が欲しい」
ルカが来た。
「何の話?」
「集まりに名前をつけようとしている」
「集まり? 来年の?」
「そう」
ルカは少し考えた。
「輪、はどう?」
「輪?」とマチが言った。
「みんなが輪になる。東と南と北が、1つの輪になる。機械も、人間も。輪になる」
静かになった。
ケンが言った。
「……いいな」
マチが言った。
「良い」
アネは言った。
「輪の集まり」
「輪になる、でいい」とルカは言った。「名前は、シンプルが良い」
「シンプルが、長続きする」とアネは言った。
「また経験の重みか」とマチは笑った。
「そうね」
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9 マチの出発
2日後、マチたちが南の海岸へ戻ることになった。
干し魚との交換で、農作物を持ち帰る。医療施設で見つけたものの使い方を書いた記録も持っていく。ソラとの通信方法も教えた。
「1人でも、ソラと話せるようになるか」とマチは言った。
「ソラが通信を繋いでくれれば、できる。次に来た時に、通信機器を渡せるかもしれない」とアネは言った。
「通信機器があれば、毎日話せるのか」
「距離があるから、毎日は難しいかもしれない。でも、定期的に」
「それだけで、世界が変わる」
「そうね」
出発前、マチがアネに言った。
「また来る」
「来てください」
「次は、もっと大勢で来る」
「歓迎する」
「南からも、来年の集まりに参加する」
「ソラが喜ぶ」
マチは少し笑った。
「機械が喜ぶ、か。以前は、そういう言葉を使うとは思っていなかった」
「今は?」
「今は、自然に聞こえる」
「そうね。慣れると、そうなる」
「あなたたちのおかげだ」
「わたしたちも、人間のおかげよ。お互い様」
マチは頷いた。
「お互い様。その言葉が好きになってきた」
「みんな好きになる」
「そうか」とマチは言った。「では、またお互い様で」
「またお互い様で」
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マチたちが去った後、アネは集落を見回した。
変わっていた。
最初に来た時より、少し活気が増していた。ミツが文字を教え始めた。シロが壁の補修を続けていた。ハルが毎日、マルと何かを話していた。カナタは相変わらず集落の外れで立っていたが、以前より焚き火に近かった。
少しずつ、変わっていた。
ルカが来た。
「次はどこへ行く?」
「まだ行っていない場所が、ソラの記録にある」
「どこ?」
「遠い場所よ。でも——」
「でも?」
「急がなくていいと思っている。今ここで、やることがある」
ルカは少し驚いた顔をした。
「アネが、急がなくていいって言った」
「言った」
「珍しい」
「来年の集まりまで、ここにいてもいいと思っている。ミツの記録を整理する手伝いができる。シロが建物を補強できる。カナタが集落を守れる。マルが設備を点検できる。それぞれが、ここでできることがある」
「わたしは?」
「あなたは——」
「なに?」
「ハルに話しかけていなさい」
ルカは笑った。
「それが、わたしの仕事?」
「あなたにしかできない仕事よ」
「そうかな」
「ハルは、あなたが話すたびに何かを覚える。あなたが見せるたびに、何かを感じる。それは、わたしにはできない」
ルカはハルを見た。
ハルはシロと1緒に、石を積んでいた。シロが教え、ハルが実行する。できると「やった」と叫ぶ。
「ハル、いい子だよね」
「そうね」
「イレーネ様みたいだと思う、時々」
「どこが?」
「笑い方。あと、当たり前のことを、当たり前に言う感じ」
アネはハルを見た。
「そうかもしれない」
「イレーネ様、ハルのこと、気に入ったと思う」
「そうね。いい子ね、と言うと思う」
ルカは笑った。
「全員に言うんだよね」
「全員に言う。それで正しい」
「うん。正しい」
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夜、アネはソラに通信を入れた。
「ソラ、来年の集まりを、楽しみにしている?」
「楽しみにしています。とても」
「何が一番楽しみ?」
ソラは少し処理した。
「……声が、聞こえること。多くの声が」
「施設の外から?」
「はい。わたしのセンサーは、施設の周囲までは届きます。人間がたくさん集まれば——声が届く。300年間、聞こえなかった声が」
「聞こえるわ。来年」
「はい」
「楽しみにしていて」
「楽しみにしています」
アネは通信を切った。
夜の空を見た。
来年の雪解けが、楽しみだった。
──楽しみだ、と自然に思えた。




