41.レイのもとへ
夜風が頬を叩く。 三階のバルコニーから飛び出した体は、重力に引かれて地面へと落下していく。 だが、今の俺に恐怖はない。 あるのは、獲物を狩る獣の本能だけだ。
「ウゥゥゥゥ……ッ!!」
落下の最中、俺は自身の内側にある留め金を外した。 理性を、人の姿を、騎士としての枷を、すべて投げ捨てる。 骨が軋み、筋肉が膨張し、銀色の毛皮が全身を覆っていく。
ドォンッ!!
中庭の石畳に着地した瞬間、衝撃波が走り、周囲の植え込みが薙ぎ倒された。 土煙の中から現れたのは、もはや人間ではない。 馬よりも巨大な体躯を持つ、銀色の巨狼だ。
「……へえ、こりゃすげえや」
頭上からヒューッと口笛が聞こえた。ダリウスが軽やかに俺の隣に着地する。 彼は俺の姿を見ても眉一つ動かさず、むしろ楽しげに笑った。
「噂には聞いてたが、実物は迫力が違うな。これなら馬より速そうだ」
『……乗れ』
喉を震わせ、人語ではない念話のような低い響きで伝える。 ダリウスは一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤリとして俺の背に飛び乗った。
「おっと。騎士団長の背に乗るなんて不敬罪で首が飛びそうだが、緊急事態だ。甘えさせてもらうぜ!」
俺は返事の代わりに、大地を蹴った。
風になった。 城壁を一飛びで越え、街道を無視して森を一直線に突き進む。 木々が灰色の線となって後方へ飛び去っていく。
匂いがする。 微かだが、確実に。風に乗って漂ってくる、あの腐った魔力の臭いと――レイの甘く、悲痛な匂いが。
(待っていろ、レイ)
四肢に魔力を込め、さらに加速する。 お前が泣いているなら、その涙を舐め取ろう。 お前が絶望しているなら、その絶望ごと抱きしめよう。
もう、隠さない。 狼であることも、狂おしいほどの愛も。 すべてを晒け出して、お前を迎えに行く。
◇
――帝国の北端、断崖絶壁にそびえ立つ『黒鉄の離宮』。
その最上階にある儀式の間で、クラウスは愉悦に震えていた。 床には複雑な魔法陣が描かれ、その中央にレイが座らされている。 彼女の瞳は依然として虚ろなままだが、頬には乾いた涙の跡があった。
「素晴らしい……。聖女の絶望ほど、純度の高いエネルギーはない」
クラウスはレイの頬を冷たい指でなぞった。
「君は捨てられたんだよ、レイ。 あの騎士団長は来ない。君のような面倒な女、清々して忘れている頃だろう」
「……団長、さん……」
レイの唇から、弱々しい声が漏れる。 その言葉が出るたび、魔法陣が不吉な赤黒い光を明滅させた。彼女の心の傷が深まるほど、魔力炉の出力が上がっていくのだ。
「可哀想に。でも安心していい。私が有効活用してあげるからね。 君の命が尽きるまで、この国のための礎となれるんだ。光栄だろう?」
クラウスが高笑いし、儀式の最終段階に入ろうと手を掲げた、その時だった。
――ウォォォォォォォォンッ!!!
大地を揺るがすような遠吠えが、分厚い石壁を透過して響き渡った。 ただの獣の声ではない。大気中のマナさえも震わせる、王者の咆哮だ。
「なっ……何だ!?」
クラウスがギョッとして窓の方を向く。 虚ろだったレイの瞳に、わずかに光が戻った。
「……あ……」
その声は、聞き間違いようがない。 あの夜、優しく寄り添ってくれた、あの温かい――。
「まさか……いや、そんな馬鹿な。ここまでどれだけの距離があると……」
クラウスが否定の言葉を口にしようとした瞬間。
ドゴォォォォォォォンッ!!!!!
轟音と共に、儀式の間にある巨大なステンドグラスが粉々に吹き飛んだ。 舞い散るガラス片と爆風の中、銀色の閃光が室内へと躍り込む。
「ガァァァァァッ!!」
硝子の雨を浴びながら着地したのは、巨大な銀狼。 その背から黒衣の男が飛び降り、瞬く間に周囲の護衛兵たちを斬り伏せる。
そして狼は、ゆらりと首をもたげ、金色の瞳でクラウスを射抜いた。 その瞳には、明確な殺意と、激しい怒りが渦巻いている。
「……き、貴様は……っ!」
クラウスが悲鳴のような声を上げた。 狼の口元が歪み、鋭い牙が覗く。
『――見つけたぞ』
頭の中に直接響く、地獄の底から響くような念話。 銀狼の姿がブレて光に包まれたかと思うと、次の瞬間、そこには剣を構えたジルベルトが立っていた。 衣服はボロボロで、肩で荒い息をしているが、その姿は鬼神のごとく凄絶だった。
「俺のレイを返してもらおうか。……覚悟はできているな、クラウス」




