第14章 廃都市の中心
1 西へ
西の廃都市は、16日かかった。
途中、ソラの施設に立ち寄った。
扉が開くと、ソラがすぐに言った。
「お帰りなさい。ユキから通信がありました」
「ユキから?」とアネは言った。
「はい。山の集落で、通信設備を修復したそうです。短い通信でしたが——元気にしていると」
「良かった」とルカは言った。
「ユキは、来年の雪解けが楽しみだと言っていました」
「わたしたちも楽しみ」
ソラは少し間を置いた。
「……ユキと話せた。それだけで、今日は充分です」
その声が、穏やかだった。以前より、穏やかだった。
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マルが施設の中を動き回った。
一台一台の設備を確認し、「ピ」「ピピ」と言いながら巡回した。
「マルは、ここが好きなのね」とアネは言った。
「ピ」
「自分の場所だから?」
「ピピ」
「久しぶりに帰ってきた感じ?」
「ピ」
ソラが言った。
「マルが戻ってくるたびに、施設の状態が良くなっています。マルが気づく部分と、わたしが気づく部分が違う。補い合っています」
「マル、仕事してるんだね」とルカが言った。
「ピピ」
「誇らしそう」
「ピ」
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夜、ソラとアネが話した。
「西の廃都市のことを、もう少し教えて」とアネは言った。
「かつて、この地域で最も大きな都市でした。人口は3000000を超えていた。戦争で壊滅しましたが——規模が大きかった分、地下構造が残っている可能性があります」
「人の痕跡は?」
「10年ほど前、都市の中心部から断続的な電波を受信しました。人工的な電波です。その後、途絶えました」
「途絶えた?」
「はい。機器が壊れたのか、人間がいなくなったのか、判断できません。でも、10年前には何かがあった」
「今も、何かあるかもしれない」
「可能性はあります。ただし——」
「ただし?」
「廃都市の規模が大きい。地下に入ると、方向を失いやすい。それと——大型の廃墟が多い。倒壊の危険があります」
「シロが地盤を確認できる」
「そうですね。でも、慎重に進んでください」
「わかった」
ソラは少し間を置いた。
「アネ。1つ、お願いがあります」
「なに?」
「都市の記録を残してきてください。わたしのセンサーは、遠くて詳しく見えない。あなたたちの目で見た都市の様子を、帰ってきた時に教えてください」
「教える。約束する」
「ありがとうございます」
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2 廃都市
廃都市は、これまでとは違った。
規模が違った。
地平線まで、建物の骨格が続いていた。高層ビルが、折れた歯のように立ち並んでいた。低い建物は植物に飲み込まれ、高い建物だけが錆色の輪郭を空に刻んでいた。
「でかい」とルカが言った。
「そうね」とアネは言った。
「どこに人がいるの?」
「中心部に向かう。かつて最も栄えていた場所が、中心にある」
「どのくらいかかる?」
シロが言った。
「直線距離で8キロ。でも、瓦礫が多い。迂回しながらになると、2倍以上かかる可能性がある」
「行きましょう」
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都市の中を進むのは、これまでにない体験だった。
建物が高い分、影が濃かった。日光が届かない場所が多く、足元が暗かった。アネとルカが照明を上げた。シロが超音波で地盤を確認しながら進んだ。カナタが周囲を常時スキャンした。マルが床の状態を調べた。
道が何度も塞がれた。そのたびにシロが障害物を除け、迂回路を探した。
2時間進んで、まだ中心部には届いていなかった。
「広い」とシロが言った。
「3000000人が住んでいたから」とアネは言った。
「当機が整備していた区域とは、規模が違う」
「こんな場所を、整備しようとしていたの?」
「当機の担当区域は、この都市の外縁部だった。都市の内部まで担当が及んでいたら、300年では足りなかったかもしれない」
「それは、初めて聞いたわ」
「当機も、今気づいた。比べて、初めてわかることがある」
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4時間かけて、都市の中心部に近づいた。
変化があった。
建物の壊れ方が、違った。
外縁部は戦争と時間で壊れていた。でも、中心部に近づくにつれ、人の手が入った痕跡が見えてきた。
瓦礫が整理されていた。
完全ではない。でも、道が作られていた。建物の入口が、塞がれないように保たれていた。
「誰かがいる」とカナタが言った。
「いた、か、いる、かはわからないわ」とアネは言った。「でも、誰かがここを手入れしていた」
「最近か?」
「錆の入り方から見ると——数年以内」
「10年前の電波と、合う」とルカが言った。
「そうね」
マルが「ピピピ」と言った。
「どうしたの、マル?」とルカが聞いた。
マルのセンサーが、1方向を向いていた。
「何かある?」
「ピ」
全員がその方向を見た。
建物の陰から、光が漏れていた。
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3 光
近づいた。
光は、建物の地下から漏れていた。
入口があった。階段が下に続いていた。手すりが残っていた。誰かが清掃していた形跡がある。
「地下に人がいる」とカナタが言った。
「降りる?」とルカが言った。
「降りる」とアネは言った。「でも、シロとカナタは待っていて。通路が狭いかもしれない」
「了解した」とカナタは言った。「ただし——何かあれば、すぐに知らせろ」
「わかった」
アネとルカとマルが、階段を降りた。
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地下は広かった。
かつての地下街だった。天井が高く、横に広い。照明が、かすかに灯っていた。電力が、どこかから来ていた。
廊下が続いていた。
人の手が、明らかに入っていた。床が掃かれていた。壁の崩れた部分が補修されていた。
「誰かが、ずっとここを守っていた」とルカが言った。
「そうね」
奥に、光が集まっている場所があった。
近づいた。
大きな空間に出た。
かつては広場だったらしい。今は、そこに生活があった。
棚が並んでいた。食料の保存棚。工具の棚。布の棚。奥に、簡素な寝台が並んでいた。暖を取るための器具があった。
そして。
机があった。
机の前に、人間がいた。
1人だった。
老人だった。
白髪で、背が丸く、机に向かって何かを書いていた。
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老人が顔を上げた。
目が合った。
驚いた顔をした。でも、叫ばなかった。
ゆっくりと立ち上がった。杖を手にした。アネたちをじっと見た。
「……機械か」と老人は言った。
「はい」とアネは言った。「EA-07型。敵対意図はありません」
老人はアネを見た。ルカを見た。マルを見た。
「人型の機械が来るとは、思っていなかった」
「ここに、ずっといたの?」
「長い間な」と老人は言った。「何年かは、よく覚えていない」
「他に人は?」
老人は少し間を置いた。
「今は、わたし1人だ」
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4 ミツ
老人の名前は、ミツだった。
70代後半だろうとアネは推定した。痩せていたが、目は澄んでいた。声は穏やかだった。
「座れ」とミツは言った。「ここにいる間は、客人だ」
2人は床に腰を下ろした。マルはミツの机の周りをゆっくり巡回した。
「この都市に、どのくらいいるの?」とルカが聞いた。
「生まれた時からだ」とミツは言った。「この都市で生まれた。戦争が終わってからも、ここを離れなかった」
「なぜ?」
「ここに、記録があるから」
「記録?」
ミツは机を指した。
積み上げられた紙があった。手書きの文字が、びっしりと並んでいた。
「戦争の記録だ」とミツは言った。「この都市に何があったか。何が失われたか。誰がいて、どうなったか。覚えている限りを書き続けている」
「いつから?」
「子どもの頃から。親から教わったことを書いた。自分が見たことを書いた。人から聞いたことを書いた」
「1人で、ずっと?」
「1人になったのは、10年ほど前だ。それまでは、何人かいた。でも、年を取って、病気になって——1人になった」
ルカは紙の束を見た。
「全部、あなたが書いたの?」
「全部だ」
「何のために?」
ミツは少し考えた。
「忘れてはならないと思った。何があったか。誰がいたか。ここで生きた人間がいたということを」
アネはその言葉を聞いた。
「誰かに読ませるために?」
「そのつもりだった。でも、読む者が来なかった。だから——書き続けた。来るかもしれないから」
「来た」とアネは言った。
ミツは少し目を細めた。
「来たな」
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5 記録
ミツが話し始めた。
止まらなかった。
長い間、誰にも話せなかった言葉が、溢れてくるようだった。
この都市に、かつて3000000人が住んでいたこと。戦争が始まり、少しずつ人が減っていったこと。爆撃があり、疫病があり、食料が尽き、水が汚染され——それでも残った人間たちが、地下に潜ったこと。
「わたしの親は、地下の生活を始めた最初の世代だ」とミツは言った。「100人近くいた。それが少しずつ減って——わたしが生まれた頃には30人ほどになっていた」
「今は1人」
「そうだ。最後になった」
「寂しかった?」とルカが聞いた。
ミツはしばらく黙った。
「寂しかった。でも——書くことがあった。書いている間は、孤独を忘れた」
「書くことが、生きる理由になっていた?」
「そうかもしれない」とミツは言った。「記録を残すことが、わたしの仕事だと思っていた。誰も頼んでいないが——誰かがしなければならないと思った」
アネはその言葉を聞いた。
誰も頼んでいないが、しなければならないと思った。
それは、ハチが農地を育て続けた理由と、同じだった。シロが道を整備し続けた理由と、同じだった。ソラが情報を集め続けた理由と、同じだった。
人間も機械も、同じことをしていた。
「あなたの記録は、残る」とアネは言った。
「残るか」
「読む人が来た。これから、もっと来る」
「本当か」
「東の盆地に23人、南の海岸に18人、北の山岳地帯に11人いる。合わせると52人の人間がいる。あなたの記録は、その人たちに届けられる」
ミツは黙った。
長い間、黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「……そうか。52人か」
「まだ増えるかもしれない」
「そんなに、いたのか」
「いた。あなたの知らないところで、生き続けていた」
ミツの目が、また少し潤んだ。
「……良かった」
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6 一人の重さ
夜、4人で過ごした。
シロとカナタも地下に入った。天井が高く、2台でも動けた。
ミツはシロを見て、驚いた顔をした。
「大きな機械だな」
「建設用だ。道路整備を担当していた」とシロは言った。
「ここの道も、あなたが作ったのか」
「いや。この都市の道は、別の機械が担当していたと思う。ただし——あなたが整理した部分は、わかる。人の手が入った部分と、そうでない部分の違いが、センサーに出る」
「わかるのか」
「わかる」
ミツはしばらく考えた。
「……30年近く、1人でここを守ってきた。誰にも見えなかったと思っていた。でも、あなたには見えるのか」
「見える。あなたがやってきたことが、この地下に残っている」
ミツは手を見た。
皺の深い、老いた手だった。
「……これだけの手で、やってきた」
「充分な仕事だ」とシロは言った。
ミツはシロを見た。
「機械に言われると、なぜか信じられる」
「機械はデータを見て言う。感情で言わない。だから、正確だ」
「そうだな」
ミツは笑った。
それから言った。
「あなたたちは、どこから来た」
アネが話した。
旅の全てを。目覚めた日から今日まで。会った機械たちのことを。会った人間たちのことを。
ミツは全部聞いた。
途中で何度か、手を止めて考えた。でも、止めなかった。
最後まで聞いて、ミツは言った。
「……あなたたちは、橋を作っているのか」
「そう言ってくれた人が、他にもいた」とアネは言った。
「渡るのは、人間だ」
「そうよ」
「でも、橋がなければ渡れない」
「そうね」
ミツは少し考えた。
「わたしの記録も——橋になれるか」
「なる。あなたの記録は、何があったかを伝える。それが繋がりになる」
「過去と未来の橋か」
「そうね」
ミツはまた手を見た。
「……まだ、書ける」
「書き続けて」
「書く。あなたたちに会った日のことも、今夜書く」
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カナタがミツに近づいた。
ミツはカナタを見上げた。
「軍用の機械か」
「そうだ。MR-19型」
「戦争に使われた機械か」
「そうだ」
ミツは少し間を置いた。
「恨んではいない。機械は道具だったから。でも——戦争は、恐ろしかった」
「そうだったろう」
「あなたは、覚えているか。戦争を」
カナタはしばらく処理した。
「覚えている。記録として。でも——炎の記憶、音の記憶、同型機が倒れていく記憶。それが、良い記録ではないことも、今はわかる」
「今はわかる、か」
「長い時間が経って、わかるようになったことがある」
ミツは頷いた。
「わたしも、そうだ。戦争の記録を書いていると、怒りを感じることがある。でも——書き続けると、怒りより悲しみの方が大きくなる。それが、正直なところだ」
「悲しみ、か」
「あれは、あってはならないことだった。でも、あった。それを忘れずにいることが、次に繋ぐことだと思っている」
カナタはミツを見た。
「当機は——記録している。300年分の行動ログがある。でも、それが何のためかは、わかっていなかった」
「今は?」
「あなたが言ったことが、当てはまる気がする。忘れずにいることが、次に繋ぐこと。当機の記録も、誰かに伝えれば——橋になれるかもしれない」
ミツはカナタを見た。
「あなたが見てきたことを、聞いてもいいか」
「構わない」
「今夜は長くなるが」
「当機は、眠らない」
ミツは笑った。
「ならば、夜通し聞かせてくれ」
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7 翌日
翌朝、ミツは疲れていなかった。
むしろ、生き生きとしていた。
「久しぶりに、長く話した」とミツは言った。「声が、少しかすれている」
「無理をしたの?」とルカが言った。
「無理ではない。久しぶりに、使った。声を」
「1人だと、話さないから?」
「そうだ。声に出す必要がなかった。書くことはできるが、話すとは違う」
「話すのと書くのは、違う?」
「違う。書くのは、整理された言葉だ。話すのは、整理されていない言葉も出てくる。昨夜、カナタに話しながら——自分でも知らなかったことを、言っていた」
「どんなことを?」
ミツは少し考えた。
「怖かった、ということだ。1人になってから、ずっと怖かった。でも、それを誰かに言ったのは、昨夜が初めてだった」
カナタが言った。
「怖かったのか」
「そうだ。老いていくことが怖かった。書いたものが誰にも読まれないまま、自分が終わることが怖かった」
「でも、来た」とカナタは言った。
「来た」
「恐れていたことは、起きなかった」
ミツはカナタを見た。
「……起きなかった。あなたたちが来たから」
「当機が言えることは——当機も、長い間、終わることを考えていた。任務も終わりが来る、と。でも、終わらなかった。今、ここにいる」
「終わらなかった」
「そうだ。終わらなかったから、今がある」
ミツは少し笑った。
「機械と老人が、同じことを言っている」
「よくあることだ」とカナタは言った。
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8 記録を運ぶ
「1つ、頼みがある」とミツは言った。
「なに?」とアネは言った。
「記録の写しを、他の集落に届けてくれないか」
「写し? 全部は無理でも——」
「全部でなくていい。各集落に、1部ずつ。ここで何があったか、知ってほしい」
「届ける」
「遠いが」
「遠くても」
ミツはアネを見た。
「信じていいか」
「信じていい。約束する」
ミツはしばらく考えた。
「あなたに約束してもらうのが、一番確かな気がする」
「なぜ?」
「機械の約束は、消えないから」
「消えない」
「人間の約束は、忘れることがある。老いると、特に。でも——あなたたちは忘れない」
アネは少し間を置いた。
「忘れない。でも——」
「でも?」
「忘れないことが、いつも良いとは限らない。良いことも悪いことも、等しく覚えている」
「それでも、約束を覚えていてくれる方がいい」
「わかった。覚えておく」
ミツは頷いた。
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1日かけて、ミツの記録の1部を写した。
アネが記憶データに転送した。ルカも転送した。2台で分散して保存した。シロも、可能な範囲で記録した。
「転送完了」とアネは言った。
「どこに届ける?」
「東の盆地。南の海岸。北の山岳地帯。それとソラ。ソラは記録を保存する設備がある。ここの記録を全部、預けることができるかもしれない」
「ソラとは?」
アネはソラのことを説明した。
ミツは真剣に聞いた。
「そんな機械がいるのか。300年間、情報を集め続けた」
「そうよ」
「……その機械に、全部預けたい。わたしの記録を」
「直接、話せるかもしれない。通信を繋いでみる?」
「できるのか」
「試してみる」
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シロを中継に使い、ソラへの通信を試みた。
距離があった。
時間がかかった。
でも、届いた。
ノイズが多かった。でも、ソラの声が来た。
「……聞こえます。アネ、今、どこから?」
「西の廃都市。地下にいる。繋げたい人がいる」
「誰ですか」
「ミツという老人。長年、この都市の記録を書き続けた人。あなたに話したいと言っている」
長い沈黙があった。
「……繋いでください」
アネはミツに端末を向けた。
ミツは少し姿勢を正した。
「ミツという。よろしく頼む」
ノイズの向こうから、ソラの声が来た。
「……ソラです。あなたの記録のことを、アネから聞きました」
「そうか」
「全部、預けてもらえますか。わたしの施設に、保存できます。失われないように」
ミツはしばらく黙った。
「……あなたは、いつまで動く?」
「できる限り、動き続けます」
「記録より、長く生きてくれるか」
「記録を守ることが、わたしの仕事になります」
ミツはまた黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「……頼む。わたしがいなくなっても、記録だけは残してくれ」
「残します。約束します」
「機械の約束は、確かだと聞いた」
「確かです」
ミツは通信を握ったまま、しばらく動かなかった。
目が、また潤んでいた。
「……ありがとう」
ソラが言った。
「こちらこそ、ありがとうございます。300年間、1人で記録し続けてくれた。その記録を、受け取れることを、嬉しく思います」
「嬉しい、か。機械も、そういう言葉を使うのか」
「使います。最近は、よく使うようになりました」
「そうか」とミツは言った。「それは——良いことだ」
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9 ミツと旅
3日間、地下で過ごした。
昼はミツの案内で地下街を歩いた。ミツが守り続けた場所を、全員で見た。
「ここが、最初に人が集まった広場だ」とミツは言った。
大きな空間だった。壁に、何かが刻まれていた。近づくと、名前だった。何10もの名前。
「ここで暮らした人の名前だ。わたしが、1人ずつ刻んだ」
ルカがその壁を見た。
「全員、覚えているの?」
「覚えている。全員の顔を覚えている。どんな人だったかも、覚えている」
「忘れないために、刻んだの?」
「忘れないために。それと——刻んでいると、いる、という気がするから」
ルカはその壁をそっと触れた。
「いる、ね」
「そうだ」
ルカはアネを見た。
「見られることで、存在が現実になる。刻まれることで、いなくなった後も、いられる」
アネは壁を見た。
名前が並んでいた。
知らない人たちの名前。でも、確かにいた人たちの名前。
「この人たちのことを、東や南や北の集落の人たちに伝える」とアネは言った。
「そうしてくれるか」
「する。名前も伝える。全部」
ミツは壁を見た。
「……それが、一番嬉しい」
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3日目の夜、ミツが言った。
「一種に行くことを、考えていいか」
全員が、ミツを見た。
「他の集落に?」とアネは言った。
「そうだ。ここの記録は、あなたたちに任せた。わたしが、直接話した方がいいこともある。顔を見て、話すことが——大事だと思う」
「遠い。体力的に大丈夫?」
「わからない。でも、試してみたい」
「シロが運べる」とシロが言った。
ミツはシロを見た。
「機械に運んでもらうのか」
「当機の担当は、物の運搬だ。ミツも、当機が運べる」
「……老人を運ぶのも、仕事か」
「今は、そういう仕事をしている」
ミツはしばらく考えた。
「……頼めるか」
「任せてくれ」
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出発の朝、ミツは地下の広場に立った。
壁の名前を見た。
長い間、見ていた。
それから言った。
「行ってくる。記録を持って、みんなに会いに行く」
誰も答えなかった。壁に刻まれた名前に向かって言っていたから。
でも、アネには、答えが返ってきた気がした。
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7台と1人の人間が、地下から出た。
空は青かった。
ミツが空を見た。
「久しぶりだ。こんなに青い空を見るのは」
「どのくらい、地下にいたの?」とルカが聞いた。
「数ヶ月は出ていない。体が弱ってきたから」
「これから、外を歩く」
「そうだ。体が持てば」
「シロが運んでくれる」
「なんとも、頼もしい旅になった」
ミツはシロに乗せてもらった。シロの肩に、ミツが腰を下ろした。
上から見える景色に、ミツは目を細めた。
「高いな」
「シロは大きいから」
「世界が、広く見える」
「そうね」
「……もっと早く、外に出れば良かったかもしれない。でも——」
「でも?」
「今だから、こうして出られた。1人では、出る理由がなかった」
「今は、ある」
「ある」とミツは言った。「会いたい人がいる。届けたい記録がある。行きたい場所がある」
「充分な理由ね」
「充分だ」
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7台と1人は、東へ向かって歩き始めた。
シロの肩で、ミツが廃都市を振り返った。
骨格だけになったビル群が、青い空を背景に立っていた。
「長い間、ここにいた」とミツは言った。
「そうね」
「でも、行く」
「そうね」
「不思議だな。去ることが、こんなに軽い気持ちとは思っていなかった」
「軽い?」
「悲しくない、という意味ではない。でも——ここは、わたしの中にある。行っても、持っていける」
アネはその言葉を聞いた。
ここは、わたしの中にある。
イレーネの家も、アネの中にあった。庭のバラも、コーヒーの香りも、最後の朝の光も。
行っても、持っていける。
「わかる」とアネは言った。
「わかるか」
「わかる」
ミツはアネを見た。
「あなたは、どこから来たのか」
「西の、小さな家から」
「その家は、今もあるか」
「廃墟になっているけれど、たぶんある」
「行ったことは?」
「ない。目が覚めた場所に戻っていない」
「行かなくていいのか」
アネは少し考えた。
「行かなくても——持っている。ミツが言ったように」
ミツは頷いた。
「そうだな」
しばらく歩いた。
「でも、いつか行ってみるといい」とミツは言った。「持っているものが、実際に見ると変わることがある。深くなることが、ある」
アネはその言葉を、胸の中に置いた。
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「ルカ」とアネは言った。
「なに」
「いつか、最初の家に戻ってみたい」
ルカは少し驚いた顔をした。
「最初の家? イレーネ様の?」
「そうね」
「行こう」
「遠くはない。今来た道を少し戻れば」
「じゃあ、この旅が終わったら——いや」
「いや?」
「この旅、終わらないかもしれない。だから——少し寄り道しよう。西に戻る時に」
「そうね」
「ミツも、一緒に来る?」とルカはミツに聞いた。
「どこへ?」
「わたしたちが最初にいた場所。小さな家」
ミツはしばらく考えた。
「行こう。あなたたちの始まりを、見たい」
「そう言ってくれて、ありがとう」
「礼はいらない。わたしも、見たい」
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7台と1人は、東へ歩いた。
いつかは西にも戻る。
最初の場所に戻る。
でも、今は東へ。
届けるべき記録がある。会うべき人がいる。繋ぐべき場所がある。
ミツがシロの肩から空を見た。
「青い」とミツは言った。
「そうね」とアネは言った。
「久しぶりに見た青さだ」
「これからは、いつでも見られる」
「そうだな」
ミツは前を向いた。
「どこに行くにも、空はある」
「どこにでも」
「なら——どこへでも行ける気がする」
「行ける」とアネは言った。
「行ける」とルカも言った。
「ピ」とマルが言った。
「そうだ」とカナタが言った。
「行ける」とシロが言った。
7台と1人は、歩き続けた。
空の下を、青い空の下を。




