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死にたがり聖女は最強騎士団長(狼)に拾われる   作者: うる


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32/42

32.忍び寄る魔の手。

エリスさんと別れた帰り道。  私はエリスさんに、屋敷の裏手にあるプライベートガーデンの入り口まで送ってもらっていた。


「じゃあな、レイ。ここから先は団長の結界もあるし安全だ。  また明日な!」


「はい! ありがとうございました、エリスさん!」


 手を振って去っていくエリスさんの背中を見送り、私はほっと息をついた。  ここからは騎士団の詰め所ではなく、団長さんの私邸の敷地内だ。  普段なら、ここには厳重な警備魔法がかかっていて、部外者は入れないはずだ。


 そう、安全なはずだった。


 石畳の小道を歩き始めた、その時。


 ゾクリ。


 背筋に、冷たいものが走った。  まるで氷を背中に入れられたような、あるいはヌメッとした爬虫類に肌を撫でられたような、生理的な嫌悪感。


「(……気のせい?)」


 私は首を傾げた。  最近、少し神経質になっているのかもしれない。  叔父のトラウマを思い出したせいか、それとも団長さんへの気持ちに戸惑っているせいか。


 私は気を取り直し、再び歩き出そうとした。


 ――その瞬間。


「……え?」


 私はハッとして足を止め、振り返った。  風が木々を揺らしているだけ。誰もいない。  ――はずなのに。


 『みーつけた』


 耳元で、風のような、囁きのような声がした。


「ひっ!?」


 私は飛び上がり、周囲を見回した。  姿はない。けれど、確かに聞こえたのだ。粘着質な、それでいて楽しげな男の声が。  まるで、結界のほんのわずかな隙間から、視線だけが入り込んできたような感覚。


 『やっと見つけたよ、迷子の聖女様』


 恐怖で足がすくむ。  ここは屋敷の敷地内なのに。どうして?


 本能が警鐘を鳴らしている。ここにいてはいけない。  私はスカートの裾を握りしめ、玄関に向かって無我夢中で駆け出した。


 ◇


「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


 屋敷の重い扉を開け、ホールに飛び込むと、ちょうど二階から降りてきた団長さんと鉢合わせになった。


「レイ? どうした、そんなに息を切らして」


 団長さんは私の顔色を見るなり、すぐに表情を険しくした。  階段を駆け下り、私の肩を支えて覗き込んでくる。


「顔色が真っ青だぞ。……エリスが送ってくれたのではなかったのか?」


 その金色の瞳。  さっき感じた冷たくて気持ち悪い視線とは違う。  蜂蜜のように温かくて、私を心配してくれる優しい光。


 その光を見たとたん、張り詰めていた緊張が解け、へなへなと座り込んでしまった。


「団長さん……」 「レイ! おい、しっかりしろ! 何があった?」


 団長さんに抱きとめられる。  彼の匂い。温もり。鼓動。  ああ、安心する。ここは私の安全地帯だ。


 喉まで「怖い声が聞こえた」という言葉が出かかった。  でも、私はそれをぐっと飲み込んだ。


 (言えない……)


 先日、書類の件で「無防備だ」とあんなに怒られたばかりだ。  ここでまた「変な声がした」なんて言ったら、団長さんはもっと心配するだろう。  もしかしたら、また私のせいでエリスさんが怒られたり、仕事が増えたりするかもしれない。  それは嫌だ。


「……ううん、何でもないんです」


 私は精一杯の笑顔を作って、首を振った。


「ちょっと、早く帰りたくて走ったら……疲れちゃって」 「走った? 屋敷の中でか?」 「はい。運動不足解消にいいかなって……あはは」


 引きつった笑い。明らかな挙動不審。  団長さんの金色の瞳が、スッと細められた。


「…………」


 彼は何も言わず、私を抱き寄せると、私の髪や首筋に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をした。


「(……微かだが、妙な残り香がする)」


 団長さんが、私には聞こえないほどの小声で、地を這うような低い声で呟いた。  その目には、明確な殺気が宿っていたが、私と目が合うとすぐに穏やかな光に戻った。


「……そうか。ならいい」


 団長さんは追求しなかった。  その代わり、私を軽々と抱き上げた。


「疲れているなら、部屋まで運んでやる。  今日はもう休め。夕食は部屋に運ばせるから、一歩も出るなよ」


「あ、ありがとうございます……」


 私は団長さんの腕の中で、小さく頷いた。  誤魔化せた、と思った。  ……団長さんが、全てを察しているとも知らずに。


 ◇


 その夜。  私は早めにベッドに入ったけれど、昼間の恐怖が蘇ってなかなか寝付けずにいた。


 『みーつけた』


 あの声は、幻聴だったのだろうか。  目を閉じると、またあの粘着質な声が聞こえてきそうで怖い。


「……怖いよぅ」


 団長さんを呼びたい。  でも、「何でもない」って嘘をついちゃった手前、今さら「やっぱり怖い」なんて言えない。


 私が布団を被って考えていると。


 コン、コン。


 テラスの窓ガラスが、控えめに叩かれた。  私はビクリとして顔を上げた。  カーテンの隙間から、月明かりに照らされた大きな影が見える。


 私は恐る恐る窓に近づき、鍵を開けた。


「……ワンちゃん!!」


 そこに座っていたのは、銀色の毛並みを輝かせた、大きな狼だった。  ここ最近、ずっと姿を見せていなかった私の大切なお友達。


「どうしたの? 団長さんの許可、出たの?」


 私が尋ねると、彼は何も答えず(当たり前だけど)、切羽詰まった様子で部屋に入ってきた。    グルルル……。


 喉の奥で低く唸りながら、部屋の隅々をチェックするように歩き回っている。  カーテンの裏、ベッドの下、クローゼットの隙間。  執拗に匂いを嗅ぎ、耳を澄ませている。  その金色の瞳は、いつもの愛らしいものではなく、獲物を狙う獣のように鋭く光っていた。


 どうやら彼は、私のことが心配で駆けつけてくれたようだ。  私が「何でもない」と嘘をついたのに、団長さん(飼い主)が感じ取った違和感を、彼も感じ取ってくれたのだろうか。


「ワンちゃん……」


 一通りの見回りを終えると、彼は私の足元に戻ってきた。  そして、私の体に自分の体を強く押し付け、擦り寄ってきた。  まるで、昼間についたかもしれない「悪いもの」の匂いを、自分の匂いで上書きして消し去ろうとするかのように。


「(……守りに来てくれたんだ)」


 その温かさがそばにあるだけで、恐怖が溶けていく。  久しぶりのモフモフ。久しぶりの重み。


「ありがとう、ワンちゃん。  ……今日は、一緒に寝てくれる?」


 私が尋ねると、彼は短く「ワン」と力強く答え、ベッドの足元――入り口と私の中間地点に、守護獣のように堂々と横たわった。


 私は気づいていなかった。  今日、私が感じた視線が、単なる変質者のものではなく――国境を越えて忍び寄る、組織的な「魔の手」の先触れであったことに。


 そして、団長さん(=ワンちゃん)が、私の嘘を見抜いていることに。


 久しぶりに感じるモフモフの感触に安堵しながら、私はようやく眠りにつくことができた。

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