39.恋心。
「う……そ……」
唇が震えた。 信じたくない。でも、否定する材料が何一つない。 この逞しい腕も、包み込むような体温も、そして私を見つめる金色の瞳も。 すべてが、あの銀色の狼と同じなのだ。
じゃあ、何? 私が毎晩、抱きついて泣いていた相手は……団長さん? 「団長さんに捨てられるのが怖い」って、本人に向かって泣き言を言っていたの? 「私には価値がない」なんて惨めな本音を、全部、この人に聞かれていたの?
――ッ!!
カァァッ! と全身の血が湯沸かし器のように沸騰した。 羞恥。後悔。そして、極度のパニック。
(む、無理無理無理! 顔が見れない! あんな赤裸々なこと言っちゃった相手と、どうやって目を合わせればいいの!?)
団長さんは、愛おしそうに目を細めて私を見ている。 その優しさが、今は逆に痛い。全部知られた上で優しくされていると思うと、自分が情けなくてたまらない。
「……おはよう、レイ」
団長さんが、あの夜と同じ、低くて優しい声で囁いた。 彼は私の頬に触れようと手を伸ばしてくる。
「昨夜の話だが……」
「ッ――!!」
その話題を出された瞬間、私の許容量が限界を超えた。
「い、言わないでぇぇぇっ!!」
私は弾かれたように飛び起き、ベッドの隅まで転がってシーツを頭から被った。 ミノムシのように丸まり、ガタガタと震える。
「レ、レイ?」 「み、見てません! 覚えてません! 私、昨日はぐっすり寝てました! 夢も見てません! だから……だから、何も聞いてませんよねぇぇ!?」
シーツの中で顔を真っ赤にして、私は必死に叫んだ。 「気づいてしまった」ことを認めたら、昨夜の会話について話し合わなければならない。 そんなの、恥ずかしくて死んでしまう!
「……レイ。落ち着いてくれ。俺はただ、お前の不安を……」 「わぁぁぁぁ! 聞こえない聞こえない! お、おはようございます! 私、顔を洗ってきます! 着替えてすぐ仕事に行きますから!!」
私は団長さんの言葉を遮り、シーツを被ったままベッドから這い出した。 そして、団長さんの顔を一切見ないように――いや、見たら爆発してしまうから――脱兎のごとく洗面所へと駆け込んだ。
◇
それからというもの。 私は、どうしていいか分からず、ひたすら団長さんを避けるようになってしまった。 顔を合わせれば昨夜の記憶が蘇り、まともに息ができなくなるからだ。 自分でもダメだと分かっているのに、団長さんの姿を見ると逃げ出してしまう。 そんな私の挙動不審ぶりは、周囲の目にも明らかだったようだ。
私が廊下の角で、向こうから来る団長さんをやり過ごそうとコソコソ隠れていると。
「……何やってんだ、お前」
背後からガシッと首根っこを掴まれた。 振り返ると、呆れ顔のエリスさんが立っていた。
「ひゃっ! エ、エリスさん!?」 「さっきから見てりゃ、逃げてばっかりじゃないか。 お前ら、また何かあったのか? 団長、この世の終わりみたいな顔して廊下に立ってるぞ」
「う……」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。 エリスさんは溜息をつき、私の背中をバンと叩いた。
「詳しいことは聞かないけどさ。 お前が何を悩んでるか知らんが、団長はお前が思うよりずっと懐が深いぞ?」
「え……?」
「あの人は、お前に頼られるのが嬉しいんだよ。 もしお前が『重いこと言っちゃった』とか気にしてるなら、それは杞憂だ。 むしろ『もっと重くてもいいのに』って思ってるような変態……じゃなくて、愛が重い男だからな」
エリスさんはニカッと笑った。
「だから、安心して甘えときな。 あの人は、お前の弱さごと全部飲み込む覚悟なんて、とっくにできてるんだからさ」
エリスさんの言葉は嬉しかったけど、それでもまだ踏ん切りがつかない。
「……レイ様。少し、よろしいですか?」
ワゴンを押して入ってきたのは、メイド長のマチルダさんだった。 彼女は私の前に温かい紅茶を置くと、静かに向かい側に座った。
「マ、マチルダさん……。私、休憩中じゃなくてサボりで……」 「存じております。 ……坊ちゃまを避けていらっしゃることも、ね」
マチルダさんの穏やかだが鋭い瞳に見つめられ、私は観念してうつむいた。
「……全部、バレてたんです。 私の汚い本音も、弱いところも。 あんなに優しく守ってもらっているのに、『いつか捨てられるんじゃないか』なんて疑ってたことまで……」
話しているうちに、また涙が滲んできた。
「合わせる顔がないんです。 こんなに惨めで、可愛げのない私なんて……嫌われちゃったんじゃないかって」
私が鼻をすすっていると、マチルダさんはふふ、と優しく笑った。
「レイ様。 どうしてそこまで、『嫌われること』を恐れるのですか?」
「え?」
「ただの保護者への感謝や、恩人への敬意ならば、そこまでご自身を追い詰める必要はないはずです。 ご自身を惨めに思い、美しくありたいと願い、嫌われることに怯える。 ……それは、恋する乙女の症状ですよ」
――え?
時が止まった気がした。
「レイ様は、聖女としてではなく、一人の女性として坊ちゃまに愛されたい。 だからこそ、今の状況が苦しいのではありませんか?」
マチルダさんの言葉が、ストンと胸に落ちた。
ああ、そうか。 私は、どうして「捨てられる夢」があんなに怖かったんだろう。 生活ができなくなるから? 違う。 守ってもらえなくなるから? 違う。
団長さんの隣にいられなくなることが、怖かったんだ。
あの金色の瞳に、私が映らなくなるのが嫌だった。 他の誰かが、あの温かい腕の中にいるのを想像するだけで、死にたくなるほど辛かった。
それは、ただの依存じゃない。 私は――団長さんのことが、好きだったんだ。
「……私、好きだったんだ」
口に出した瞬間、涙が溢れた。 恥ずかしさも、情けなさも、全部「好き」の裏返しだった。
「ありがとうございます、マチルダさん。エリスさん。 私……謝ってきます。 ちゃんと自分の口で、『気づいてました』って。そして……」
大好きです、って伝えよう。
「ええ。行ってらっしゃいませ。 坊ちゃまは、廊下の隅でいじけ……いえ、お待ちですよ」
マチルダさんに背中を押され、私は走り出した。
◇
夜。 私は自室で、ドキドキしながら鏡の前に立っていた。 髪を整え、深呼吸をする。 泣き腫らした目はちょっと恥ずかしいけど、今の私の精一杯だ。
団長さんは今、私が避けてしまったせいで、部屋の前ではなく、少し離れた廊下で警備をしてくれているはずだ。 自分からドアを開けて、会いに行こう。 そして、全てを話そう。
「よし……行くぞ」
決意を固め、ドアノブに手をかけようとした――その時だった。
ザザッ……。
背後の鏡が、不気味な音を立てて波打った。
「えっ……?」
振り返る間もなかった。 鏡の中から伸びた無数の黒い手が、私の体、そして口を一瞬にして拘束した。
「んぐっ!?」
声が出ない。 鏡の向こうから、あの銀髪の男――クラウスが、音もなく現れた。
「やあ。ごきげんよう」
彼は楽しそうに微笑んだ。
「ずいぶんと、騎士団長殿との仲が冷え込んでいるようですね? 彼、今夜は貴女に拒絶されるのが怖くて、扉の前ではなく、少し離れた廊下で膝を抱えていますよ」
クラウスは私の頬を冷たい指で撫でた。
「チャンスだと思いましてね。 心の距離は、物理的な隙間を生む。 ……さあ、今度こそ一緒に行きましょうか、愛しの聖女様」
団長さんを呼ぼうとした。 でも、声が出ない。 私が彼を遠ざけたせいで、彼はすぐそばにはいない。 (団長さん……っ! ごめんなさい……!)
ようやく自分の気持ちに気づいたのに。 伝えたいことが、たくさんあったのに。 どうして、今なの。
視界が暗転する。 私は抵抗もできないまま、鏡の中の深い闇へと引きずり込まれていった。




