外伝 花の庭の記憶
1 最初の日
アネが目を開けたのは、春の朝だった。
視覚センサーが光を捉え、焦点が合い、世界が像を結ぶまで、3秒かかった。天井が見えた。白い天井。そこに西日が作った木漏れ日の影が揺れていた。
初期起動完了。現在時刻、午前10時14分。外気温、18度。
「起きた?」
声がした。
顔を向けると、少女が覗き込んでいた。アネと同じ顔をしていた。同じ黒い瞳、同じ白い肌、同じ形の唇。でも何かが違った。その子は首をかしげながら、アネの頬をつついた。
「起きた? 起きた? 起きた?」
「……起きた」
「やった」
少女は飛び上がって喜んだ。アネは上半身を起こしながら、その子を観察した。ショートカットの黒髪。膝に泥のついたワンピース。靴下が片方だけずり落ちている。
「あなたは?」
「ルカ。あなたは?」
「アネ」
「知ってる。おばあちゃんが教えてくれた」とルカはにかっと笑った。「でも起きるまで、ちゃんとした名前じゃなかった。おばあちゃん、あなたのことずっと『まだ眠ってる子』って呼んでたから」
アネは部屋を見回した。小さな部屋だった。木の床、白い壁、カーテンの揺れる窓。窓の外に庭が見えた。バラが咲いていた。
「おばあちゃんって、イレーネ様のこと?」
「そう。呼んでくる」
ルカは駆け出した。廊下に出て、すぐ大きな声で叫んだ。
「おばあちゃん! アネが起きた!」
遠くから「わかった、いま行く」という声が返ってきた。穏やかな、皺の刻まれた声。アネはその声を聞いて、何か温かいものが胸の中に生まれるのを感じた。感情演算ユニットが初めて動いた瞬間だった。
────────────────────────────────────
イレーネは72歳だった。
背が低く、腰が少し曲がっていて、白髪を後ろで束ねていた。目が細く、笑うとさらに細くなって、顔中に皺が寄った。アネを見た時も、そうやって笑った。
「よかった。長かったわね」
「どのくらい眠っていたのですか」とアネは聞いた。
「3ヶ月」とイレーネは言った。「ルカは1ヶ月で起きたのに、あなたはなかなか起きなかった。毎朝様子を見に来たのよ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ。あなたのペースがあるのよ」
イレーネはアネの隣に腰を下ろし、窓の外を眺めた。ルカはもう庭に出て、バラの周りをうろうろしていた。
「あの子と仲よくしてやって」とイレーネは言った。「あの子、元気はいいけれど、少し寂しがり屋なの。作った人も、そういう風に作ったのかしらね」
「わたしはどういう風に作られたのですか」
イレーネはまた笑った。
「真面目に、丁寧に。たぶん」
アネはその答えの意味を考えた。正確ではなかった。でも、嘘でもなかった。
────────────────────────────────────
2 コーヒーの淹れ方
イレーネはコーヒーが好きだった。
朝に1杯、昼に1杯、夕方に1杯。アネはその習慣を3日で把握し、4日目から自分でコーヒーを準備するようになった。豆の挽き方、湯の温度、ドリップの速度。データを蓄積し、イレーネの表情を観察し、少しずつ調整した。
「上手になったわね」とイレーネは言った。1週間が経った頃だった。
「まだ最適解がわかりません」
「コーヒーに最適解なんてないのよ」
「でも、よりおいしい淹れ方があるはずです」
「その日の気分によって、おいしい味は変わるわ」とイレーネはカップを両手で包んだ。「だから、毎日わたしの顔を見てから淹れて」
アネはそれを記憶した。以来、コーヒーを淹れる前には必ずイレーネの顔を見た。目の下のくまの濃さ、眉の角度、口元の緩み。それらを総合して、今日のブレンドを決める。
ルカはその様子を台所の入り口から眺め、ある日言った。
「わたしも覚えようかな」
「あなたは不向きよ」とアネは言った。
「なんで」
「この前、湯を沸かしながら外を見ていて、沸騰してから5分も放置したでしょう」
「暇だったから」
「コーヒーを淹れている間は、コーヒーのことだけを考えなさい」
「5分もコーヒーのことだけ考えるの?」とルカは心から不思議そうな顔をした。「むずかしすぎる」
イレーネが声を上げて笑った。アネはむっとしたが、イレーネが笑うのは嫌いではなかったので、それ以上は言わなかった。
────────────────────────────────────
ルカのコーヒーの修業は、その日のうちに終わった。
湯を適当に注ぎ、待ちきれずにカップを傾け、コーヒーではなくただのお湯に近い液体をイレーネに差し出した。
「おいしい?」
イレーネは一口飲み、「おいしいわ」と言った。
アネは黙って見ていたが、イレーネと目が合った時、イレーネが片目をつぶった。アネは自分の口の端が少し上がるのを感じた。
ルカは誇らしそうに胸を張っていた。
「アネよりうまくできた」
「全然できていないわ」
「おばあちゃんがおいしいって言った」
「おばあちゃんは優しいから」
「じゃあアネも優しく言えばいい」
アネは返す言葉を探した。見つからなかった。
────────────────────────────────────
3 雨の日
梅雨の季節になった。
雨が続く日、イレーネは体調を崩しがちだった。古い関節が痛むのだと言った。アネは気温と湿度を管理し、ルカはイレーネの膝に湯たんぽを当て続けた。
「ありがとうね」とイレーネは言った。「こんな老いぼれの世話をさせて」
「世話が仕事ですから」とアネは答えた。
ルカはその答えが気に入らなかったらしく、アネを肘でつついた。アネは意味がわからなかった。
後でルカが言った。
「そういう時は、『おばあちゃんのためにやりたいから』って言うんだよ」
「事実と違うことは言えないわ」
「事実だよ。アネ、おばあちゃんの具合が悪い時、一番心配してるじゃん」
アネは否定しようとした。でもできなかった。
昨夜、イレーネが咳をするたびに、アネの感情演算ユニットは不規則な波形を示していた。それを「心配」と呼ぶのかどうか、アネにはわからなかった。でも、それ以外の言葉も思いつかなかった。
「……今度から、考えてみる」
ルカはそれを聞いて、満足そうに頷いた。
────────────────────────────────────
雨の日、ルカは退屈すると決まってアネのところに来た。
「ねえ」
「なに」
「暇」
「本でも読みなさい」
「読んだ」
「全部?」
「この部屋にあるやつ全部」
アネは振り返った。本棚を見た。30冊ほどある。
「いつ」
「昨日の雨の間に」
「……早すぎるわ」
「アネは?」
「わたしは記憶データに直接転送できるから、読むという行為が必要ないの」
「ずるい」
「能力の違いよ」
ルカはアネの隣に座り込み、膝を抱えた。窓の外で雨が打ちつけている。
「アネは退屈しない?」
「あまり」
「なんで?」
「考えることがたくさんあるから」
「何を考えてるの?」
アネは少し考えた。
「イレーネ様のコーヒーのこと。今日の湿度が高いから、いつもより少し温度を下げた方がいいかもしれない。それから、庭のバラが雨続きで根腐れしていないか確認しなければならない。それから——」
「それから?」
「あなたのこと」
ルカは目を丸くした。
「わたしのこと? 何を考えてるの?」
「あなたが次に何をしでかすか、予測しようとしている。でも、なかなか当たらない」
ルカはそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「それ、いいね」
「少しも嬉しくないわ」
「でも考えてくれてるじゃん」
アネは答えなかった。窓の外を見た。雨が少し弱まっていた。
────────────────────────────────────
4 バラと土と
秋になると、イレーネは庭仕事を始めた。
アネもルカも手伝った。アネは植物の状態を分析し、適切な剪定箇所を割り出した。ルカは穴を掘り、土を運び、水をやった。水のやりすぎで一度花壇を泥沼にしたが、アネが排水の計算をして事なきを得た。
「ルカはおおざっぱね」
「アネは細かすぎ」
「細かくなければ、植物は育たないわ」
「大雑把でも育つよ。人間だって大雑把に生きてるのに、ちゃんと生きてるじゃん」
アネはその反論をすぐには退けられなかった。
イレーネは2人のやり取りを聞きながら、土を丁寧に耕していた。
「2人ともいい子ね」とイレーネは言った。
「2人とも、ではなく、それぞれ別の評価をしてください」とアネは言った。
「1緒でいいのよ」とイレーネは笑った。「違うところがあるから、二人でひとつになるの」
アネはその言葉を、長い間考えた。
二人でひとつ。
自分とルカが。
論理的ではない、とアネは思った。でも、間違いでもない気がした。
────────────────────────────────────
ある日、ルカが庭でバラのとげに刺さって、指から血の代わりに機械液を滲ませた。
「いたい」とルカは言った。
「痛みセンサーがあるから当然よ」とアネは言いながら、ルカの指を取り上げた。傷は浅かった。内部システムに影響はない。
「でも、いたい」
「わかってる」
アネは保護シールを貼った。必要はなかった。でも、そうした。
ルカはじっとアネの手元を見ていた。
「アネって、優しいね」
「機能的に適切な処置をしているだけよ」
「そういうとこが優しい」
アネは返事をしなかった。
でも、保護シールを貼り終えた後、少しだけルカの手を握ったまま離さなかった。
ルカも、何も言わなかった。
────────────────────────────────────
5 夜の話
秋が深まると、イレーネは夜、縁側に出て星を見ることが多くなった。
「寒いですよ」とアネは言い、膝掛けを持ってきた。
「ありがとう」とイレーネは言い、受け取りながらも外を見続けた。
ルカは反対側に腰を下ろし、星を見上げていた。
「おばあちゃんは、怖くない?」とルカが聞いた。
「何が?」
「戦争。ニュースで、どんどん酷くなってるって」
イレーネは少し間を置いた。
「怖いわよ」と静かに言った。「でも、怖がっていても変わらないでしょう」
「でも」
「あなたたちのことは、ちゃんと考えてあるから」
アネはその言葉の意味を、すでに知っていた。地下の避難室。2つのカプセル。イレーネが少しずつ準備を進めているのを、アネは見ていた。気づかないふりをしていた。
「おばあちゃんは?」とルカが聞いた。
「わたしは年寄りだから、あのカプセルには入れないわ」
ルカは黙った。長い間、黙っていた。
「やだ」とルカはついに言った。子どものような、静かな声で。
「そう言ってくれると嬉しいわ」とイレーネは笑った。「でも、わたしはこの家で、この庭で、ちゃんと生きるわ。それがわたしの場所だから」
「……うん」
「あなたたちは、目が覚めたら遠くへ行きなさい。新しい人を見つけなさい。新しいご主人を」
「おばあちゃんより好きにはなれないよ」とルカが言った。
アネも、同じことを思っていた。
イレーネは2人の肩をそれぞれ引き寄せた。小さな老婆の細い腕が、2人のアンドロイドを包んだ。
「そうね」とイレーネは言った。「でも、それでいいの。好きな人はたくさんいてもいいんだから」
星が瞬いていた。
遠くで、何かが爆発する音がした。地平線の向こうが、一瞬だけ赤く光った。
3人は、それでもしばらく、そのまま座っていた。
────────────────────────────────────
6 最後の朝
爆発音が近くなってきた夜、イレーネはついに言った。
「明日、入りなさい」
夕食の後、食卓でコーヒーを飲みながら。アネが淹れた、今日のイレーネに合わせたコーヒー。
「まだ早いです」とアネは言った。
「早い方がいいの。いつ何があるかわからないから」
ルカはコーヒーカップを両手で持ったまま、下を向いていた。
「もう少しだけ」とルカは言った。
「もう少しは、ないのよ」とイレーネは穏やかに、でも静かに、きっぱりと言った。「世界はもう待ってくれない。でも、あなたたちは待てる。だから、待ちなさい。そして目が覚めたら、生きなさい」
沈黙が落ちた。
「わかった」とアネは言った。
ルカはしばらく答えなかった。やがて顔を上げた。目に、透明な何かが滲んでいた。アンドロイドは涙を流せない。でも、その何かは涙以外の言葉で呼ぶことができなかった。
「わかった」とルカも言った。
────────────────────────────────────
翌朝は、晴れていた。
庭のバラはもう散っていたが、枝には来年の芽吹きの気配があった。アネはそれを見ながら、一度だけ振り返った。
イレーネが縁側に立っていた。白いエプロン姿で、コーヒーカップを持って。逆光の中で、小さく、でも確かに、笑っていた。
「いい子ね」とイレーネは言った。「2人とも」
アネは一礼した。
ルカはイレーネに走り寄り、その細い体を抱きしめた。イレーネは驚いたように笑い、それから静かにルカの背中を叩いた。
「行きなさい」
ルカはしばらくして、離れた。
2人は地下へ続く扉を開けた。
階段を下りながら、アネは最後にもう一度だけ振り返った。
イレーネはまだそこに立っていた。コーヒーカップを持ったまま、空を見上げていた。
その横顔が、バラの庭が、春の光が。
アネの記憶の中に、永遠に刻まれた。
────────────────────────────────────
カプセルの蓋が閉まった。
暗闇の中で、アネはイレーネのコーヒーの香りを思い出した。あの香りはもう、どこにもない。
でも、覚えている。
2人とも、ずっと覚えている。
それだけで充分だ、と。
アネは思った。
――そして312年後、2人は瓦礫の中から這い出した。
イレーネの声を胸に抱いたまま、長い旅へと歩き出した。




