36.クラウスの接触
それから数日が経ったある日のこと。 私の「執務室隔離生活」は続いていた。
団長さんの警護は、あの「謁見」の日以来、さらに常軌を逸したものになっていた。 執務中は片時も私のそばを離れず、私が少しでも身じろぎすれば「トイレか? 水か? 寒くないか?」と飛んでくる。 部下の騎士たちも、団長さんの放つピリピリとした殺気に恐れをなし、報告書を置いて逃げるように去っていく毎日だ。
そんな厳戒態勢の中で、唯一、団長さんの目が届かない場所。 それが「化粧室」だった。
◇
「……レイ。本当に一人で大丈夫か?」
騎士団本部の女子化粧室の前。 団長さんは腕組みをして、この世の終わりみたいな顔で私を見下ろしていた。
「大丈夫ですよ。個室に入るだけですから」 「だが、窓があるだろう。換気口は? 排水溝からスライム状の使い魔が入ってくる可能性も……」 「そんなホラー映画みたいなこと起きません! ……すぐ出ますから、待っていてくださいね」
私は心配性の保護者を廊下に残し、逃げるように化粧室へと入った。
ふぅ、と息をつく。 中は誰もいない。静寂に包まれている。 さすがにここまではついて来られないものね。
私は用を足し、洗面台で手を洗った。 鏡を見る。少し疲れた顔をした私が映っている。
「(早くこの騒動、終わらないかな……)」
ハンカチで手を拭き、顔を上げようとした――その時だった。
ザザッ……。
鏡の表面が、まるで水面のように波打った。
「え……?」
私が瞬きをした瞬間。 鏡の向こうから、ぬるりと「手」が伸びてきた。
「きゃっ!?」
悲鳴を上げる間もなく、その手は私の手首を掴み、鏡の中から「実体」が抜け出してきた。 漆黒の軍服。長い銀髪。そして、片眼鏡の奥で笑う、爬虫類のような目。
「やあ。ごきげんよう、愛しの聖女様」
帝国の筆頭魔導師、クラウスだった。
「な……っ、んで……!?」
私は驚きで声が詰まった。 ここは騎士団の本部だ。廊下には最強の騎士がいる。 それなのに、彼は音もなく、気配もなく、鏡の中から現れたのだ。
「しーっ。大声を出すと、あの狂犬が飛んできますよ?」
クラウスは人差し指を唇に当て、楽しげに笑った。 掴まれた手首が冷たい。まるで氷か、死体に触れられているみたいだ。
「かわいそうに。こんな狭い場所に閉じ込められて」 彼は化粧室を見回し、大げさに肩をすくめた。
「あの騎士団長は、貴女を愛しているわけではありませんよ。 ただの独占欲だ。貴女をカゴの中に閉じ込め、翼をもいで、自分色に染めようとしているだけです」
「ち、違います……!」
私は震える声で反論した。
「団長さんは、私を守ってくれているだけです! 貴方みたいな怖い人から……!」
「おやおや。怖いとは心外ですね」
クラウスは私の頬に手を伸ばした。私は避けようとしたが、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。 冷たい指先が、私の輪郭をなぞる。
「私は貴女に『自由』を与えに来たんですよ。 帝国に来れば、誰も貴女を縛りません。 広い世界、美味しい食事、美しい宝石……すべてが貴女のものです」
甘い、誘惑の言葉。 でも、その目の奥は全く笑っていない。 まるで値踏みをするように、冷徹な計算が渦巻いている。
「さあ、私と一緒に来ませんか? 今なら、あの狂犬に気づかれずに連れ出してあげられますよ」
彼は手を差し出した。 私は――。
「……お断り、します!」
私は彼の冷たい手を振り払った。
「私は、ここがいいんです。 どんなに不自由でも、団長さんのそばにいたいです。 貴方となんか、絶対に行きません!」
私が叫んだ瞬間、クラウスの目がスッと細められた。 一瞬、ぞっとするような殺気が漏れる。
「……ふむ。飼い主への忠誠心は厚いようですね」
彼は残念そうに、しかしどこか楽しそうに笑った。
「まあいいでしょう。今日はご挨拶だけですから。 ですが、覚えておいてください」
クラウスは私の耳元に顔を寄せ、あの夜と同じ、粘着質な声で囁いた。
「カゴの扉は、いつか必ず開く。 ……その時、貴女が自分の足で私の元へ歩いてくるよう、準備しておきますよ」
その時。
ドォォォォンッ!!!
轟音と共に、化粧室の扉が粉砕された。 木片が飛び散る中、青白い魔力を纏った団長さんが飛び込んでくる。
「レイッ!!」
「おっと、お迎えのお時間だ」
クラウスはニヤリと笑うと、再び鏡の中へと身を沈め始めた。
「待てッ!! 貴様ァッ!!」
団長さんが剣を抜き、斬りかかる。 しかし、その刃が届く直前、クラウスの姿は霧のように鏡の中に吸い込まれ、消滅した。 後に残ったのは、鏡に貼り付けられた一輪の黒い薔薇だけだった。
「……レイ!」
団長さんは剣を投げ捨て、へたり込んでいる私を抱き上げた。
「無事か!? 何かされたか!? 怪我は!?」 「だ、団長さん……っ」
私は団長さんの服を握りしめていた。 あの冷たい手の感触が、まだ肌に残っている気がして気持ち悪い。
「すまない……! 俺がついていながら……!」
団長さんは歯噛みし、悔しさに顔を歪めた。 鏡に残された黒い薔薇を、彼は魔力で瞬時に焼き尽くす。
「……空間転移魔法か。まさか、鏡を媒体にするとは」
団長さんは私を抱きしめる腕に力を込めた。 その体から立ち昇る怒気は、これまで感じたことがないほど凄まじかった。
「もう二度と、一瞬たりとも離さん」
団長さんは低い声で、自分に言い聞かせるように誓った。
「トイレだろうが風呂だろうが関係ない。 これからは、俺が中までついていく」
「えっ……」
涙で滲んだ視界の中で、私は団長さんの顔を見た。 その金色の瞳は、正気と狂気のギリギリのラインで揺れていた。
「恥ずかしがっている場合ではない。 次、あいつが現れたら、俺はその瞬間に首を刎ねねばならないんだ」
……どうやら、クラウスの接触によって、団長さんの過保護レベルが限界突破してしまったらしい。 帝国の脅威に怯えつつも、私はこれから始まる「究極の密着生活」に、別の意味で顔を青くするのだった。




