32.忍び寄る魔の手。
エリスさんと別れた帰り道。 私はエリスさんに、屋敷の裏手にあるプライベートガーデンの入り口まで送ってもらっていた。
「じゃあな、レイ。ここから先は団長の結界もあるし安全だ。 また明日な!」
「はい! ありがとうございました、エリスさん!」
手を振って去っていくエリスさんの背中を見送り、私はほっと息をついた。 ここからは騎士団の詰め所ではなく、団長さんの私邸の敷地内だ。 普段なら、ここには厳重な警備魔法がかかっていて、部外者は入れないはずだ。
そう、安全なはずだった。
石畳の小道を歩き始めた、その時。
ゾクリ。
背筋に、冷たいものが走った。 まるで氷を背中に入れられたような、あるいはヌメッとした爬虫類に肌を撫でられたような、生理的な嫌悪感。
「(……気のせい?)」
私は首を傾げた。 最近、少し神経質になっているのかもしれない。 叔父のトラウマを思い出したせいか、それとも団長さんへの気持ちに戸惑っているせいか。
私は気を取り直し、再び歩き出そうとした。
――その瞬間。
「……え?」
私はハッとして足を止め、振り返った。 風が木々を揺らしているだけ。誰もいない。 ――はずなのに。
『みーつけた』
耳元で、風のような、囁きのような声がした。
「ひっ!?」
私は飛び上がり、周囲を見回した。 姿はない。けれど、確かに聞こえたのだ。粘着質な、それでいて楽しげな男の声が。 まるで、結界のほんのわずかな隙間から、視線だけが入り込んできたような感覚。
『やっと見つけたよ、迷子の聖女様』
恐怖で足がすくむ。 ここは屋敷の敷地内なのに。どうして?
本能が警鐘を鳴らしている。ここにいてはいけない。 私はスカートの裾を握りしめ、玄関に向かって無我夢中で駆け出した。
◇
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
屋敷の重い扉を開け、ホールに飛び込むと、ちょうど二階から降りてきた団長さんと鉢合わせになった。
「レイ? どうした、そんなに息を切らして」
団長さんは私の顔色を見るなり、すぐに表情を険しくした。 階段を駆け下り、私の肩を支えて覗き込んでくる。
「顔色が真っ青だぞ。……エリスが送ってくれたのではなかったのか?」
その金色の瞳。 さっき感じた冷たくて気持ち悪い視線とは違う。 蜂蜜のように温かくて、私を心配してくれる優しい光。
その光を見たとたん、張り詰めていた緊張が解け、へなへなと座り込んでしまった。
「団長さん……」 「レイ! おい、しっかりしろ! 何があった?」
団長さんに抱きとめられる。 彼の匂い。温もり。鼓動。 ああ、安心する。ここは私の安全地帯だ。
喉まで「怖い声が聞こえた」という言葉が出かかった。 でも、私はそれをぐっと飲み込んだ。
(言えない……)
先日、書類の件で「無防備だ」とあんなに怒られたばかりだ。 ここでまた「変な声がした」なんて言ったら、団長さんはもっと心配するだろう。 もしかしたら、また私のせいでエリスさんが怒られたり、仕事が増えたりするかもしれない。 それは嫌だ。
「……ううん、何でもないんです」
私は精一杯の笑顔を作って、首を振った。
「ちょっと、早く帰りたくて走ったら……疲れちゃって」 「走った? 屋敷の中でか?」 「はい。運動不足解消にいいかなって……あはは」
引きつった笑い。明らかな挙動不審。 団長さんの金色の瞳が、スッと細められた。
「…………」
彼は何も言わず、私を抱き寄せると、私の髪や首筋に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をした。
「(……微かだが、妙な残り香がする)」
団長さんが、私には聞こえないほどの小声で、地を這うような低い声で呟いた。 その目には、明確な殺気が宿っていたが、私と目が合うとすぐに穏やかな光に戻った。
「……そうか。ならいい」
団長さんは追求しなかった。 その代わり、私を軽々と抱き上げた。
「疲れているなら、部屋まで運んでやる。 今日はもう休め。夕食は部屋に運ばせるから、一歩も出るなよ」
「あ、ありがとうございます……」
私は団長さんの腕の中で、小さく頷いた。 誤魔化せた、と思った。 ……団長さんが、全てを察しているとも知らずに。
◇
その夜。 私は早めにベッドに入ったけれど、昼間の恐怖が蘇ってなかなか寝付けずにいた。
『みーつけた』
あの声は、幻聴だったのだろうか。 目を閉じると、またあの粘着質な声が聞こえてきそうで怖い。
「……怖いよぅ」
団長さんを呼びたい。 でも、「何でもない」って嘘をついちゃった手前、今さら「やっぱり怖い」なんて言えない。
私が布団を被って考えていると。
コン、コン。
テラスの窓ガラスが、控えめに叩かれた。 私はビクリとして顔を上げた。 カーテンの隙間から、月明かりに照らされた大きな影が見える。
私は恐る恐る窓に近づき、鍵を開けた。
「……ワンちゃん!!」
そこに座っていたのは、銀色の毛並みを輝かせた、大きな狼だった。 ここ最近、ずっと姿を見せていなかった私の大切なお友達。
「どうしたの? 団長さんの許可、出たの?」
私が尋ねると、彼は何も答えず(当たり前だけど)、切羽詰まった様子で部屋に入ってきた。 グルルル……。
喉の奥で低く唸りながら、部屋の隅々をチェックするように歩き回っている。 カーテンの裏、ベッドの下、クローゼットの隙間。 執拗に匂いを嗅ぎ、耳を澄ませている。 その金色の瞳は、いつもの愛らしいものではなく、獲物を狙う獣のように鋭く光っていた。
どうやら彼は、私のことが心配で駆けつけてくれたようだ。 私が「何でもない」と嘘をついたのに、団長さん(飼い主)が感じ取った違和感を、彼も感じ取ってくれたのだろうか。
「ワンちゃん……」
一通りの見回りを終えると、彼は私の足元に戻ってきた。 そして、私の体に自分の体を強く押し付け、擦り寄ってきた。 まるで、昼間についたかもしれない「悪いもの」の匂いを、自分の匂いで上書きして消し去ろうとするかのように。
「(……守りに来てくれたんだ)」
その温かさがそばにあるだけで、恐怖が溶けていく。 久しぶりのモフモフ。久しぶりの重み。
「ありがとう、ワンちゃん。 ……今日は、一緒に寝てくれる?」
私が尋ねると、彼は短く「ワン」と力強く答え、ベッドの足元――入り口と私の中間地点に、守護獣のように堂々と横たわった。
私は気づいていなかった。 今日、私が感じた視線が、単なる変質者のものではなく――国境を越えて忍び寄る、組織的な「魔の手」の先触れであったことに。
そして、団長さん(=ワンちゃん)が、私の嘘を見抜いていることに。
久しぶりに感じるモフモフの感触に安堵しながら、私はようやく眠りにつくことができた。




