34.帝国からの使者
それから、一時間もしないうちのことだった。
コンコン、と再び扉がノックされた。 今度は先ほどのエリスさんのような軽快なものではなく、王城からの伝令兵による、厳格なリズムだった。
「失礼します! 騎士団長閣下に、国王陛下より緊急の召集命令です!」
伝令兵の張り上げた声に、団長さんの執務室の空気がピリリと張り詰める。
「……陛下から?」
団長さんは眉を顰めた。 書類仕事の手を止め、私を背に庇うようにして伝令兵に向き直る。
「今は非常時だ。急用でなければ後にしていただきたいが」 「そ、それが……緊急事態なのです。 たった今、東の『帝国』からの外交使節団が王城に到着し、陛下への謁見を求めております」
――帝国。 その単語が出た瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がった気がした。
「いきなりか?」 「はい。本来なら門前払いすべきところですが、相手は帝国の筆頭魔導師、クラウス・フォン・ベルンシュタイン卿。 『我が皇帝陛下より、貴国の聖女様への親書を預かっている』と……」
「……なるほど。表から堂々と来たか」
団長さんは低い声で吐き捨てた。 昨晩の裏工作(結界の破壊)が失敗したと見て、今度は正規の外交ルートを使って正面から圧力をかけに来たのだ。 なりふり構わないそのやり方に、彼らの本気度が伺える。
「聖女の保護責任者として、団長閣下にも同席せよとのことです」
つまり、団長さんはここを離れなければならない。 団長さんは舌打ちを噛み殺し、振り返って私を見た。 その金色の瞳には、私を一人にすることへの強い懸念と、決して消えない警戒の色が混ざり合っていた。
「レイ。……すまないが、行かねばならなくなった」 「はい……」 「ここから一歩も出るな。エリス、および精鋭騎士10名をこの部屋の前に配置する。 俺が戻るまで、たとえ王族であろうと誰も中に入れるな。いいな?」
団長さんは私の肩を掴み、痛いほど強く言い聞かせた。
「はい。待っています。……気をつけて」 「ああ。すぐに戻る」
団長さんは私の頭を一度だけ撫でると、マントを翻し、風のように部屋を出て行った。
◇
【王城・謁見の間】
重厚な扉が開かれると、そこには既に張り詰めた空気が満ちていた。 玉座に座る国王陛下も、並び立つ大臣たちも、皆一様に苦虫を噛み潰したような顔をしている。
その中でただ一人。 玉座の前に優雅に佇む男だけが、異質な空気を放っていた。
漆黒の軍服に、銀の刺繍。 長い銀髪を揺らし、モノクルをかけた細身の男。 帝国の筆頭魔導師、クラウス・フォン・ベルンシュタイン。
「遅いぞ、ジルベルト」
国王陛下が安堵したように声をかけた。 ジルベルトは玉座の前に進み出ると、騎士の礼を取りつつ、横目でクラウスを睨みつけた。
「……お待たせいたしました、陛下」 「やあ、初めまして。噂の騎士団長殿」
クラウスは優雅に一礼し、蛇のような笑みを浮かべた。
「お会いできて光栄ですよ。貴国の『聖女』を鉄壁の守りで独占されている英雄殿」 「……過分な評価だ。ベルンシュタイン卿」
ジルベルトは冷淡に返した。 内心では、今すぐにでもこの男の首を刎ねてやりたい衝動を抑え込んでいた。 レイに残っていた残り香。 それは間違いなく、目の前の男から漂う独特の魔力の香りと一致していたからだ。
「それで? わざわざ国境を越えて、何の用だ」
ジルベルトが単刀直入に問うと、クラウスは大げさに肩をすくめた。
「手厳しいですねぇ。私はただ、友好の証を持ってきただけですよ」
クラウスは懐から、豪奢な装飾が施された書状を取り出した。
「我が国の皇帝陛下より、新たな聖女様への招待状です。 ぜひ帝国へお招きし、その奇跡の力を披露していただきたい。 もちろん、相応の対価はお支払いしますよ。金貨でも、領土でも……あるいは、不可侵条約でも」
謁見の間がざわめいた。 それは実質的な「聖女の譲渡要求」であり、断れば戦争も辞さないという脅しだった。
「……お断りだ」
国王が口を開く前に、ジルベルトが断言した。 その声は、広間の空気を凍らせるほど冷徹で、絶対的だった。
「彼女は物ではない。我が国の、大切な聖女だ。 外交の道具として切り売りするつもりはない」
「おや、そうですか? ご本人の意思も確認せずに? 彼女は案外、外の世界を見たがっているかもしれませんよ?」
クラウスはニヤリと唇を歪め、ジルベルトにしか聞こえないほどの小声で、すれ違いざまに囁いた。
「昨晩、ご挨拶に伺った時は……可愛らしく怯えていらっしゃいましたね。 結界の隙間から覗き見ただけですが、実に唆る反応でした」
――ピキッ。
ジルベルトの全身から、凄まじい殺気が噴き出した。 床の大理石にヒビが入り、周囲の騎士たちが思わず剣に手をかける。
「……貴様ッ!!」 「ジルベルト! 控えよ!」
王の制止の声が響く。 ジルベルトはギリギリで剣を抜くのを踏みとどまったが、その金色の瞳は完全に猛獣のそれだった。
「おっと、怖い怖い」
クラウスは楽しげに笑い、一歩下がった。
「まあ、今日はご挨拶まで。 返事は急ぎませんよ。……どうせ、彼女はいずれ『こちら側』に来ることになるのですから」
クラウスは意味深な言葉を残し、優雅に一礼して背を向けた。
謁見は終わった。 だが、これは始まりに過ぎない。 正面からの外交圧力と、裏からの魔の手。 ジルベルトは拳を握りしめ、血が滲むほど強く食い込ませた。 急いで戻らなければ。 レイが待つ、あの部屋へ。




