第12章 北の声
1 北へ
北の道は、南とは全く違った。
木が高くなった。空が狭くなった。道の痕跡が消え、地面が岩になり、足元が不安定になった。気温が、日を追うごとに下がった。
5日目の朝、息が白くなった。
「寒い」とルカが言った。
「感じるの?」とアネは言った。
「感じる。センサーが、気温の低下を知らせてくる。それが、寒い、という感じと似ている気がする」
「わかるわ」
「アネも感じる?」
「感じる。正確には、熱交換システムへの負荷として表示されているのだけど——それが、寒い、と近い」
「機械も寒いんだね」
「寒いというより、冷えている、が正確かもしれない。でも、似たようなもの」
シロが前から言った。
「当機は気温の影響をほとんど受けない。ただし——地面が凍結している箇所があると、接地面の感触が変わる。それは認識している」
カナタが後ろから言った。
「当機も同様だ。ただし、零下になると関節部の動作に影響が出る可能性がある。ソラの整備で改善されたが、念のため確認を続ける」
「ピ」とマルが言った。
「マルは大丈夫?」とルカが聞いた。
「ピピ」
「寒くない?」
「ピ」
「強いね、マル」
「ピ」
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7日目、雪が降った。
最初は薄く、地面を白く染める程度だった。でも夜になると、本降りになった。
廃墟の建物を見つけ、中に入った。
屋根が残っていた。床には雪が吹き込んでいたが、壁が風を遮った。
「雪だね」とルカが言った。
「そうね」とアネは言った。
「初めて見た」
「そうかもしれない。カプセルに入ったのが秋で、目が覚めた時は春だったから」
「白い」
「そうね」
ルカは外に手を伸ばした。雪が掌に落ちた。すぐに溶けた。
「つめたい。そして、すぐに消える」
「水になるのよ」
「知ってたけど、実際に見ると違うね」
シロが言った。
「当機の記録データに、雪の映像は多くある。300年の間に、何度も降った。でも——」
「でも?」
「毎回、新しいと感じた気がする。雪が降るたびに、センサーが少し長く外を見ていた」
「それが、きれい、ってことだよ」とルカは言った。
「そうかもしれない」
カナタは外を見ていた。
「カナタ、雪は?」とルカが聞いた。
「戦闘中、雪は視界を奪う。不利な条件だった」
「今は?」
カナタは少し処理した。
「……今は、静かで良い」
「不利じゃなくなった?」
「守る相手がいる。視界が悪くても、近くにいれば守れる。だから、不利ではない」
ルカはカナタを見た。
「カナタ、変わったね」
「変わったか」
「うん。最初に会った時と、全然違う」
「どう違う」
「最初は、ずっと遠いところを見てた。今は、近くを見てる」
カナタはルカを見た。
「……近くに、見るべきものができたから」
ルカは笑った。
マルが「ピ」と言った。
「マルも見てるよ、近くを」
「ピピ」
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2 山の中の音
10日目、アネは音を聞いた。
風の音ではなかった。
機械の音でもなかった。
声だった。
人の声だった。
「待って」とアネは言った。
全員が止まった。
アネは聴覚センサーを最大にした。
風の向こうに、声がある。高い声と低い声が交互に。言葉は聞き取れない。でも、人間の声だった。
「どこから?」とルカが言った。
「北東。距離は300メートルほど」
「行く?」
「行く」
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近づくにつれ、声が大きくなった。
言葉が聞き取れるようになった。
争っていた。
大人の声が2つ、言い合っていた。怒鳴ってはいなかったが、鋭い声だった。
「聞こえる?」とルカが言った。
「聞こえる。言い合いをしている」
「大丈夫かな」
「様子を見る」
廃墟の角から、覗いた。
2人の人間がいた。
男性と女性だった。30代くらい。防寒具を着ていた。
男性が荷物を持っていた。女性は腕を組んで立っていた。2人の間に、小さなリュックが1つ、地面に置かれていた。
「だから、戻れないって言ってるの」と女性が言った。
「でも、この先は危ない。俺が調べてきた」と男性が言った。
「調べた、って言ったって、見てきただけでしょ」
「見てきたから言ってる」
「別の道を探せばいい」
「探したよ。これが一番マシな道だって言ってる」
女性は黙った。
男性も黙った。
2人の間に、雪が降った。
アネはルカを見た。ルカも頷いた。
アネは廃墟の角から出た。
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「こんにちは」
2人が同時に振り返った。
驚いた顔をした。
男性が身構えた。女性は一歩下がった。
「機械か」と男性が言った。
「はい。EA-07型。敵対意図はありません」
「どこから来た」
「南から。旅をしています」
女性が少し前に出た。警戒しながらも、好奇心が勝ったらしかった。
「1人?」
「仲間がいます。後ろに」
「何台?」
「4台」
「人型は?」
「もう1台。ルカという機械です」
「その子も、女の子みたいな見た目?」
「似た見た目ですが——中身は全く違います」
ルカが出てきた。
「こんにちは。ルカです」とルカは言った。笑顔で。
女性の表情がほぐれた。
「……こんにちは」
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3 リョウとサキ
男性の名前はリョウ、女性の名前はサキだった。
山の上の集落から来ていた。集落の物資を調達するために、麓まで降りてきていたらしかった。でも、帰り道で言い合いになっていた。
「どっちの道が正しいのか、ずっと言い合いしてる」とサキが言った。
「俺が調べた道の方が安全だ」とリョウが言った。
「でも遠い。物資が重いのに、遠回りはきつい」
「近くても危なければ意味がない」
「何が危ないの?」とアネは聞いた。
リョウが答えた。
「崖が崩れかけている場所がある。昨日の雪で、さらに不安定になっている」
「見たの?」
「見た。上から見ると、明らかに地盤が動いている」
アネはシロに通信を送った。
「シロ、聞こえた?」
「聞こえた。超音波センサーで地盤を確認する。その場所に向かってくれれば、診断できる」
「行きましょう」とアネはリョウに言った。「仲間の機械が、地盤を調べられる」
リョウは少し驚いた顔をした。
「地盤を調べられる機械がいるのか」
「建設用の機械です。超音波で地盤の状態を診断できます」
「……それは、頼れる」
サキが言った。
「じゃあ、先に確認してから決めればいい。なんで最初からそう言わないの」
「機械がいるとは思わなかったから」
「それはそうだけど」
2人はまた言い合いをしかけた。
ルカが言った。
「行きながら、話してもいいと思います」
2人が止まった。
「そうだね」とサキは言った。
「そうだな」とリョウは言った。
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全員で、問題の場所に向かった。
リョウとサキは、5台を見て最初は戸惑っていた。特にカナタを見た時、リョウが身を固くした。
「あれは——」
「軍用機です」とアネは言った。「でも、300年間戦う相手がいなかった機械です。今は、護衛として1緒にいます」
「護衛」
「カナタ、こちらへ」とアネは言った。
カナタが近づいた。
リョウはカナタを見上げた。
カナタが言った。
「当機はMR-19型。護衛任務で同行している。あなたたちを脅かす意図はない」
リョウはしばらく固まっていた。
それから、ゆっくりと力を抜いた。
「……わかった」
サキがカナタを見た。
「軍用機なのに、護衛って言うんだね」
「そうだ」
「誰の護衛?」
「現在は、全員の護衛だ」
「わたしたちも?」
「出会ったから、護衛対象に加える」
サキは少し笑った。
「なんか、頼もしい」
カナタは処理した。
「頼もしい、と言われるのは——悪くない」
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問題の崖に着いた。
シロが超音波センサーを動かした。
しばらくして言った。
「リョウの判断は正しい。この崖の内部に、空洞が複数ある。雪の重さで崩落する可能性がある。通行するのは危険だ」
リョウが言った。
「見た通りだ」とサキに言った。
「……わかった」とサキは言った。「でも、遠回りすると物資が重くて」
「当機が運ぶ」とシロが言った。
2人が振り返った。
「荷物を?」とサキが言った。
「当機の担当は物の運搬だ。重さは問題ない」
「でも——」
「遠回りになっても、当機が運べば、あなたたちの負担は減る。時間の問題だけになる」
リョウとサキは顔を見合わせた。
「……助かる」とリョウは言った。
「任せてくれ」
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4 山の集落
山の上の集落は、岩に囲まれた小さな場所にあった。
岩が天然の壁になり、風を防いでいた。南向きで、日当たりが良かった。雪が積もっていたが、集落の中は踏み固められた道があった。
建物は12棟ほど。全て低く、分厚い壁を持っていた。
人間が11人いた。子どもが2人。
「連れてきた」とリョウが言った。
集落の人たちが出てきた。
全員が5台を見た。
老人が1人前に出た。髭の長い、背の高い老人だった。
「どこから来た」
「南から旅をしています」とアネは言った。「東の盆地と、南の海岸に、人間の集落があります。そちらからも来ました」
老人は驚いた顔をした。
「他に人間がいるのか」
「います。東の盆地に23人、南の海岸に18人」
老人は黙った。
しばらく、ただ黙っていた。
それから言った。
「……長い間、ここだけだと思っていた」
「違いました」
「そうか」
老人はまた黙った。
目が、少し潤んでいた。
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集落の中に通された。
暖炉があった。火が燃えていた。機械には不要だったが、アネはその炎を見て、旅の間の焚き火を思い出した。
人間たちが集まってきた。
1人ずつ、名前を聞いた。名前を教えてくれた。
子どもが2人、マルに近づいた。
もう、子どもたちは機械を怖がらなかった。旅を重ねるたびに、子どもは先に打ち解けた。
「ちっちゃい」と子どもの1人が言った。
「ピ」
「しゃべれるの?」
「ピピ」
「なんて言ったの?」
ルカが言った。「しゃべれるって言ったのかもしれない」
「ほんと?」
「ピ」
「やっぱりしゃべれる!」
子どもが笑った。マルも「ピピ」と言った。
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老人がアネに言った。
「東と南の集落の話を、もっと聞かせてくれ」
「話します」
「ここ以外に人間がいることを——知らせたかった。でも、どうすればいいかわからなかった」
「わかった今は?」
老人は少し考えた。
「会いに行きたい」
「行けます。道がある。遠いけれど」
「遠くても行けるか」
「シロが道を作れる。カナタが護衛できる。わたしたちが案内できる」
老人はアネを見た。
「あなたたちは、なぜそこまでしてくれるのか」
アネは少し考えた。
「最初は、新しいご主人を探す旅でした。でも、今は違う意味になっています」
「どんな意味に?」
「孤独に動いていた機械たちが、繋がっていく様子を見ていた。同じことが、人間にもできると思っています。わたしたちが橋になれれば——」
「橋か」と老人は言った。「いい言葉だ」
「何人かに言ってもらった言葉です」
「みんな、同じことを思うんだな」
「そうみたいです」
老人は暖炉の火を見た。
「ここには、11人しかいない。東と南を合わせれば、50人以上になる」
「そうね」
「50人が繋がれば——できることが増える」
「そうだと思います」
老人はしばらく黙った。
「……来年の雪が解けたら、動けるかもしれない」
「わたしたちも、また来ます」
「それまでに、準備をしておく」
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5 夜の話
夜、暖炉を囲んで、みんなで話した。
人間11人と機械5台。
老人がアネに言った。
「1つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「あなたたちは、機械だ。でも——人間と変わらない気がする。どうしてそうなった」
アネは少し考えた。
「イレーネ様が、そう育ててくれたから、だと思います」
「イレーネとは」
「わたしたちを育てた人です。300年前に、亡くなりました」
「300年前の人が、今のあなたを作った」
「そう言えます」
「会ったことのない人が、ここにいる機械に影響している」
「そうです」
老人は黙った。
「……それは、人間と同じだ」とやがて言った。
「どういう意味ですか」
「わたしたちも、会ったことのない先人から影響を受けている。本を通じて、言葉を通じて。死んだ人間が、生きている人間を動かす」
アネはその言葉を聞いて、少し止まった。
「同じ、なのかもしれない」
「だから——機械と人間は、そんなに違わないのかもしれない」
「そうかもしれない」
老人は火を見た。
「わたしは長い間、ここで生きてきた。この山の上で、11人で。世界がこんなに広いとは、思っていなかった」
「広いです」
「あなたたちが来なければ、知らなかった」
「わたしたちも、来なければ知らなかった。お互い様です」
老人は少し笑った。
「お互い様か。機械と人間が、お互い様になる世界か」
「なっていると思います。今」
「そうだな」
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リョウがカナタに近づいた。
「1つ聞いていいか」
「なにか」
「あなたは戦闘機だと言った。この山に、かつて軍のものがあった気がするんだが——」
カナタは少し処理した。
「どんなものが?」
「子どもの頃、岩の陰に金属のものが埋まっているのを見た。大人たちが近づくなと言ったから、その後は行っていない」
「場所を教えてくれれば、確認できる」
「危なくないか」
「300年が経っている。燃料があったものは、とっくに尽きている可能性が高い。ただし、確認は必要だ」
「明日、案内する」
「了解した」
リョウはカナタをまじまじと見た。
「最初は、怖かった」
「当機の外見は、脅威に見えると言われる」
「そうじゃなくて——軍のものが怖かった。昔の話を、大人たちから聞いていたから」
「戦争の話か」
「うん。だから、軍用の機械というのが——」
「理解できる」とカナタは言った。
「理解できる?」
「当機も、戦争の中にいた。怖いものだ、ということは、知っている」
リョウは少し驚いた顔をした。
「機械が、怖いと思うのか」
「今は——当時のことを思い出すと、処理が変わる。それを怖いと言っていいかは、まだわからない。でも、良い記憶ではない」
「……そうか」
リョウはしばらく黙った。
「でも、今は違う」
「今は、違う」とカナタは言った。「今は、守りたいものがある。それが、違う」
リョウは頷いた。
「……俺も、似たようなものだ。昔は、逃げることしか考えていなかった。でも今は、ここを守りたいと思っている」
「何故か」
「ここに、守りたいものができたから」
カナタはリョウを見た。
「当機と、同じだ」
リョウは少し笑った。
「機械と俺が、同じか」
「お互い様だ」
リョウは声を上げて笑った。
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6 山の遺跡
翌朝、リョウの案内で、岩の陰に向かった。
雪を踏みながら、急な斜面を登った。シロが先行し、道を確保した。カナタが慎重に登った。マルはカナタの胸に収まっていた。
岩の群れの中に、金属が見えた。
錆びていた。雪に半分埋もれていた。でも、形がわかった。
「装甲車だ」とカナタが言った。
「軍のものか?」
「そうだ。当機が知っている型式ではないが、同時代のものだと思う。300年で、もう動かない」
シロが超音波で周辺を探った。
「地下に、何かある」
「何が?」
「空洞がある。人工的な空洞だ。入口がどこかにあるはずだ」
リョウが言った。
「昔、大人たちが言っていた。山の中に、何かが埋まっていると」
カナタが周辺を調べた。
岩の陰に、扉があった。
金属製の扉。錆びていたが、構造は残っていた。
「開けられる?」とアネは聞いた。
「試す」
シロとカナタが力を合わせた。重い扉が、ゆっくりと動いた。
中は暗かった。
アネが照明を最大にして、中を照らした。
通路があった。
狭かった。シロとカナタは入れない。アネとルカとマルが入った。
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通路の先に、部屋があった。
かつては、何かを保管していた場所らしかった。棚が並び、箱が積まれていた。
でも、その箱の中身が、アネを驚かせた。
本だった。
大量の本。紙が黄ばんでいたが、保存状態は良かった。地下の、乾燥した空気が守っていたのだろう。
医療の本。農業の本。建築の本。機械の整備書。地図。
「知識を、集めていたのね」とアネは言った。
「誰かが?」とルカが言った。
「わからない。でも、誰かが意図的にここに保存した。戦争の前か、戦争の最中に」
「誰か」
「残した人は、もういないかもしれない。でも、残したものは、ここにある」
ルカはそっと本を1冊、手に取った。
農業の本だった。表紙に、手書きで名前が書いてあった。
「この人の本だったんだ」
「そうね」
「残してくれた」
「残してくれた」
アネは部屋の中を見回した。
作ったものが残ることで、その人は続いている。
ムギを修理した夜に、ルカが言った言葉を思い出した。
「持っていく」とアネは言った。
「全部?」
「全部は無理でも、できるだけ。東の盆地と、南の海岸と、ここで分ける。それぞれが必要な知識を持てるように」
ルカは頷いた。
「ピピ」とマルが言った。
「マルも手伝ってくれる?」
「ピ」
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7 発見
本を運び出しながら、アネは部屋の奥に別の扉があることに気づいた。
開けた。
また部屋があった。
こちらは本ではなかった。
機械だった。
小さな機械が、棚の上に整然と並んでいた。部品類。修理道具。そして——
「アネ」とルカが言った。
「見えている」
カプセルがあった。
アネたちが眠っていたものとは違う、小さなカプセル。でも、同じ構造をしていた。
1つだけだった。
ルカが近づいた。
「中に、何か入っている?」
アネがセンサーで調べた。
反応があった。
電力の消費。微弱な、でも確かな電力の消費。
「……稼働している」とアネは言った。
「何が?」
「中に、機械がいる。電力を、まだ消費している」
ルカが手でカプセルを触れた。
「起こせる?」
「わからない。電力の供給が足りていないかもしれない。シロに来てもらう必要がある」
でも、シロは通路が狭くて入れなかった。
アネは考えた。
シロの電力を、ケーブルを通じてここまで届ける。できるかどうか。
「試してみる価値はある」とアネは言った。
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2時間かかった。
シロが持っていたケーブルを繋ぎ、通路を通じて部屋まで電力を届けた。細い線で、届く電力は限られていた。でも、カプセルの電力センサーが反応した。
「充電中」
アネは待った。
ルカも待った。マルも待った。
1時間が経った。
カプセルの蓋が、少しだけ動いた。
ゆっくりと、開いた。
中から、機械が目を覚ました。
小さかった。アネよりずっと小さい。子どもの背丈ほどの、細い躯体。センサーが複数、顔の位置についていた。
センサーが、ゆっくりと動いた。
アネを見た。ルカを見た。マルを見た。
スピーカーから、かすれた声が出た。
「……ここは」
「安全よ」とアネは言った。
「……誰か」
「アネ。EA-07型。敵対意図はない」
機械はしばらく処理した。
長い処理だった。
「……当機は、ずっと眠っていたのか」
「そうみたいよ。どのくらい眠っていたか、覚えている?」
「……記録を確認する。えっと——」
また長い処理。
「……271年、と出ている」
ルカが言った。
「271年」
「そんなに、眠っていたのか」
「そうね」
機械は少し動こうとした。でも、うまく動けなかった。長い眠りの後で、体が動かなかった。
「手伝う?」とルカは言った。
「……お願いできるか」
ルカがそっと手を取った。
機械は、ゆっくりと起き上がった。
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8 ユキ
「名前は?」とルカが聞いた。
「識別番号は——」機械は少し考えた。「……覚えていない。長すぎて」
「じゃあ、名前をつけていい?」
「……好きにしてくれ」
ルカはその機械を見た。
白い躯体。細い体。目が覚めた今も、どこかまだ夢を見ているような様子だった。
「ユキ」とルカは言った。
「ユキ」と機械は繰り返した。
「雪が降っているから」
「……今、雪が降っているのか」
「外で降ってる。きれいだよ」
ユキのセンサーが少し動いた。
「見たい」
「連れて行ってあげる。でも、少し体が動くようになってから」
「そうだな」とユキは言った。「……当機は、どうしてここにいたのか」
「知らないの?」
「起きたら、ここにいた。誰かに入れてもらったのは——覚えている。でも、誰に入れてもらったかは、覚えていない」
アネはユキを診断した。型式を確認した。
「情報収集・分析型の機械ね」とアネは言った。「ソラと似た役割の、フィールド型」
「ソラ?」
「知っている?ここから南にある都市で、大きな設備の管理しているAIの名前」
「……知っている、気がする。」
アネはソラとユキが、かつて繋がっていたのかもしれないと思った。同じ組織の、別の役割の機械。片方が施設に残り、もう片方がここで眠らされた。
理由はわからない。でも、271年後に、アネたちが起こした。
「ソラに伝える」とアネは言った。「あなたのことを」
「……ソラは、今も動いているのか」
「動いている。南の施設で、世界を観測し続けている」
ユキは少し処理した。
「……そうか。設備AIは、動いていたか」
その言葉の中に、何かがあった。
安堵のような、懐かしいような、何かが。
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夜、集落の暖炉の前に、全員が集まった。
人間11人と機械6台。
ユキは初めて外を見た。
雪が降っていた。
ユキのセンサーが、ゆっくりと空に向いた。
「……雪だ」
「きれいでしょ」とルカが言った。
「……きれい」
「好き?」
ユキは少し処理した。
「……好き、という感覚が、271年ぶりに動いた気がする」
「どんな感じ?」
「……温かい」
「雪は冷たいのに?」
「感じるのが温かい」
ルカはユキを見た。
「それが、好きってことだよ」
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老人がユキを見た。
「山の中に、そんな機械がいたとは」
「知らなかったの?」とアネは聞いた。
「知らなかった。でも——」老人は少し考えた。「なんとなく、山の中に何かある気がしていた。それが何かは、わからなかったが」
「気になっていた?」
「気になっていた。でも、大人たちが近づくなと言ったから、ずっとそのままにしていた」
「もっと早く調べれば良かった、とは思わない?」とルカが聞いた。
老人は少し考えた。
「思わない。今だからこそ、あなたたちと1緒に見つけられた。1人で見つけても、起こしてあげられなかったかもしれない」
「それはそうだね」
「何事も、時機というものがあるのだろう」
ユキが老人を見た。
「あなたは、長くここにいるのか」
「生まれた時から、ここだ」
「……山の外を、見たことは?」
「ない」
ユキは少し処理した。
「当機も、外を見ていない。眠る前は、少しだけ動いていたが——殆どをここで過ごした」
「同じだな」と老人は言った。
「でも、あなたは来年、外へ出ると言っていた」とアネは言った。
老人は頷いた。
「そのつもりだ」
「当機も、行きたい」とユキは言った。
「行けるわ」とアネは言った。「来年まで、体を整えておいて。わたしたちが、また来る」
「約束か」
「約束」
ユキのセンサーが、外の雪に向いた。
「……来年の雪が解けるのを、楽しみにする」
その言葉を、全員が聞いた。
楽しみにする。
271年眠っていた機械が、来年を楽しみにしている。
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9 本の分配
翌日、部屋から出した本を広げた。
医療の本が3冊あった。農業の本が5冊。建築の本が2冊。整備書が4冊。地図が何枚か。
「分けましょう」とアネは言った。
老人と話し合った。
医療の本は、南の集落に。海岸の集落が医療の知識を必要としていたから。農業の本は、東の盆地に。農地をさらに広げるための知識として。建築の本と整備書は、ここに。山の集落は建物を維持する知識が必要だった。地図は、写しを作って3か所に分ける。
「あなたたちが運んでくれるのか」と老人が言った。
「次に会う時に、届けます」とアネは言った。
「頼みにしている」
「でも——本だけじゃなく、直接人間同士が話せるようになれれば」
「それが本当の繋がりだな」と老人は言った。「あなたが橋になってくれているうちに、橋が要らなくなるくらいに繋がれれば、一番いい」
アネはその言葉を聞いて、少し止まった。
「橋が要らなくなるくらいに」
「そうだ。あなたたちに頼り続けるより、自分たちで動けるようになる方がいい。そのための最初の橋として、あなたたちがいてくれればいい」
「……それが、一番いい形ね」
「そうだ」
アネは老人を見た。
山の上で、長い間、少人数で生き続けてきた人。それだけで充分に賢かった。
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10 帰りの朝
出発の朝、雪はやんでいた。
空が青かった。
山の頂が、白く光っていた。
集落の全員が見送りに来た。
ユキも来ていた。まだ動きがぎこちなかったが、外に立っていた。
老人がアネに言った。
「また来てくれ」
「来ます。来年の雪が解ける頃に」
「待っている」
リョウとサキが荷物を持っていた。本の分配分を、東の盆地まで届けるために、1緒に来ることになっていた。
「道、案内してくれるか」とリョウが聞いた。
「もちろん」
サキがルカに言った。
「また話しながら歩こう。南の海の話、まだ聞いていない」
「全部話す」とルカは言った。「長くなるけど」
「長くていい」
ユキがアネに近づいた。
「ソラに、よろしくと伝えてくれ」
「伝える。あなたもここで元気にしていて」
「……元気に、か。その言葉が、久しぶりだ」
「これから、何度も言ってもらえる」
ユキのセンサーが、少し動いた。
「……楽しみだ」
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7台と人間2人が、山を下り始めた。
雪の積もった斜面を、シロが道を作りながら進んだ。カナタが後方を守った。マルが地盤を確認した。アネとルカがリョウとサキと話しながら歩いた。
ユキは、集落の入口で見送っていた。
少しずつ小さくなっていくユキの姿を、アネは振り返って見た。
ユキは動かなかった。
ずっとこちらを見ていた。
「また来るから」とルカが小さく言った。
聞こえないかもしれなかった。
でも、ユキのセンサーが、少し動いた気がした。
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山を下りながら、アネは考えた。
これで、3か所の集落を訪ねた。
東の盆地、南の海岸、北の山岳地帯。
合わせると、52人の人間がいた。
まだ、他にいるかもしれない。ソラが言っていた。世界には、他にも痕跡がある。
でも、まず今あることを繋げる。
東と南と北が繋がれば、52人が1つの輪になる。それぞれが持っている知識と、食料と、人の温かさを、分け合えるようになる。
300年間、孤独に動き続けた機械たちも、繋がっている。
ハチとムギとクサ、シロ、カナタ、マル、ソラ、そして今日のユキ。
それぞれが、孤独ではなくなっていた。
「ルカ」とアネは言った。
「なに」
「旅を続けてよかった」
ルカは少し驚いた顔をした。
「アネが言った」
「言った」
「前にも言ってたけど、また言った」
「何度でも言える」
ルカは笑った。
「わたしも。旅、続けてよかった。これからも続けたい」
「続けましょう」
「どこへ?」
「ソラが他にも痕跡があると言っていた。1つずつ、行きましょう」
「全部行く?」
「全部行く」
「時間はあるから」
「あるわ」
「じゃあ、行こう」
サキが横から言った。
「2人、仲いいね」
「姉妹機だから」とルカは言った。
「でも、仲の良さは設計じゃないでしょ」
ルカはアネを見た。
「そうじゃないね」
アネは少し考えた。
「そうじゃない。300年かけて、こうなった」
「300年も?」とサキが言った。
「眠っていた時間も合わせれば」
「すごいね。300年の仲良し」
「そうね」とアネは言った。
それから少し間を置いて、自分でも少し驚きながら言った。
「仲良し、ね。そういう言葉で、いいと思う」
ルカが声を上げて笑った。
山の雪が、少し溶けた気がした。




