33.隔離
翌朝。 私は、頬に触れる温かい感触で目を覚ました。
「ん……ワンちゃん?」
目を開けると、目の前に大きな銀色の顔があった。 ワンちゃんが、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。 どうやら昨夜は、私のベッドの足元でずっと見張りをしてくれていたようだ。
「おはよう。……守ってくれて、ありがとう」
私が首元に腕を回して抱きつくと、彼は安堵したように一度だけ目を細め、それからハッとしたように窓の外を見た。 空が白み始めている。
「もう帰らなきゃダメ?」
名残惜しくて尋ねると、彼は申し訳なさそうに私の頬をひと舐めし、音もなくテラスから飛び出していった。 その背中は、一睡もしていないはずなのに疲れなど微塵も見せず、颯爽としていた。
◇
それから数分もしないうちに。
コンコン。
部屋のドアがノックされ、返事をする間もなく勢いよく開かれた。
「おはよう、レイ。……変わりはないか?」
入ってきたのは、団長さんだった。 早朝だというのに、既に騎士服を完璧に着こなし、髪の一本まで乱れなく整えている。
「おはようございます、団長さん。 早起きですね……。」
私が不思議に思って尋ねると、団長さんは涼しい顔で答えた。
「ああ。少し残務処理があって徹夜したからな」
さらりと答えたが、その様子からは徹夜の気配など全く感じられない。 いつ休んでいるんだろう、この人は。本当に人間なのかな。
団長さんはスタスタとベッドに歩み寄ると、私の顔をまじまじと観察し、それから部屋の中――特に窓の鍵や床の状態――を鋭い視線でチェックし始めた。 その纏っている空気は、いつになくピリピリとしていた。
「……昨夜は、よく眠れたか?」 「は、はい。おかげさまで」
ワンちゃんがいてくれたおかげだ。 そう言おうとしたけれど、口をつぐんだ。
「そうか。ならいい」
団長さんは短く言うと、私の手首を掴んだ。
「レイ。今日は着替えたら、すぐに俺の執務室に来い」 「え? 食堂じゃなくて?」 「ああ。今日からしばらくの間、お前を俺の執務室に隔離する」
「か、隔離ぃぃっ!?」
私は素っ頓狂な声を上げた。
「どうしてですか!? 私、何か悪いことしましたか!?」 「逆だ。……悪い虫がつかないようにするためだ」
団長さんの金色の瞳が、スッと細められた。 それは静かだが、獲物を絶対に逃さない捕食者の目だった。
「昨日、お前が『何でもない』と言ったのは分かっている。 だが……俺の勘が告げているんだ。お前の身に危険が迫っているとな」
ドキリとした。 やっぱり、誤魔化しきれていなかった。
「今日から俺は、片時もお前のそばを離れない。 トイレと風呂以外は、常に俺の視界の中にいろ。 中庭への散歩も禁止だ。エリスと会うのも、俺の許可がある時だけにする」
それはあまりに過保護で、束縛に近い命令だった。 けれど、団長さんの背中から立ち昇る「俺のテリトリーに入った敵は一匹たりとも逃さん」という絶対的なオーラに、私は思わず「はい」と頷くしかなかった。
◇
その日から、私の「執務室暮らし」が始まった。 団長さんの執務室の隅に、私専用の可愛い机と椅子、そしてふかふかのソファが運び込まれたのだ。
「レイ。そこから一歩も動くなよ」 「はい……」
団長さんは自分のデスクで山のような書類を処理している。 そのスピードは凄まじかった。 徹夜明けのはずなのに、判断力は鈍るどころか冴え渡り、次々と部下に指示を飛ばしている。 ただ、10分に一度は必ず手を止め、私の方をチラリと確認する過保護さは相変わらずだった。
そんな息詰まるような時間が続いた、昼下がりのこと。
コンコン。
「失礼します、団長。……エリスです」
入ってきたのはエリスさんだった。 彼女はいつもの軽口を叩く様子はなく、硬い表情で一枚の報告書を持っていた。
「……ご報告します。 昨日、レイ嬢が恐怖を感じたという『屋敷の裏手』付近の調査が完了しました」
エリスさんの言葉に、私は本を持ったまま固まった。 調査? いつの間に?
団長さんの空気が一瞬で張り詰める。
「……で? 何が出た」
「黒です」
エリスさんは短く告げた。
「結界の魔力構成に、極めて微細な『穴』が開けられた痕跡が見つかりました。 そして、その場に残っていた残留魔力は……東の『帝国』特有の術式と一致します」
――帝国。 その言葉が出た瞬間。
バキッ!!
団長さんが持っていた万年筆が、無惨な音を立ててへし折れた。
「……やはりか」
団長さんは、温度のない声で呟いた。 それは怒鳴り声よりも遥かに恐ろしい、絶対零度の静かな怒りだった。
「あのハイエナ共め……。 聖女の噂を聞きつけて、もう嗅ぎ回りに来たか」
私は震える手で本を握りしめた。 やっぱり、昨日の声は気のせいじゃなかった。 私は……外国のスパイに狙われていたんだ。
「レイ」
名前を呼ばれて顔を上げると、団長さんがいつの間にか私の目の前に来て、膝をついていた。 インクで汚れた手を気にすることなく、私の手を優しく包み込む。
「怖がらせてすまない。 お前が昨日、嘘をついてまで隠そうとした恐怖の正体は、これだ」
「団長さん……」
「だが、安心しろ。 穴は既に塞いだ。警備も3倍に増やした。 そして何より……」
団長さんは、私の手を自身の額に押し当て、誓うように言った。
「俺がいる。 俺がここにいる限り、指一本触れさせない。 たとえ帝国軍が全軍で攻めてこようとも、俺一人でねじ伏せてお前を守る」
その言葉は、ハッタリではない。 大陸最強の騎士としての、揺るぎない自信と実力に裏打ちされた事実だ。
「だから……もう、隠し事はなしだ。 怖い時は怖いと言え。俺を頼れ。 お前を守るのが、俺の役目なのだから」
その真摯な金色の瞳に見つめられて、私はこらえきれずに涙をこぼした。
「はい……っ。ごめんなさい……」
私が泣きつくと、団長さんは私を強く抱きしめてくれた。 その体は鋼のように逞しく、そして陽だまりのように温かかった。
……ただ、その背後で。 報告に来たエリスさんが、「うわぁ、また始まったよ……執務室でイチャつくなよ最強夫婦(予定)め」と呆れ顔で天井を仰いでいることには、私は気づかなかった。




