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【短編】仮面を被ったまま生きていた部屋 二話

【短編】「笑う事を許されなかった部屋」の続編です。


仮面を被って過ごしていたあの日々。


その裏側で、同時に進んでいた現実とは——


私は、もう一つの地獄を生きていた。


第6章 それぞれの逃げ方



介護を手伝う私とは対照的に、兄はほとんど実家に顔を出さなかった。

片道一時間の場所に住む彼女に、夢中だった。 



私はどこかで、

亡き祖父に可愛がられていたのは自分のほうだと思っていたし、


祖母は兄のほうを可愛がっているように見えていた。


だから、祖母に会いに来ない兄のことが、どうしても理解できなかった。



祖母が、ぽつりと言った。



「あの子は本当に、遊んでばっかりだね」



兄のことを、小言のように口にするようになっていた。


祖母は、兄をとても可愛がっていた。 


だからこそ、

私が介護を手伝っていて、兄がほとんど顔を出さないという状況が、理解できなかったのだと思う。


私も本当は、兄のことを情がない人間だと、心の中で思っていた。


けれど、いつ亡くなってしまうか分からない祖母に便乗して、兄の小言を口にしてしまったら、


祖母の中にある兄と楽しい思い出を


私自身が汚してしまいそうな気がして、

話題を変えて、祖母との昔の話をした。


当たり前にそばにいる存在が、

いつか当たり前ではなくなってしまうかもしれない。



砂時計が壊れてしまって、

もう二度と時を戻せなくなるのではないか。

そう思うと、とてもとても恐ろしかった。



けれど今になって思えば、

私たちはそれぞれ違う形で、あの家と、あの時間と、

向き合っていたのかもしれない。



もしかしたら兄は、

祖母が衰えていく姿を、見たくなかったのかもしれない。


現実を受け止められなくて、

彼女の場所に逃げていたのかもしれない。


兄のことを責める資格なんて、

私にはなかったのかもしれない。


私自身もまた、

あの家から逃げることで、

祖母が病気だという現実を、直視する勇気を失っていたのだから。






ある日の昼間、

会社の人に呼ばれた。



理由は分からなかったけれど、

胸の奥に、強い嫌な予感が広がっていった。



「お母さんから電話だよ」




と言われた。



その日、どうやって実家に帰ったのかも、覚えていない。



急いで帰った頃には、もう遅かった。



祖母が亡くなったのは、

私でもなく、母でもなく、兄がそばにいた日のことだった。 



珍しく兄が実家に来ていて、

母が買い物に出ている、わずか三十分の間の出来事だった。



私は、その場に居たかった。

看取ることも、声をかけることも、できなかった。



あとから聞いた話では、

祖母は眠るように静かだったという。


苦しそうにすることもなく、

まるで眠るように、息を引き取ったと。


本当は、最後に何かを伝えたかったのかもしれない。



祖母は、兄に何かを伝えたかったのか、

それとも、ただ兄と最後の時間を過ごしたかったのかもしれない。


それが誰に向けた言葉だったのかは、

もう誰にも分からない。


沈んでいく現実を、私はただ、見ていた。



涙は出なかった。

きっと受け入れられなかった。


心だけが、取り残されたような気がした。


日常は、何も変わらない。

それなのに、

大好きだった祖母は、もう冷たい。



昨日まで話していた口も、目も、もう二度と動かないなんて、

どうしても信じられなかった。



その事実だけが、どうしても受け入れられなかった。

祖母は、まだ六十二歳という若さで、この世を去ってしまった。




揺れる感情の狭間で、

私はいつも通り、明るく振る舞った。

そのことを、母に強く怒られたのだけは覚えている。



今思えば、祖母が亡くなった日に明るく振る舞うこと自体、おかしかったのだと思う。




恋人の暴力に耐えながらの仕事と介護。

父が単身赴任で不在の中、ほとんど一人で介護を担い、疲れ切っていた母。

頼りにならない兄。



私は、誰にも言えないほど、心が壊れていたのだと思う。


喜びも、怒りも、悲しみも、楽しささえも、


もう分からなくなるほどに。


何かを口にしたら、誰かを心配させてしまう。

そう思うだけで、

私はただ、自分の殻に籠るしかなかった。






第7章 受け取り方を知らなかった愛情



親は、きっと私を安全なレールの上に乗せたかった。


それは私のためだと言いながら、

本当は「自分が安心できる人生」を歩ませたかったのだと思う。


勉強して、いい学校に行って、

失敗せず、迷わず、遠回りをしない人生。


誰かが用意した「正解」の上を、ただ歩いてほしかったのだろう。


でも私は、そのレールの上に立つたび、息苦しくなった。


レールを用意されるたびに、

私は、自分自身で別のレールを作ろうとした。


わたしだけのレールが欲しかった。


親が用意したレールの上にいる私は、本当の私ではなかった。

兄は、親の敷いたレールの上を歩く人間だった。


甘え方も上手で、その生き方を自然に選べる人だったのだと思う。


私は、兄とは対照的だった。


誰かに用意された人生ではなく、自分の人生を、

自分の足で歩きたかった。


中学生のとき、私は無理やり塾に入れられた。


そこでは成績順に3つにクラス分けが行われ、

まさかの私は、一番上のクラスに振り分けられた。


けれど私は、こう言った。



「友達がいるクラスに移動させてくれないなら、行かない」



今思えば、相当わがままな発言だったと思う。


それでも母は、その気持ちを受け入れてくれた。



私は、友達と同じ一番ランクの低いクラスで勉強することになった。


それが、私なりの、ほんの小さな反抗だった。



国語が苦手で、

日本で国語の授業を受けていない時期があった私は、

言葉に対して強いコンプレックスを抱えていた。


きっとあのときの私は、

前に進む勇気がなかったわけじゃなくて、

ただ、逃げたかっただけなのかもしれない。



頭の良い人たちと同じ国語の授業を受けて、

自分の日本語がおかしいと見抜かれてしまう気がして、たまらなく恥ずかしかった。




祖母がいた頃は、まだ逃げ場があった。


黙って話を聞いてくれて、

何も決めつけずに受け止めてくれるのが、祖母だった。


けれど、その存在が消えたとき、


私は初めて「逃げ場がない」という感覚を知った。



ここから、何を信じて生きればいいのか。

その答えが見えなくなった瞬間、

私の中で、何かが静かに崩れ始めた。


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― 新着の感想 ―
前作も読みました。 前作と同時進行でこんな出来事が起きていたなんて壮絶でしたね。 強い衝撃を受けました。
静かに怖くなっていく感じが印象的で、読んでいてぞわっとしました。 この先どうなるのか気になり、続きも楽しみにしています。
フィクションになら、礼儀を弁えた上で好きに感想を述べることができますが、ノンフィクション要素があるとどうにも……。 興味深いお話をありがとうございます。
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