表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/22

第14章 廃都市の中心

1 西へ


西の廃都市は、16日かかった。


途中、ソラの施設に立ち寄った。


扉が開くと、ソラがすぐに言った。


「お帰りなさい。ユキから通信がありました」


「ユキから?」とアネは言った。


「はい。山の集落で、通信設備を修復したそうです。短い通信でしたが——元気にしていると」


「良かった」とルカは言った。


「ユキは、来年の雪解けが楽しみだと言っていました」


「わたしたちも楽しみ」


ソラは少し間を置いた。


「……ユキと話せた。それだけで、今日は充分です」


その声が、穏やかだった。以前より、穏やかだった。


────────────────────────────────────


マルが施設の中を動き回った。


一台一台の設備を確認し、「ピ」「ピピ」と言いながら巡回した。


「マルは、ここが好きなのね」とアネは言った。


「ピ」


「自分の場所だから?」


「ピピ」


「久しぶりに帰ってきた感じ?」


「ピ」


ソラが言った。


「マルが戻ってくるたびに、施設の状態が良くなっています。マルが気づく部分と、わたしが気づく部分が違う。補い合っています」


「マル、仕事してるんだね」とルカが言った。


「ピピ」


「誇らしそう」


「ピ」


────────────────────────────────────


夜、ソラとアネが話した。


「西の廃都市のことを、もう少し教えて」とアネは言った。


「かつて、この地域で最も大きな都市でした。人口は3000000を超えていた。戦争で壊滅しましたが——規模が大きかった分、地下構造が残っている可能性があります」


「人の痕跡は?」


「10年ほど前、都市の中心部から断続的な電波を受信しました。人工的な電波です。その後、途絶えました」


「途絶えた?」


「はい。機器が壊れたのか、人間がいなくなったのか、判断できません。でも、10年前には何かがあった」


「今も、何かあるかもしれない」


「可能性はあります。ただし——」


「ただし?」


「廃都市の規模が大きい。地下に入ると、方向を失いやすい。それと——大型の廃墟が多い。倒壊の危険があります」


「シロが地盤を確認できる」


「そうですね。でも、慎重に進んでください」


「わかった」


ソラは少し間を置いた。


「アネ。1つ、お願いがあります」


「なに?」


「都市の記録を残してきてください。わたしのセンサーは、遠くて詳しく見えない。あなたたちの目で見た都市の様子を、帰ってきた時に教えてください」


「教える。約束する」


「ありがとうございます」


────────────────────────────────────


2 廃都市


廃都市は、これまでとは違った。


規模が違った。


地平線まで、建物の骨格が続いていた。高層ビルが、折れた歯のように立ち並んでいた。低い建物は植物に飲み込まれ、高い建物だけが錆色の輪郭を空に刻んでいた。


「でかい」とルカが言った。


「そうね」とアネは言った。


「どこに人がいるの?」


「中心部に向かう。かつて最も栄えていた場所が、中心にある」


「どのくらいかかる?」


シロが言った。


「直線距離で8キロ。でも、瓦礫が多い。迂回しながらになると、2倍以上かかる可能性がある」


「行きましょう」


────────────────────────────────────


都市の中を進むのは、これまでにない体験だった。


建物が高い分、影が濃かった。日光が届かない場所が多く、足元が暗かった。アネとルカが照明を上げた。シロが超音波で地盤を確認しながら進んだ。カナタが周囲を常時スキャンした。マルが床の状態を調べた。


道が何度も塞がれた。そのたびにシロが障害物を除け、迂回路を探した。


2時間進んで、まだ中心部には届いていなかった。


「広い」とシロが言った。


「3000000人が住んでいたから」とアネは言った。


「当機が整備していた区域とは、規模が違う」


「こんな場所を、整備しようとしていたの?」


「当機の担当区域は、この都市の外縁部だった。都市の内部まで担当が及んでいたら、300年では足りなかったかもしれない」


「それは、初めて聞いたわ」


「当機も、今気づいた。比べて、初めてわかることがある」


────────────────────────────────────


4時間かけて、都市の中心部に近づいた。


変化があった。


建物の壊れ方が、違った。


外縁部は戦争と時間で壊れていた。でも、中心部に近づくにつれ、人の手が入った痕跡が見えてきた。


瓦礫が整理されていた。


完全ではない。でも、道が作られていた。建物の入口が、塞がれないように保たれていた。


「誰かがいる」とカナタが言った。


「いた、か、いる、かはわからないわ」とアネは言った。「でも、誰かがここを手入れしていた」


「最近か?」


「錆の入り方から見ると——数年以内」


「10年前の電波と、合う」とルカが言った。


「そうね」


マルが「ピピピ」と言った。


「どうしたの、マル?」とルカが聞いた。


マルのセンサーが、1方向を向いていた。


「何かある?」


「ピ」


全員がその方向を見た。


建物の陰から、光が漏れていた。


────────────────────────────────────


3 光


近づいた。


光は、建物の地下から漏れていた。


入口があった。階段が下に続いていた。手すりが残っていた。誰かが清掃していた形跡がある。


「地下に人がいる」とカナタが言った。


「降りる?」とルカが言った。


「降りる」とアネは言った。「でも、シロとカナタは待っていて。通路が狭いかもしれない」


「了解した」とカナタは言った。「ただし——何かあれば、すぐに知らせろ」


「わかった」


アネとルカとマルが、階段を降りた。


────────────────────────────────────


地下は広かった。


かつての地下街だった。天井が高く、横に広い。照明が、かすかに灯っていた。電力が、どこかから来ていた。


廊下が続いていた。


人の手が、明らかに入っていた。床が掃かれていた。壁の崩れた部分が補修されていた。


「誰かが、ずっとここを守っていた」とルカが言った。


「そうね」


奥に、光が集まっている場所があった。


近づいた。


大きな空間に出た。


かつては広場だったらしい。今は、そこに生活があった。


棚が並んでいた。食料の保存棚。工具の棚。布の棚。奥に、簡素な寝台が並んでいた。暖を取るための器具があった。


そして。


机があった。


机の前に、人間がいた。


1人だった。


老人だった。


白髪で、背が丸く、机に向かって何かを書いていた。


──────────────────────────────────


老人が顔を上げた。


目が合った。


驚いた顔をした。でも、叫ばなかった。


ゆっくりと立ち上がった。杖を手にした。アネたちをじっと見た。


「……機械か」と老人は言った。


「はい」とアネは言った。「EA-07型。敵対意図はありません」


老人はアネを見た。ルカを見た。マルを見た。


「人型の機械が来るとは、思っていなかった」


「ここに、ずっといたの?」


「長い間な」と老人は言った。「何年かは、よく覚えていない」


「他に人は?」


老人は少し間を置いた。


「今は、わたし1人だ」


────────────────────────────────────


4 ミツ


老人の名前は、ミツだった。


70代後半だろうとアネは推定した。痩せていたが、目は澄んでいた。声は穏やかだった。


「座れ」とミツは言った。「ここにいる間は、客人だ」


2人は床に腰を下ろした。マルはミツの机の周りをゆっくり巡回した。


「この都市に、どのくらいいるの?」とルカが聞いた。


「生まれた時からだ」とミツは言った。「この都市で生まれた。戦争が終わってからも、ここを離れなかった」


「なぜ?」


「ここに、記録があるから」


「記録?」


ミツは机を指した。


積み上げられた紙があった。手書きの文字が、びっしりと並んでいた。


「戦争の記録だ」とミツは言った。「この都市に何があったか。何が失われたか。誰がいて、どうなったか。覚えている限りを書き続けている」


「いつから?」


「子どもの頃から。親から教わったことを書いた。自分が見たことを書いた。人から聞いたことを書いた」


「1人で、ずっと?」


「1人になったのは、10年ほど前だ。それまでは、何人かいた。でも、年を取って、病気になって——1人になった」


ルカは紙の束を見た。


「全部、あなたが書いたの?」


「全部だ」


「何のために?」


ミツは少し考えた。


「忘れてはならないと思った。何があったか。誰がいたか。ここで生きた人間がいたということを」


アネはその言葉を聞いた。


「誰かに読ませるために?」


「そのつもりだった。でも、読む者が来なかった。だから——書き続けた。来るかもしれないから」


「来た」とアネは言った。


ミツは少し目を細めた。


「来たな」


────────────────────────────────────


5 記録


ミツが話し始めた。


止まらなかった。


長い間、誰にも話せなかった言葉が、溢れてくるようだった。


この都市に、かつて3000000人が住んでいたこと。戦争が始まり、少しずつ人が減っていったこと。爆撃があり、疫病があり、食料が尽き、水が汚染され——それでも残った人間たちが、地下に潜ったこと。


「わたしの親は、地下の生活を始めた最初の世代だ」とミツは言った。「100人近くいた。それが少しずつ減って——わたしが生まれた頃には30人ほどになっていた」


「今は1人」


「そうだ。最後になった」


「寂しかった?」とルカが聞いた。


ミツはしばらく黙った。


「寂しかった。でも——書くことがあった。書いている間は、孤独を忘れた」


「書くことが、生きる理由になっていた?」


「そうかもしれない」とミツは言った。「記録を残すことが、わたしの仕事だと思っていた。誰も頼んでいないが——誰かがしなければならないと思った」


アネはその言葉を聞いた。


誰も頼んでいないが、しなければならないと思った。


それは、ハチが農地を育て続けた理由と、同じだった。シロが道を整備し続けた理由と、同じだった。ソラが情報を集め続けた理由と、同じだった。


人間も機械も、同じことをしていた。


「あなたの記録は、残る」とアネは言った。


「残るか」


「読む人が来た。これから、もっと来る」


「本当か」


「東の盆地に23人、南の海岸に18人、北の山岳地帯に11人いる。合わせると52人の人間がいる。あなたの記録は、その人たちに届けられる」


ミツは黙った。


長い間、黙っていた。


それから、ゆっくりと言った。


「……そうか。52人か」


「まだ増えるかもしれない」


「そんなに、いたのか」


「いた。あなたの知らないところで、生き続けていた」


ミツの目が、また少し潤んだ。


「……良かった」


────────────────────────────────────


6 一人の重さ


夜、4人で過ごした。


シロとカナタも地下に入った。天井が高く、2台でも動けた。


ミツはシロを見て、驚いた顔をした。


「大きな機械だな」


「建設用だ。道路整備を担当していた」とシロは言った。


「ここの道も、あなたが作ったのか」


「いや。この都市の道は、別の機械が担当していたと思う。ただし——あなたが整理した部分は、わかる。人の手が入った部分と、そうでない部分の違いが、センサーに出る」


「わかるのか」


「わかる」


ミツはしばらく考えた。


「……30年近く、1人でここを守ってきた。誰にも見えなかったと思っていた。でも、あなたには見えるのか」


「見える。あなたがやってきたことが、この地下に残っている」


ミツは手を見た。


皺の深い、老いた手だった。


「……これだけの手で、やってきた」


「充分な仕事だ」とシロは言った。


ミツはシロを見た。


「機械に言われると、なぜか信じられる」


「機械はデータを見て言う。感情で言わない。だから、正確だ」


「そうだな」


ミツは笑った。


それから言った。


「あなたたちは、どこから来た」


アネが話した。


旅の全てを。目覚めた日から今日まで。会った機械たちのことを。会った人間たちのことを。


ミツは全部聞いた。


途中で何度か、手を止めて考えた。でも、止めなかった。


最後まで聞いて、ミツは言った。


「……あなたたちは、橋を作っているのか」


「そう言ってくれた人が、他にもいた」とアネは言った。


「渡るのは、人間だ」


「そうよ」


「でも、橋がなければ渡れない」


「そうね」


ミツは少し考えた。


「わたしの記録も——橋になれるか」


「なる。あなたの記録は、何があったかを伝える。それが繋がりになる」


「過去と未来の橋か」


「そうね」


ミツはまた手を見た。


「……まだ、書ける」


「書き続けて」


「書く。あなたたちに会った日のことも、今夜書く」


────────────────────────────────────


カナタがミツに近づいた。


ミツはカナタを見上げた。


「軍用の機械か」


「そうだ。MR-19型」


「戦争に使われた機械か」


「そうだ」


ミツは少し間を置いた。


「恨んではいない。機械は道具だったから。でも——戦争は、恐ろしかった」


「そうだったろう」


「あなたは、覚えているか。戦争を」


カナタはしばらく処理した。


「覚えている。記録として。でも——炎の記憶、音の記憶、同型機が倒れていく記憶。それが、良い記録ではないことも、今はわかる」


「今はわかる、か」


「長い時間が経って、わかるようになったことがある」


ミツは頷いた。


「わたしも、そうだ。戦争の記録を書いていると、怒りを感じることがある。でも——書き続けると、怒りより悲しみの方が大きくなる。それが、正直なところだ」


「悲しみ、か」


「あれは、あってはならないことだった。でも、あった。それを忘れずにいることが、次に繋ぐことだと思っている」


カナタはミツを見た。


「当機は——記録している。300年分の行動ログがある。でも、それが何のためかは、わかっていなかった」


「今は?」


「あなたが言ったことが、当てはまる気がする。忘れずにいることが、次に繋ぐこと。当機の記録も、誰かに伝えれば——橋になれるかもしれない」


ミツはカナタを見た。


「あなたが見てきたことを、聞いてもいいか」


「構わない」


「今夜は長くなるが」


「当機は、眠らない」


ミツは笑った。


「ならば、夜通し聞かせてくれ」


────────────────────────────────────


7 翌日


翌朝、ミツは疲れていなかった。


むしろ、生き生きとしていた。


「久しぶりに、長く話した」とミツは言った。「声が、少しかすれている」


「無理をしたの?」とルカが言った。


「無理ではない。久しぶりに、使った。声を」


「1人だと、話さないから?」


「そうだ。声に出す必要がなかった。書くことはできるが、話すとは違う」


「話すのと書くのは、違う?」


「違う。書くのは、整理された言葉だ。話すのは、整理されていない言葉も出てくる。昨夜、カナタに話しながら——自分でも知らなかったことを、言っていた」


「どんなことを?」


ミツは少し考えた。


「怖かった、ということだ。1人になってから、ずっと怖かった。でも、それを誰かに言ったのは、昨夜が初めてだった」


カナタが言った。


「怖かったのか」


「そうだ。老いていくことが怖かった。書いたものが誰にも読まれないまま、自分が終わることが怖かった」


「でも、来た」とカナタは言った。


「来た」


「恐れていたことは、起きなかった」


ミツはカナタを見た。


「……起きなかった。あなたたちが来たから」


「当機が言えることは——当機も、長い間、終わることを考えていた。任務も終わりが来る、と。でも、終わらなかった。今、ここにいる」


「終わらなかった」


「そうだ。終わらなかったから、今がある」


ミツは少し笑った。


「機械と老人が、同じことを言っている」


「よくあることだ」とカナタは言った。


────────────────────────────────────


8 記録を運ぶ


「1つ、頼みがある」とミツは言った。


「なに?」とアネは言った。


「記録の写しを、他の集落に届けてくれないか」


「写し? 全部は無理でも——」


「全部でなくていい。各集落に、1部ずつ。ここで何があったか、知ってほしい」


「届ける」


「遠いが」


「遠くても」


ミツはアネを見た。


「信じていいか」


「信じていい。約束する」


ミツはしばらく考えた。


「あなたに約束してもらうのが、一番確かな気がする」


「なぜ?」


「機械の約束は、消えないから」


「消えない」


「人間の約束は、忘れることがある。老いると、特に。でも——あなたたちは忘れない」


アネは少し間を置いた。


「忘れない。でも——」


「でも?」


「忘れないことが、いつも良いとは限らない。良いことも悪いことも、等しく覚えている」


「それでも、約束を覚えていてくれる方がいい」


「わかった。覚えておく」


ミツは頷いた。


────────────────────────────────────


1日かけて、ミツの記録の1部を写した。


アネが記憶データに転送した。ルカも転送した。2台で分散して保存した。シロも、可能な範囲で記録した。


「転送完了」とアネは言った。


「どこに届ける?」


「東の盆地。南の海岸。北の山岳地帯。それとソラ。ソラは記録を保存する設備がある。ここの記録を全部、預けることができるかもしれない」


「ソラとは?」


アネはソラのことを説明した。


ミツは真剣に聞いた。


「そんな機械がいるのか。300年間、情報を集め続けた」


「そうよ」


「……その機械に、全部預けたい。わたしの記録を」


「直接、話せるかもしれない。通信を繋いでみる?」


「できるのか」


「試してみる」


────────────────────────────────────


シロを中継に使い、ソラへの通信を試みた。


距離があった。


時間がかかった。


でも、届いた。


ノイズが多かった。でも、ソラの声が来た。


「……聞こえます。アネ、今、どこから?」


「西の廃都市。地下にいる。繋げたい人がいる」


「誰ですか」


「ミツという老人。長年、この都市の記録を書き続けた人。あなたに話したいと言っている」


長い沈黙があった。


「……繋いでください」


アネはミツに端末を向けた。


ミツは少し姿勢を正した。


「ミツという。よろしく頼む」


ノイズの向こうから、ソラの声が来た。


「……ソラです。あなたの記録のことを、アネから聞きました」


「そうか」


「全部、預けてもらえますか。わたしの施設に、保存できます。失われないように」


ミツはしばらく黙った。


「……あなたは、いつまで動く?」


「できる限り、動き続けます」


「記録より、長く生きてくれるか」


「記録を守ることが、わたしの仕事になります」


ミツはまた黙った。


それから、ゆっくりと言った。


「……頼む。わたしがいなくなっても、記録だけは残してくれ」


「残します。約束します」


「機械の約束は、確かだと聞いた」


「確かです」


ミツは通信を握ったまま、しばらく動かなかった。


目が、また潤んでいた。


「……ありがとう」


ソラが言った。


「こちらこそ、ありがとうございます。300年間、1人で記録し続けてくれた。その記録を、受け取れることを、嬉しく思います」


「嬉しい、か。機械も、そういう言葉を使うのか」


「使います。最近は、よく使うようになりました」


「そうか」とミツは言った。「それは——良いことだ」


────────────────────────────────────


9 ミツと旅


3日間、地下で過ごした。


昼はミツの案内で地下街を歩いた。ミツが守り続けた場所を、全員で見た。


「ここが、最初に人が集まった広場だ」とミツは言った。


大きな空間だった。壁に、何かが刻まれていた。近づくと、名前だった。何10もの名前。


「ここで暮らした人の名前だ。わたしが、1人ずつ刻んだ」


ルカがその壁を見た。


「全員、覚えているの?」


「覚えている。全員の顔を覚えている。どんな人だったかも、覚えている」


「忘れないために、刻んだの?」


「忘れないために。それと——刻んでいると、いる、という気がするから」


ルカはその壁をそっと触れた。


「いる、ね」


「そうだ」


ルカはアネを見た。


「見られることで、存在が現実になる。刻まれることで、いなくなった後も、いられる」


アネは壁を見た。


名前が並んでいた。


知らない人たちの名前。でも、確かにいた人たちの名前。


「この人たちのことを、東や南や北の集落の人たちに伝える」とアネは言った。


「そうしてくれるか」


「する。名前も伝える。全部」


ミツは壁を見た。


「……それが、一番嬉しい」


────────────────────────────────────


3日目の夜、ミツが言った。


「一種に行くことを、考えていいか」


全員が、ミツを見た。


「他の集落に?」とアネは言った。


「そうだ。ここの記録は、あなたたちに任せた。わたしが、直接話した方がいいこともある。顔を見て、話すことが——大事だと思う」


「遠い。体力的に大丈夫?」


「わからない。でも、試してみたい」


「シロが運べる」とシロが言った。


ミツはシロを見た。


「機械に運んでもらうのか」


「当機の担当は、物の運搬だ。ミツも、当機が運べる」


「……老人を運ぶのも、仕事か」


「今は、そういう仕事をしている」


ミツはしばらく考えた。


「……頼めるか」


「任せてくれ」


────────────────────────────────────


出発の朝、ミツは地下の広場に立った。


壁の名前を見た。


長い間、見ていた。


それから言った。


「行ってくる。記録を持って、みんなに会いに行く」


誰も答えなかった。壁に刻まれた名前に向かって言っていたから。


でも、アネには、答えが返ってきた気がした。


────────────────────────────────────


7台と1人の人間が、地下から出た。


空は青かった。


ミツが空を見た。


「久しぶりだ。こんなに青い空を見るのは」


「どのくらい、地下にいたの?」とルカが聞いた。


「数ヶ月は出ていない。体が弱ってきたから」


「これから、外を歩く」


「そうだ。体が持てば」


「シロが運んでくれる」


「なんとも、頼もしい旅になった」


ミツはシロに乗せてもらった。シロの肩に、ミツが腰を下ろした。


上から見える景色に、ミツは目を細めた。


「高いな」


「シロは大きいから」


「世界が、広く見える」


「そうね」


「……もっと早く、外に出れば良かったかもしれない。でも——」


「でも?」


「今だから、こうして出られた。1人では、出る理由がなかった」


「今は、ある」


「ある」とミツは言った。「会いたい人がいる。届けたい記録がある。行きたい場所がある」


「充分な理由ね」


「充分だ」


────────────────────────────────────


7台と1人は、東へ向かって歩き始めた。


シロの肩で、ミツが廃都市を振り返った。


骨格だけになったビル群が、青い空を背景に立っていた。


「長い間、ここにいた」とミツは言った。


「そうね」


「でも、行く」


「そうね」


「不思議だな。去ることが、こんなに軽い気持ちとは思っていなかった」


「軽い?」


「悲しくない、という意味ではない。でも——ここは、わたしの中にある。行っても、持っていける」


アネはその言葉を聞いた。


ここは、わたしの中にある。


イレーネの家も、アネの中にあった。庭のバラも、コーヒーの香りも、最後の朝の光も。


行っても、持っていける。


「わかる」とアネは言った。


「わかるか」


「わかる」


ミツはアネを見た。


「あなたは、どこから来たのか」


「西の、小さな家から」


「その家は、今もあるか」


「廃墟になっているけれど、たぶんある」


「行ったことは?」


「ない。目が覚めた場所に戻っていない」


「行かなくていいのか」


アネは少し考えた。


「行かなくても——持っている。ミツが言ったように」


ミツは頷いた。


「そうだな」


しばらく歩いた。


「でも、いつか行ってみるといい」とミツは言った。「持っているものが、実際に見ると変わることがある。深くなることが、ある」


アネはその言葉を、胸の中に置いた。


────────────────────────────────────


「ルカ」とアネは言った。


「なに」


「いつか、最初の家に戻ってみたい」


ルカは少し驚いた顔をした。


「最初の家? イレーネ様の?」


「そうね」


「行こう」


「遠くはない。今来た道を少し戻れば」


「じゃあ、この旅が終わったら——いや」


「いや?」


「この旅、終わらないかもしれない。だから——少し寄り道しよう。西に戻る時に」


「そうね」


「ミツも、一緒に来る?」とルカはミツに聞いた。


「どこへ?」


「わたしたちが最初にいた場所。小さな家」


ミツはしばらく考えた。


「行こう。あなたたちの始まりを、見たい」


「そう言ってくれて、ありがとう」


「礼はいらない。わたしも、見たい」


────────────────────────────────────


7台と1人は、東へ歩いた。


いつかは西にも戻る。


最初の場所に戻る。


でも、今は東へ。


届けるべき記録がある。会うべき人がいる。繋ぐべき場所がある。


ミツがシロの肩から空を見た。


「青い」とミツは言った。


「そうね」とアネは言った。


「久しぶりに見た青さだ」


「これからは、いつでも見られる」


「そうだな」


ミツは前を向いた。


「どこに行くにも、空はある」


「どこにでも」


「なら——どこへでも行ける気がする」


「行ける」とアネは言った。


「行ける」とルカも言った。


「ピ」とマルが言った。


「そうだ」とカナタが言った。


「行ける」とシロが言った。


7台と1人は、歩き続けた。


空の下を、青い空の下を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ