3.あ、わんこ。
ジルベルト視点です。
夜の帳が下りる。 体内で暴れ回る膨大な魔力が、人の器をきしませる。 ……限界だ。 俺は執務室の窓を開け放ち、夜の闇へと躍り出た。骨格が変わり、視界が変わる。銀色の毛並みを持つ巨狼へと姿を変えることで、ようやく俺は息ができる。
中庭の冷たい空気が心地よかった。 俺はそのまま、水を飲もうと井戸の方へ向かった。
(……いた)
井戸の縁に腰掛け、ぼんやりと月を見上げている人影があった。 昼間、俺が拾ってきたあの女、レイだ。
(こんな夜更けに、一人か?)
俺は植え込みの影から、慎重に彼女を観察した。 改めてまじまじと見ると、その「幼さ」に言葉を失う。
昼間は、その不気味なほどの胆力に気を取られていたが、こうして無防備な背中を見ると、痛々しいほどに小さい。 手足は木の枝のように細く、体つきも薄い。 着ている服がぶかぶかで、まるで服に着られているようだ。
(十代半ば……いや、発育の悪さを考えると、十歳そこそこではないのか?)
俺は眉をひそめた(狼の顔で)。 親はどうした。こんな子供が、なぜ一人で魔の森になどいた? 栄養状態も最悪だ。頬はこけているし、肌も青白い。虐待でも受けていたのか、それとも口減らしで捨てられたのか。 昼間、俺が肉を譲った時に「残飯処理」などと言ったのも、そういった扱いを受け続けてきたからかもしれない。
(……不憫な)
胸の奥で、じわりと義憤と憐れみが湧き上がった。 俺は騎士団長だ。国を守る剣だ。 だというのに、こんな小さな子供一人救えず、何が最強の騎士か。 武器一つ持たず、こんな時間に外を出歩く危機感のなさも、「子供ゆえの無知」だろう。 俺がついていてやらなければ、この子は一瞬で魔物に拐われてしまう。
(驚かせないようにせねばな)
俺は努めて足音を立てないように、ゆっくりと茂みから姿を現した。 巨大な銀狼の出現。 普通の人間なら恐怖するだろうが、相手は無垢な子供だ。優しく接すれば伝わるだろう。
だが。
「……あ、わんこ」
レイは、俺を見ても眉一つ動かさなかった。 それどころか、「わんこ」呼ばわりだ。 俺は、大陸最強の魔獣とも渡り合うこの高貴な姿を指して、わんこだと?
(……やはり、まだ幼すぎて「狼」と「犬」の区別もつかないのか)
俺は呆れつつも、その無知さに少しだけ絆された。 俺の巨体で彼女を見下ろす。 だが、彼女の瞳には恐怖の色が微塵もなかった。あるのは、昼間と同じ底の知れない虚無と――少しだけの、親愛?
「大きいねぇ。君も、夜風に当たりに来たの?」
彼女はあろうことか、俺の鼻先に無造作に手を伸ばしてきた。 正気か。 俺がその気になれば、その小枝のような腕など一瞬で食いちぎれるというのに。
(警戒心というものを教えられていないのか……!)
俺は教育的指導(威嚇)の意味を込めて、その鼻先にフンと鼻息を吹きかけた。 だが彼女は「ふふ、あったかい」と緩く笑うだけだ。 その無防備な子供の笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが毒気を抜かれたように霧散した。
(……駄目だ。こいつは、害意を持つ敵じゃない)
ただの、無知で、弱くて、放っておけない迷子だ。 俺は深い溜息をつくように体の力を抜くと、彼女の足元にどさりと腰を下ろした。 まあいい。少しの間、この危なっかしい子供の番犬代わりになってやろう。
そう思って目を閉じた時だった。 彼女の口から、信じられない言葉が漏れたのは。
「君も、お腹空いてるの? 私のこと、食べる?」
(……は?)
俺は弾かれたように目を開けた。 レイは、自分の細い腕を俺の目の前に差し出し、まるで「お菓子をあげる」くらいの気軽さで言ったのだ。
「いいよ。どうせ私、ここで死ぬ予定だったし。君みたいに綺麗な毛並みの子の血肉になれるなら、悪くないかな」
――なんだと?
俺の思考が凍りついた。 死ぬ予定? 悪くない? こいつは今、何を言った?
こんな幼い子供が、「死んでもいい」と? 未来ある若者が、生きることを放棄しているというのか?
昼間、「処刑してくれ」と言ったあの言葉も、子供特有の癇癪や冗談ではなかったのか。 背筋が寒くなった。 俺の目の前にいるのは、ただの迷子ではない。 もっと根本的な部分で、心が壊れてしまっている少女だ。
『グルゥ……ッ!』
ふざけるな。 俺は思わず、彼女の服の裾を噛んで引っ張った。 食ってたまるか。死なせてたまるか。 まだ世の中の楽しいことも、美味いものも知らず、こんな森の奥で人生を終わらせようなどと、大人の俺が許さんぞ。
俺はこの時、初めて強い焦燥を覚えた。 この子供を生かさなければならない。 何としてでも、この虚無な瞳に「生きたい」という意志を灯させ、肉をつけて、健康的な笑顔を見せさせてやらねばならん、と。




