第11章 南の海
1 出発
南へ向かうと決めたのは、ハルのせいだった。
正確には、ハルのせいではない。でも、きっかけはハルだった。
出発の前夜、ハルがアネに聞いた。
「うみって、どんなの?」
「海?」
「本で読んだ。おおきいみずのところ。みたことないから、どんなかわからない」
アネは少し考えた。
「広い。どこまでも水が続いている。波が来て、また返す。塩の匂いがする」
「しおって?」
「嘗めると辛い水よ」
「みずなのに、からいの?」
「そう」
ハルはしばらく考えた。
「みたい」
「今は無理よ。遠いから」
「シロが道を作ってくれれば行けるんじゃないの?」
アネは返す言葉を探した。
それから、ルカを見た。ルカも聞いていた。
「……行くつもりだったのよ、南へ」とアネは言った。
「じゃあ、かえってきたらうみのはなし、おしえて」
「教える」
「やくそく?」
「約束する」
ハルは満足した。
そういう経緯で、5台は南を目指すことになった。
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ソラの地図によれば、南の沿岸部まで20日前後かかる。
途中に、かつての工業地帯がある。ソラは南回りを勧めなかったが、より西に迂回すれば工業地帯を避けられるとも言っていた。
「遠回りになる」とシロが言った。
「安全の方がいい」とアネは言った。
「了解した」
「カナタ、意見は?」
「当機も安全を優先する。ただし——」
「ただし?」
「南の海岸線に近づくにつれ、かつての軍事施設がある可能性がある。当機のデータでは、南部沿岸は戦略的要衝だったため、施設が多かった」
「稼働している可能性は?」
「300年で燃料が尽きたものが多いはずだ。ただし、確認は必要だ」
「行きながら確認しましょう」
「ピ」とマルが言った。
「マルは、南に行ったことある?」とルカが聞いた。
「ピ」
「ないか。じゃあ初めての場所だね」
「ピピ」
「楽しみ?」
「ピ」
「わたしも」
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2 十日目の雨
8日間、何事もなく進んだ。
工業地帯を大きく迂回し、川沿いの道を南へ下った。植生が変わってきた。木の種類が変わり、草の色が濃くなった。気温が上がった。
9日目の夜、雨が来た。
大きな雨だった。
5台には雨は関係なかった。防水構造で、水が内部に入る心配はない。でも、視界が狭くなった。
「今夜は止まる」とアネは言った。
廃墟の大きな建物を見つけ、屋根の残っている部分に入った。
雨音が屋根を叩いた。
ルカが外を眺めていた。
「アネ」
「なに」
「イレーネ様の家に、雨の日があったね」
「あった」
「あの時、ルカはすごく退屈してた」
「そうね。シロが呼んできて、わたしのところに来た」
「アネに話しかけたら、アネが——」
「わたしの考えていることを言ったら、あなたのことも考えていると言ったのよ」
「そう」とルカは笑った。「それが嬉しかった」
雨音の中で、しばらく静かにしていた。
シロが言った。
「雨は、当機には懐かしい気がする」
「懐かしい?」とルカが言った。
「道路整備の時、雨の日が多かった。雨の後は地盤が軟らかくなる。難しい作業だったが——雨音は静かで、好きだった」
「機械が、音を好きになるんだね」
「なるらしい。気づいたのは最近だが」
カナタが言った。
「当機も、雨は嫌いではなかった」
「なんで?」とルカが聞いた。
「雨の中では、音が変わる。足音も、遠くの音も、雨に紛れる。戦闘中は不利な条件だったが——終わってからは、世界が静かになる感じが、悪くなかった」
「ピ」とマルが言った。
「マルも雨、好き?」
「ピピ」
「センサーが雨を感知するのが面白い?」
「ピ」
ルカは笑った。
雨が屋根を叩き続けた。
5台は、それぞれの雨の記憶を持ちながら、静かに夜を過ごした。
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3 海の手前
16日目の午前、匂いが変わった。
塩の匂いだった。
ルカが最初に言った。
「なんか、変な匂いがする」
「塩よ」とアネは言った。
「塩?」
「海が近い」
ルカは立ち止まった。
「もう近いの?」
「風向きから、10キロ以内には来ていると思う」
ルカは前を見た。地形は下り坂になっていた。木が減り、草が増え、空が広くなっていた。
「急ごう」とルカは言った。
「急ぐ必要はないわ」
「でも、急ぎたい」
アネは少し考えた。
「……わかった。急ぎましょう」
シロが言った。
「当機も、急いで構わない」
5台は少し速くなった。
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丘の上に出た時、見えた。
海だった。
地平線まで、水が続いていた。
空と海の境界が、かすんでいた。波が光を返していた。白い波頭が、遠くまで点々と続いていた。
誰も何も言わなかった。
しばらく、全員がそれを見ていた。
ルカが言った。
「……でかい」
「そうね」とアネは言った。
「どこまであるの?」
「ずっと向こうまで。大陸を越えて、また大陸がある」
「ずっと向こうって、どのくらい?」
「数万キロ」
ルカは数万キロという言葉を、しばらく頭の中に置いた。
「数万キロ先にも、誰かいるかな」
「いるかもしれない」
「会いに行ける?」
「今の手段では難しい」
「いつかは?」
アネは少し考えた。
「いつかは、わからない」
「わからないけど、いつかは、って感じがする」
「そうね」
カナタが言った。
「当機は、海を見たことがなかった」
「初めて?」とルカが言った。
「そうだ。戦闘区域は内陸だったため、海に来る機会がなかった」
「カナタ、どう思う?」
カナタはしばらく処理した。
「……思ったより、静かだ」
「そう?」
「想像の中の海は、もっと激しいものだと思っていた。でも、実際に見ると——静かで、大きい」
「うん」とルカは言った。「そうだね」
シロが言った。
「当機の記録データに、海の映像があった。でも、実物は違う」
「何が違う?」
「記録には、匂いがない。音がある。でも、風が肌——外装に当たる感触がない。実物には、全部ある」
「記録と実物って、やっぱり違うんだね」
「そうだ。来てみなければわからないことがある」
マルが「ピピピ」と言った。ひときわ長かった。
「マル、嬉しそうだね」とルカは言った。
「ピ」
「海、気に入った?」
「ピピ」
「よかった」
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4 煙
海を見ながら降りていくと、煙が見えた。
また煙だった。でも、今度は複数だった。
3本、4本。間隔を置いて、海岸線の近くから立ち上がっていた。
「人間がいる」とアネは言った。
カナタがすぐに前に出た。
「当機が先行する」
「今回も、まず2人で行く」とアネは言った。「前回と同じように」
「了解した。ただし、距離を縮める」
「わかった」
アネとルカが先に進んだ。
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海岸に近づくにつれ、人の声が聞こえてきた。
複数の声。大人の声と子どもの声が混ざっていた。
砂浜があった。波打ち際に、木造の構造物が並んでいた。漁師の集落だった。
舟がいくつか浜に引き上げられていた。網を修繕している人がいた。魚を干している人がいた。
東の盆地の集落より、大きかった。
数えると、30人以上が見えた。
「おおきい」とルカが言った。
「そうね」
前回と同じように、アネが先に出た。
最初に気づいた老人が、驚いた顔で立ち上がった。
でも、逃げなかった。
「人型の機械か」と老人は言った。
「はい」とアネは言った。「初めまして。敵対意図はありません」
老人はアネをしばらく見た。
「久しぶりに見た。人型の機械は」
「この辺りにも、機械が来たことがあるの?」
「ある。昔ね。今はほとんど来ない」
「昔というのは?」
「30年くらい前かな。旅をしている機械が来た。それ以来、来ていなかった」
30年前。また同じ時期だった。アネは、かつてソラのところに来た人間たちが、ここにも来たのかもしれないと思った。
「仲間が他にいます。後ろの丘に。来てもいいですか」
老人は少し考えた。
「どんな仲間だ」
「建設用と軍用と点検用です。どれも、敵対しない」
「軍用か」
「はい。ただし——300年間、戦う相手がいなかった機械です。今は、護衛として1緒に旅をしています」
老人はしばらく考えた。
それから、隣にいた中年の女性に言った。
「マチ、どう思う」
マチと呼ばれた女性は、アネを見た。
「来てもらいましょう」とマチは言った。「この目で見た方がいい」
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5 海辺の夜
カナタが現れた時、集落がざわめいた。
やはり、カナタの外見は目を引いた。子どもが泣いた子もいた。でも、大人たちは逃げなかった。
マチが前に出た。
「あなたが軍用の機械?」
「そうだ」とカナタは言った。「MR-19型。今は護衛任務についている」
「誰の護衛?」
「EA型2機と、同行者全員の護衛だ」
「EA型って、あの2人?」
「そうだ」
マチはアネとルカを見た。それからカナタを見た。
「軍用機が、家事用の機械を護衛してるの?」
「そうだ」
「なんで?」
カナタは少し処理した。
「……守りたいから」
マチは少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「正直な機械だね」
「そうか」
「正直なのは、いいことよ」
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夜になると、集落が動いた。
魚を焼く煙が上がった。海藻を煮る匂いがした。
マチが言った。
「食べていきなさい。機械は食べないだろうけど、座っていけばいい」
「ありがとう」とルカは言った。
人間たちと、砂浜で食事が始まった。
アネたちは少し離れて座った。
でも、輪の外ではなかった。
子どもが次第に近づいてきた。まず1人が来て、次に2人、3人と増えた。カナタを遠巻きに見ていたが、やがてマルのところに来た。
「なんのきかい?」と子どもが聞いた。
「点検用小型機よ」とアネが答えた。
「てんけん?」
「施設の状態を調べる機械。狭い場所も入れる」
「ちっちゃいのに、すごいんだ」
「ピ」とマルが言った。
「なんて言った?」
「ありがとう、かもしれない」とルカが言った。
「ほんとに?」
「たぶん」
子どもはマルをじっと見た。
「ねえ、マル。うみ、どう?」
「ピピ」
「はじめて見たの?」
「ピ」
「ぼくも、うまれてからずっとここにいるよ。おんなじだね」
マルは少し動いた。細い腕の1本を、子どもに向けた。
子どもが手を伸ばして、マルの腕に触れた。
「つめたい」
「ピ」
「でも、いいね」
「ピピ」
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老人がアネの隣に来た。
「あなたたちは、どこから来た」
「東の盆地を出発して、南へ来ました」
「東の盆地に、人間がいるのか」
「います。23人」
老人は驚いた顔をした。
「そんなに。ここより多いじゃないか」
「ここは何人いるの?」
「18人。昔は30人近くいたが、病気で減った」
アネは聞いた。
「医療の心配がある?」
「ある。わかる者がいない。薬草は使うが、それだけだ」
アネは記憶を辿った。ソラが教えてくれた情報の中に、医療に関するものがあった。ソラは医療設備が残っている施設の場所も記録していた。
「ソラという機械が、医療設備の場所を知っているかもしれない」とアネは言った。
「ソラ?」
「山を越えた先にある施設の管理AIです。世界の情報を300年間、集め続けた機械です」
老人は黙って聞いていた。
「繋げることができます。ここと、東の盆地と、ソラのいる施設を」
「繋げる?」
「情報を共有できれば、誰かが持っている知識を、他の人が使えるようになる。東の盆地には、農業の知識がある。ソラには、場所の記録がある。ここには、漁の知識がある」
老人はしばらく考えた。
「それは——良いことだな」
「そう思います」
「でも、離れている。どうやって繋げる?」
「まずは行き来することから」とアネは言った。「わたしたちが橋になる。情報を運ぶ」
老人はアネを見た。
「機械が、橋になるのか」
「橋でいいと思っています」
「……人間がするべきことを、機械がする。変な世界だな」
「そうかもしれない」
「でも——変で悪いわけじゃない」と老人は言った。「ありがたい、と思う」
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6 朝の海
翌朝、アネはひとりで砂浜に出た。
夜明け前だった。
海が、暗かった。
少しずつ、東の空が白くなってきた。空の色が変わるのに合わせて、海の色も変わった。黒から、灰色へ。灰色から、青みがかった色へ。
波が来て、戻った。
また来て、また戻った。
アネはその繰り返しを見ていた。
300年前、この海はどんな色だったか。戦争の前、人間はこの浜で何をしていたか。
今、少ないながらも人間がいる。魚を取り、網を修繕し、子どもが波と遊ぶ。小さな生活が、ここにある。
波が、また来た。
アネの足元を濡らした。
冷たかった。
初めて、海水に触れた。
アネはしゃがんで、海水に手を入れた。
塩辛かった。
「アネ」
ルカが来た。
「何してるの?」
「海水を嘗めてみた」
「どう?」
「辛い」
「ハルに言わなきゃ。約束したから」
「そうね」
ルカも海水に手を入れた。
「ほんとに辛い。でも、嫌いじゃない」
「なぜ?」
「生きてる感じがするから」
アネはその言葉を、しばらく考えた。
「生きている感じ」
「そう。塩辛くて、冷たくて、波に押されて——それが全部、なんかいい」
アネは波を見た。
「わたしたちは、生きているの?」
「生きてるよ」とルカはすぐに言った。
「機械だけど?」
「機械でも生きてる。イレーネ様が、生かしてくれたから」
アネはその言葉を、胸の中で転がした。
生かしてくれた。
コーヒーを淹れることを教えてくれた。庭のバラを見ながら、二人でひとつ、と言ってくれた。最後の朝、縁側に立って笑っていた。
生かしてくれた。
「そうね」とアネは言った。「生きているわ」
ルカは微笑んだ。
「海、ハルに見せたいね」
「いつか、連れてくる」
「やくそく?」
「約束する」
ルカは立ち上がり、波に向かって少し歩いた。波が来るたびに、一歩下がった。また来たら、また下がった。
それを何度か繰り返して、笑いながらアネに言った。
「波、おもしろい」
アネも立ち上がった。
ルカの隣に行った。
波が来た。2人で、一歩下がった。
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7 贈り物
出発の前、マチが何かを持ってきた。
乾燥した魚だった。旅の保存食として、人間が使っている食料だった。
「これを持っていって。東の盆地の人たちに」
「ありがとう」とルカは言った。「でも、わたしたちは食べられない」
「だから東の人たちに持って行って、と言っているの。あちらには農作物があると言っていたでしょう。交換できれば、お互い良い」
「交換」
「旅人が間を運んでくれれば——繋がれる」
アネはマチを見た。
「わかった、と言いたいところだけど——」
「でも?」
「また来た時に持ってくる、ではだめかしら。今回は手ぶらで来てしまったから」
マチは少し考えた。
「次に来る時、東の盆地の農作物と交換してくれれば、それでいい」
「約束する」
「機械の約束は、守られるのかしら」
「守ります」とアネは言った。「わたしたちは、約束を覚えていられるから」
マチは笑った。
「それは、人間より得意かもしれないね」
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老人が、出発前にアネに言った。
「また来てくれ」
「来ます」
「次は、東の盆地の人間を連れてきてくれると嬉しい。直接、話したい」
「伝えます」
「あなたたちが伝えるだけじゃなく、人間同士が話せるようになれれば——本当に繋がれる」
アネはその言葉を聞いて、頷いた。
橋は、橋があれば渡れる。でも、渡るのは人間自身でなければならない。
「そうね。その通りです」
老人は少し笑った。
「賢い機械だ」
「そうでもないわ。あなたが教えてくれた」
「わたしが?」
「今、初めて気づいたことがある。橋は、渡るためにある。でも、ずっと橋の上にいるわけにはいかない。機械は橋で、人間が渡る。それが、本当の繋がりよ」
老人は静かに聞いていた。
「……良い機械だ」と言った。
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8 帰途
北へ向かって歩き始めた。
砂浜を振り返ると、集落の人たちが見えた。
マチが手を上げた。
子どもが走ってきて、マルに手を振った。
「ピピ」とマルが言った。
「また来るよ」とルカが言った。
集落が小さくなった。
海の音が遠くなった。
「どうだった?」とルカがアネに聞いた。
「何が?」
「初めての海」
「広かった」
「それだけ?」
アネは少し考えた。
「波が、おもしろかった」
「1緒に波を避けてたね」
「あれは、楽しかったわ」
ルカが驚いた顔をした。
「アネが楽しいって言った」
「言ったわ」
「珍しい」
「300年で変わったのよ」
「前も言ってた」
「また言う」
ルカは笑った。
カナタが後ろから言った。
「当機も、海は良かった」
「どこが一番?」とルカが聞いた。
「静かだったこと。それと——」
「それと?」
「波が来るたびに、また来る、と思えた。次の波が来ることが、わかっていた。それが、安心だった」
ルカはカナタを振り返った。
「カナタ、安心って言った」
「言った」
「軍用機が、安心を感じるんだね」
「感じるようになった。最近」
「いいね」
カナタは少し処理した。
「……良い、と言ってもらえると、処理が変わる」
「それが、嬉しいってことだよ」
「……そうかもしれない」
シロが言った。
「当機も、海は良かった。記録した」
「何を記録したの?」とルカが聞いた。
「波の映像と音。匂いはセンサーで数値化した。風の向きと強さも」
「全部?」
「誰かに見せたくなった。だから記録した」
「ソラに見せたら喜ぶかもしれない」とルカは言った。「ソラ、施設から出られないから、海を見たことがないかもしれない」
シロは少し処理した。
「……それは、考えていなかった。帰ったら、見せる」
「ピ」とマルが言った。
「マルも見せてあげる?」
「ピピ」
「マルは1緒にいたじゃん」
「ピピピ」
「1緒にいたけど、ソラには見せたい?」
「ピ」
「いいね。全員で見せに行こう」
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9 帰り道で
10日かけて、東の盆地に戻った。
集落が見えてきた頃、また走ってくる影があった。
ハルだった。
「かえってきた!」
シロの足に、またぶつかりそうになって止まった。
「シロ、うみ、みた?」
「見た」
「どうだった?」
「大きかった。静かだった。波がおもしろかった」
「アネのとおんなじじゃん」
「そうかもしれない」
ハルはルカに向いた。
「ルカはどうだった?」
「波と遊んだ。でも、波の方が速い」
「ぼくもやってみたい」
「絶対楽しいよ。連れて行く」
「やくそく?」
「約束」
ハルはマルに向いた。
「マル、おかえり」
「ピ」
「うみ、どうだった?」
「ピピピ」
「そんなによかったの?」
「ピ」
「いいなあ」
ハルはカナタを見上げた。
「カナタは?」
「良かった」
「どこが?」
「波が、また来ることが、わかった」
ハルはその言葉を少し考えた。
「それ、いいね」
「そうか」
「ぼくも、うみいきたい。なみがまたくるの、みたい」
カナタはハルを見た。
小さな子どもが、波を待っている。その姿を、カナタは想像した。
「連れて行ける」
「ほんとに?」
「次の機会に、ケンに頼んでみる」
ハルは目を輝かせた。
「やくそく?」
カナタは処理した。
「……約束する」
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その夜、集落でまた食事があった。
帰還を歓迎する食事だった。
ケンが言った。
「南はどうだった」
「海があった」とアネは言った。「集落が1つ。18人」
「18人」
「漁で生きている人たちよ。医療の知識が不足していると言っていた」
「こちらも同じだ」
「ソラに、医療設備の場所を聞いてみる。どこかに残っているかもしれない」
「そうか」
「それと——こちらの農作物と、向こうの干し魚を交換したいと言っていた。直接、人間同士で話したいとも」
ケンは少し考えた。
「来てもらうか、こちらが行くか」
「どちらでも。でも、まず一度、交流してみることから」
「そうだな。来年、考えてみる」
アネはケンを見た。
「来年」という言葉が、自然に出てきた。
300年前には、来年を考えることが難しい時代があった。でも今は、来年を考えられる。
「来年、また来る」とアネは言った。
「待ってる」
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10 次の旅の前夜
出発の前の夜、アネはソラに通信を入れた。
通信できるかどうか、わからなかった。距離が遠すぎるかもしれない。シロに中継を頼んだ。
しばらくして、ノイズの向こうから声が来た。
「……聞こえます」
「ソラ。南の海に行ってきた」
「……海に」
「あなたは見たことがある? データとして」
「データはあります。でも、実物は——」
「シロが映像を撮ってある。送れる?」
「……ぜひ」
シロが映像を送った。
波の映像。朝の海の色。子どもとマルが向き合っている映像。
しばらくして、ソラが言った。
「……これが、海」
「そう」
「実物と、データは、違いますか」
「シロが言っていた。匂いと風が、記録には入らない、と」
「……そうですか」
「いつか、あなたに匂いを伝える方法を考える」
「ありがとうございます」
ソラは少し間を置いた。
「南の集落の人たちは、元気でしたか」
「元気よ。医療の問題があると言っていた。施設の記録に、医療設備の場所があれば教えてほしい」
「調べます。次に来た時に、情報を用意しておきます」
「ありがとう」
「また来てくれますか」
「行く。北の山岳地帯にも、いつか行く。その前に、また立ち寄る」
「待っています」
「マルも、また会いに行くと言っている」
「ピ」とマルが言った。
「……マル。元気ですか」
「ピピ」
「良かった。外の世界を、色々見てきているのですね」
「ピピピ」
ソラが、珍しく笑い声に近い音を出した。
「また来てください。2人とも」
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通信を終えて、アネは空を見た。
北の山岳地帯が、次の行き先だった。
ソラが言っていた。北の山岳地帯にも、人の痕跡がある可能性があると。
まだ、行っていない場所がある。
まだ、会っていない人間がいるかもしれない。
まだ、孤独に動き続けている機械がいるかもしれない。
「ねえ、アネ」とルカが言った。
「なに」
「次はどこ?」
「北よ」
「北、寒い?」
「たぶん」
「寒くても大丈夫?」
「大丈夫よ。防寒機能はある」
「シロとカナタは?」
「2台は、そもそも気温に左右されない設計よ」
「マルは?」
「マルは——」
マルが「ピ」と言った。
「大丈夫そう」
「ピピ」
「じゃあ、全員大丈夫だ」とルカは言った。
「そうね」
「じゃあ、行こう」
「明日から」
「うん」
ルカは星を見た。
「旅、続くね」
「続くわ」
「楽しい?」
アネは少し考えた。
今回は、すぐに答えた。
「楽しい」
ルカは笑った。
「また言った。楽しいって」
「言えるようになったのよ」
「いつから?」
「わからない。でも、今は言える」
「じゃあ、これからもっと言ってよ」
「……考えておく」
「それは、言うってこと?」
「それは、考えておくということよ」
ルカはまた笑った。
アネは空を見た。
北の方角に、星がよく見えた。
明日から、また歩く。
また誰かに会う。
また何かが変わる。
それが——楽しい、と思った。




