42.レイの悲痛な叫び。
「ひっ……!」
ジルベルトの放つ圧倒的な殺気に、クラウスはたたらを踏んで後退した。 だが、すぐに歪んだ笑みを張り付かせ、レイの肩を鷲掴みにする。
「来るな! 一歩でも近づいてみろ、この女の精神を完全に破壊してやる!」
クラウスが叫ぶと同時に、床の魔法陣が赤黒く発光した。 レイが「あぐっ……」と苦悶の声を漏らす。頭の中に直接楔を打ち込まれるような激痛が走っているのだ。
「動くなと言っているんだ、野蛮な獣め!」
クラウスは勝ち誇ったように叫ぶ。 ジルベルトの足が止まった。それを見て、クラウスは安堵の息を吐き――次の瞬間、ジルベルトの傷ついた心に塩を塗るように嘲笑を浮かべた。
「ははっ、そうだ。そこで見ていろ。 おいレイ、あいつを見ろ。お前の『飼い犬』が迎えに来たぞ」
クラウスは、レイの耳元で粘着質に囁き続ける。
「お前はもう知っているんだろう? あの狼が誰なのか。 毎晩毎晩、お前が『私なんて生きてる価値がない』と泣きついていた相手が、誰だったのか」
レイの瞳が揺れた。 そうだ。知っている。知ってしまった。 だからこそ、死んでしまいたいほど辛いのだ。
「傑作だよなぁ! 『団長さんと一緒にいたい』『捨てられるのが怖い』……あんな惨めな泣き言を、本人の前で垂れ流していたなんて! あいつはお前のことを笑ってたんだよ。『なんて重くて、面倒で、価値のない女だ』って見下していたんだ!」
クラウスの言葉が、レイの心の一番脆い部分を容赦なく踏み荒らす。 「……こ、来ないで……」
レイは震える手で顔を覆った。
「見ないで……! お願いだから、見ないでぇぇ……!」
全部、知られている。 私がどれだけ弱くて、卑屈で、……聖女としても、女性としても価値がない人間なのか。 あんな風にすがりつく無様な姿を見られて、幻滅されないはずがない。
「帰って……っ! 私のことなんて、放っておいてよぉぉぉッ!」
レイの絶叫が響く。 それは拒絶ではない。自分のみっともなさをこれ以上晒したくないという、魂の悲鳴だった。
だが。
「――断る」
低く、地を這うような声が、その叫びを塗り替えた。
ジルベルトは、止まらなかった。 一歩、また一歩。 魔法陣から放たれる防衛魔術の火花が、彼の身体を焼き焦がすのも構わず、ただ真っ直ぐにレイへと歩を進める。
「なっ……正気か!? 魔力防壁を、生身で……!」
狼狽するクラウスを無視し、ジルベルトはレイだけを見つめた。 その金色の瞳は、少しも怒ってはいなかった。軽蔑もしていなかった。 ただひたすらに痛ましげで、そして泣きたくなるほど真剣だった。
「レイ。俺を見ろ」
「嫌っ……! 知ってるくせに! 私が狼さんに……貴方に、…」
「ああ、全部聞いていた」
ジルベルトは足を止めず、魔法陣の結界を力任せに引き裂いた。 バヂィッ!! と閃光が走り、彼の手から血が滴る。それでも彼は止まらない。 驚愕に目を見開くレイの目の前まで歩み寄り、膝をついた。
「『私には価値がない』と言って泣いていただろう。 俺の毛皮を涙で濡らしていただろう」
「言わないでぇぇ……ッ!」
レイは耳を塞いで首を振る。 その言葉を繰り返されるだけで、心が死んでいくようだった。
「迷惑なんでしょう!? あんな依存心丸出しの女、気持ち悪かったでしょう!? 」
「違う!」
ジルベルトが叫んだ。 彼はレイの手首を掴み、無理やりその手を耳から引き剥がした。
「迷惑なものか! 気持ち悪いものか! ……嬉しかったんだ」
「……え?」
レイの思考が停止した。 予想していた罵倒や憐憫とは、全く違う言葉だったからだ。
「お前が俺を必要としてくれていると知って、どうしようもなく嬉しかった。 だが、正体が俺だとバレたら、お前はもうあんな風に本音を見せてくれないんじゃないかと……それが怖くて、言い出せなかった」
ジルベルトは、レイの手のひらを自分の頬に押し当てた。 そこには、人間としての肌の温もりと、獣のような一途な眼差しがあった。
「俺の方こそ、臆病だったんだ。 お前のその『弱さ』も、俺だけに向けてくれるなら、それは至上の幸福だ」
レイの瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。 嫌われていなかった。 価値がないなんて思われていなかった。 私の、誰にも見せられないドロドロとした暗い感情ごと、この人は受け入れてくれていたんだ。
「だん、ちょ……さん……ッ!」
レイはジルベルトの首に抱きついた。 声を上げて泣きじゃくる彼女を、ジルベルトは強く、強く抱きしめ返す。
「二度と離さない。お前が自分に価値がないと言うなら、俺が一生かけて証明し続ける。 お前は、俺にとって世界の全てだと」
「う、うぅぅ……信じて、いいんですかぁ……ッ!」 「ああ、信じろ。俺の愛は、お前が思うよりずっと重くて深いぞ」
二人の間に、割り込む隙間など一ミリもなかった。 愛の力で術を破られたクラウスは、呆然と立ち尽くしていた。
「ば、馬鹿な……。精神の呪縛が、こんな簡単に……」
「おい、邪魔だぞ手品師」
背後からドスッという音が聞こえた。 クラウスが振り返ると、いつの間にか背後に回っていたダリウスが、剣の柄でクラウスの鳩尾を強打していた。
「がはっ……!?」
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られてなんとやらだ。……ま、今回は狼だがな」
ダリウスがニヤリと笑って横に退く。 クラウスが膝をついたその先。 レイを抱きしめたまま立ち上がったジルベルトが、先ほどの慈愛に満ちた表情とは打って変わった、冷え切った瞳で見下ろしていた。
その背後には、怒りの形相をした巨大な銀狼のオーラが揺らめいているように見えた。
「さて……クラウス」
ジルベルトはレイの頭を優しく撫でて彼女の目を塞ぐと、右手で剣を抜き放った。
「俺の最愛の女性を泣かせた罪、どう償うつもりだ?」
それは、帝国の魔導師にとって、真の恐怖の始まりだった。




