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死にたがり聖女は最強騎士団長(狼)に拾われる   作者: うる


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36/42

36.クラウスの接触

それから数日が経ったある日のこと。  私の「執務室隔離生活」は続いていた。


 団長さんの警護は、あの「謁見」の日以来、さらに常軌を逸したものになっていた。  執務中は片時も私のそばを離れず、私が少しでも身じろぎすれば「トイレか? 水か? 寒くないか?」と飛んでくる。  部下の騎士たちも、団長さんの放つピリピリとした殺気に恐れをなし、報告書を置いて逃げるように去っていく毎日だ。


 そんな厳戒態勢の中で、唯一、団長さんの目が届かない場所。  それが「化粧室」だった。


 ◇


「……レイ。本当に一人で大丈夫か?」


 騎士団本部の女子化粧室の前。  団長さんは腕組みをして、この世の終わりみたいな顔で私を見下ろしていた。


「大丈夫ですよ。個室に入るだけですから」 「だが、窓があるだろう。換気口は? 排水溝からスライム状の使い魔が入ってくる可能性も……」 「そんなホラー映画みたいなこと起きません!  ……すぐ出ますから、待っていてくださいね」


 私は心配性の保護者を廊下に残し、逃げるように化粧室へと入った。


 ふぅ、と息をつく。  中は誰もいない。静寂に包まれている。  さすがにここまではついて来られないものね。


 私は用を足し、洗面台で手を洗った。  鏡を見る。少し疲れた顔をした私が映っている。


「(早くこの騒動、終わらないかな……)」


 ハンカチで手を拭き、顔を上げようとした――その時だった。


 ザザッ……。


 鏡の表面が、まるで水面のように波打った。


「え……?」


 私が瞬きをした瞬間。  鏡の向こうから、ぬるりと「手」が伸びてきた。


「きゃっ!?」


 悲鳴を上げる間もなく、その手は私の手首を掴み、鏡の中から「実体」が抜け出してきた。  漆黒の軍服。長い銀髪。そして、片眼鏡モノクルの奥で笑う、爬虫類のような目。


「やあ。ごきげんよう、愛しの聖女様」


 帝国の筆頭魔導師、クラウスだった。


「な……っ、んで……!?」


 私は驚きで声が詰まった。  ここは騎士団の本部だ。廊下には最強の騎士がいる。  それなのに、彼は音もなく、気配もなく、鏡の中から現れたのだ。


「しーっ。大声を出すと、あの狂犬が飛んできますよ?」


 クラウスは人差し指を唇に当て、楽しげに笑った。  掴まれた手首が冷たい。まるで氷か、死体に触れられているみたいだ。


「かわいそうに。こんな狭い場所に閉じ込められて」  彼は化粧室を見回し、大げさに肩をすくめた。


「あの騎士団長は、貴女を愛しているわけではありませんよ。  ただの独占欲だ。貴女をカゴの中に閉じ込め、翼をもいで、自分色に染めようとしているだけです」


「ち、違います……!」


 私は震える声で反論した。


「団長さんは、私を守ってくれているだけです!  貴方みたいな怖い人から……!」


「おやおや。怖いとは心外ですね」


 クラウスは私の頬に手を伸ばした。私は避けようとしたが、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。  冷たい指先が、私の輪郭をなぞる。


「私は貴女に『自由』を与えに来たんですよ。  帝国に来れば、誰も貴女を縛りません。  広い世界、美味しい食事、美しい宝石……すべてが貴女のものです」


 甘い、誘惑の言葉。  でも、その目の奥は全く笑っていない。  まるで値踏みをするように、冷徹な計算が渦巻いている。


「さあ、私と一緒に来ませんか?  今なら、あの狂犬に気づかれずに連れ出してあげられますよ」


 彼は手を差し出した。  私は――。


「……お断り、します!」


 私は彼の冷たい手を振り払った。


「私は、ここがいいんです。  どんなに不自由でも、団長さんのそばにいたいです。  貴方となんか、絶対に行きません!」


 私が叫んだ瞬間、クラウスの目がスッと細められた。  一瞬、ぞっとするような殺気が漏れる。


「……ふむ。飼い主への忠誠心は厚いようですね」


 彼は残念そうに、しかしどこか楽しそうに笑った。


「まあいいでしょう。今日はご挨拶だけですから。  ですが、覚えておいてください」


 クラウスは私の耳元に顔を寄せ、あの夜と同じ、粘着質な声で囁いた。


「カゴの扉は、いつか必ず開く。  ……その時、貴女が自分の足で私の元へ歩いてくるよう、準備しておきますよ」


 その時。


 ドォォォォンッ!!!


 轟音と共に、化粧室の扉が粉砕された。  木片が飛び散る中、青白い魔力を纏った団長さんが飛び込んでくる。


「レイッ!!」


「おっと、お迎えのお時間だ」


 クラウスはニヤリと笑うと、再び鏡の中へと身を沈め始めた。


「待てッ!! 貴様ァッ!!」


 団長さんが剣を抜き、斬りかかる。  しかし、その刃が届く直前、クラウスの姿は霧のように鏡の中に吸い込まれ、消滅した。  後に残ったのは、鏡に貼り付けられた一輪の黒い薔薇だけだった。


「……レイ!」


 団長さんは剣を投げ捨て、へたり込んでいる私を抱き上げた。


「無事か!? 何かされたか!? 怪我は!?」 「だ、団長さん……っ」


 私は団長さんの服を握りしめていた。  あの冷たい手の感触が、まだ肌に残っている気がして気持ち悪い。


「すまない……! 俺がついていながら……!」


 団長さんは歯噛みし、悔しさに顔を歪めた。  鏡に残された黒い薔薇を、彼は魔力で瞬時に焼き尽くす。


「……空間転移魔法か。まさか、鏡を媒体にするとは」


 団長さんは私を抱きしめる腕に力を込めた。  その体から立ち昇る怒気は、これまで感じたことがないほど凄まじかった。


「もう二度と、一瞬たりとも離さん」


 団長さんは低い声で、自分に言い聞かせるように誓った。


「トイレだろうが風呂だろうが関係ない。  これからは、俺が中までついていく」


「えっ……」


 涙で滲んだ視界の中で、私は団長さんの顔を見た。  その金色の瞳は、正気と狂気のギリギリのラインで揺れていた。


「恥ずかしがっている場合ではない。  次、あいつが現れたら、俺はその瞬間に首を刎ねねばならないんだ」


 ……どうやら、クラウスの接触によって、団長さんの過保護レベルが限界突破してしまったらしい。  帝国の脅威に怯えつつも、私はこれから始まる「究極の密着生活」に、別の意味で顔を青くするのだった。

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