7.ジルベルトの決意
執務室の空気が、澄み渡っている。 俺はソファに深く体を沈めたまま、部屋中をせわしなく動き回る小さな背中を目で追っていた。
レイが雑巾で棚をひと拭きするたびに、長年染み付いていた瘴気が霧散し、キラキラとした光の粒子となって消えていく。 俺の魔眼を通しても、その「浄化」のプロセスはあまりに鮮やかで、そして不可解だった。
(……詠唱も、魔法陣もなしだ)
通常、浄化魔法とは神への祈りを捧げ、魔力を練り上げて行う儀式的なものだ。 だが、こいつはただ「掃除」をしているだけ。 呼吸をするように、無意識に周囲を清浄化している。
(やはり、只者ではない)
俺は、彼女が手を止めたタイミングを見計らって声をかけた。
「……おい」 「はい。まだ汚いですか?」 「いや、十分だ。眩しすぎて目が痛いくらいだ」
俺の皮肉を文字通り受け取ったのか、レイは「じゃあカーテン閉めますね」と窓際へ向かおうとした。 俺は慌ててそれを制し、本題を切り出した。
「その『力』だ。誰に教わった?」 「力? ……ああ、掃除の仕方のことですか?」
レイは小首を傾げた。
「誰にも教わっていません。見よう見まねです。 前の家では、これをやらないとご飯がもらえなかったので、必死に覚えました」
「……ッ」
俺は言葉を詰まらせた。 前の家――つまり、彼女がいた環境のことだろう。 『成果を出さないと食事を与えない』という、拷問に近い扱い。 この小さな体で、生きるために必死に能力を磨いたというのか。
(……許せん)
俺は拳を握りしめた。 そもそも、「聖女召喚」という儀式は、誰でも彼でも行ってよいものではない。 次元の壁を越えるには膨大な魔力と、星の巡りが必要となる。そのため、国王と大神官の双方が許可を出した時のみ解禁される、国最高レベルの秘儀だ。 それ以外での実施は、空間を歪め国を危険に晒す重罪として、固く禁じられている。
正規の手順で呼ばれたなら、国賓として扱われるはずだ。こんな扱いを受けるはずがない。 つまり、こいつは……王や大神官の許可を得ずに、功名心に焦った何者かが「違法」に行った召喚の被害者だ。 闇の組織か、あるいは道を踏み外した貴族か。 奴らは禁忌を犯し、この子を無理やり呼び出し……そして、これほど衰弱するまで酷使した挙句、この魔の森に捨てたのだ。
その時、コンコン、と執務室の扉がノックされた。
「団長、副団長のダリウスです。王都からの緊急連絡が入りました」 「入れ」
入ってきたのは、俺の補佐を務める副団長だった。 彼は入室した瞬間、足を止めた。 目をしばたたかせ、ピカピカに輝く室内と、そこで雑巾を絞っている薄汚れた少女を交互に見る。
「……団長。部屋を改装されましたか?」 「掃除させただけだ」 「掃除!? いえ、しかしこの清浄な空気は……まるで大神殿の聖域のような……」 「余計な詮索はするな。それより、報告だ」
俺が鋭く促すと、ダリウスはハッとして居住まいを正した。 彼は手にした羊皮紙を広げ、声を潜めた。
「はっ。王都からの魔術通信によりますと、事態は深刻です。 ……一昨日、極秘裏に王城にて『聖女召喚の儀』が執り行われました」
「……一昨日、だと?」
俺は眉をひそめた。 一昨日といえば、俺が森でレイを拾う直前だ。
「儀式自体は成功しました。しかし、座標の固定に失敗し、聖女様は王都ではない場所へ転移してしまったとのこと」 「……行方不明、か」 「はい。そして魔力探知の結果、落下地点はこの『魔の森』付近である可能性が高いとの通達です」
ダリウスはそこで言葉を切り、羊皮紙に書かれた「特徴」の欄に目を落とした。
「探知された聖女様の特徴は――『黒髪黒目の、小柄な女性』」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。 俺とダリウスの視線が、同時に窓際へ向く。
そこには、黒髪黒目の小柄な少女――レイが、窓枠のサッシをカリカリと掃除していた。 彼女の指先からは、淡い光(浄化の魔力)が漏れ出ている。
召喚のタイミング。出現場所。容姿。そして規格外の浄化能力。 偶然で片付けるには、あまりにも条件が一致しすぎていた。
「…………」 「…………」
ダリウスがレイを凝視し、そして俺を見た。 俺は何も言わず、ただ険しい顔で彼を見返した。
沈黙が落ちる。 通常ならば、副団長として即座に「確保しました」と報告すべき場面だ。 だが、ダリウスは長年、俺の背中を預けてきた男だ。 彼は俺の表情――聖女が見つかった喜びなど微塵もなく、むしろ何かを必死に噛み殺し、守ろうとしているような殺気――を見て、瞬時に全てを悟ったようだった。
彼はチラリとレイを見た。 元々来ていた服は泥などで汚れていたので騎士団の制服を貸しているとはいえ、服に着られているような細い体。そして、あまりにも虚無な瞳で、ただ淡々と「業務(掃除)」をこなす姿。 もし彼女をこのまま国へ突き出せば、どうなるか。 聡明な彼には、俺が何を危惧しているのか、痛いほど伝わったのだろう。
「……団長」
ダリウスは静かに口を開いた。
「この森は広大です。いくら我々でも、たった一人の遭難者を見つけ出すのは困難を極めるでしょう」
「……あ?」
「報告書には、こう記載しておきます。 『現在鋭意捜索中なるも、該当者発見に至らず』。 ……よろしいですね?」
彼は羊皮紙をパタンと閉じ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。 俺は目を見開いた。 こいつは……俺が口止めするよりも先に、自ら共犯者になることを選んだのか。
「……いいのか、ダリウス。それは陛下への虚偽報告になるぞ」 「虚偽? いえいえ、私は何も嘘はついておりません」
ダリウスは肩をすくめ、レイに視線を向けた。
「あそこにいるのは、団長が個人的に保護した『身寄りのない迷子』でしょう? 国が探しているような、立派な聖女様など、この部屋には影も形もありませんよ」
「……フッ」
俺は思わず口元を緩めた。 そうだ。こいつはこういう男だった。 形式や規律よりも、俺の意志と、そして目の前の「守るべき弱者」を優先できる騎士。
「……助かる。この借りは高いぞ」 「ええ、期待しております。王都に戻ったら、高い酒でも奢ってください」
ダリウスは一礼すると、踵を返した。 去り際、彼はレイに向かって優しく微笑みかけたが、彼女は気づかずにせっせと床を磨いていた。
「では、私は『捜索隊(という名のカモフラージュ)』の指揮に戻ります。 団長は、その……『迷子のお世話』をお願いしますよ」
扉が閉まる。 俺は深く息を吐き出し、ソファに背を預けた。 味方がいる。それだけで、これほど心強いとはな。
俺は障壁を解き、レイに向き直る。 俺たちの無言の連携など知らず、レイは窓際で「終わりましたー」と棒読みで報告してきた。
「おい、レイ」 「はい。次は何を? 廊下の雑巾掛けですか?」 「違う。……明後日、ここを発つ。俺と共に王都へ行くぞ」
レイの手がピタリと止まった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、少しだけ不安そうな瞳で俺を見た。
「王都……ですか。そこに行けば、私はどうなるんですか?」
その瞳が、俺の心を抉る。 きっと彼女は、また「どこかへ捨てられる」と思っているのだ。
「安心しろ。お前の身は俺が守る。 教会の連中にも、王族たちにも、お前のことは指一本触れさせん」
これは、騎士団長としての言葉ではない。 一人の男としての、誓いだ。
俺の屋敷で匿い、普通の子供としての生活を教える。 美味しいものを食べさせ、ふかふかのベッドで寝かせ、ぬいぐるみを抱かせ、泥だらけになって遊ばせる。 そうしていつか、お前が心から「生きたい」と願った時……その時初めて、お前が聖女としてどう生きるかを選べばいい。
「……そうですか。分かりました」
レイは小さく頷いた。 その表情はまだ硬い。俺の真意など、伝わっていないだろう。
(なるほど。失敗作の聖女を王都の広場での公開処刑ですね。教会や王族も見物に来ると。 ……まあ、移動中に美味しいものが食べられるなら、それでいいか)
俺の決意と副団長の粋な計らいなど露知らず、彼女の中で「公開処刑ルート」が確定したことになど、気づくよしもなかった。




