27.ワンちゃんは特殊任務中。
ある朝。 私は、小鳥のさえずりと共に目を覚ました。
ふかふかのベッドに、肌触りの良いシーツ。 窓を開ければ、美しく手入れされた庭が見える。
「……平和だなぁ」
私は大きく伸びをした。 ここに来たばかりの頃は「どうせ死ぬんだ」と毎日怯えていた。 けれど今は違う。 使用人の皆さんはいつも笑顔で接してくれるし、騎士の方々もすれ違うたびに敬礼してくれる。 何より、団長さんが過保護なほどに大切にしてくれている。
「死んだほうがマシ」だなんて、もう微塵も思わない。 私は今、生まれて初めて、生きていることを楽しんでいる。
――ただ、一つだけ。 満ち足りた日常の中に、ぽつんと小さな穴が空いたような寂しさがあった。
私は隣の、誰もいない冷たいスペースを撫でた。
「ワンちゃん……今日も来てくれなかった」
以前は毎晩のようにテラスから忍び込んできて、朝まで一緒に寝てくれていた銀色の狼。 あのモフモフとした温もりが、ここ最近パタリとなくなってしまったのだ。
◇
食堂に行くと、団長さんが既に席についていた。 私の顔を見ると、彼は新聞を置いて優しく微笑んだ。
「おはよう、レイ。昨日はよく眠れたか?」
その穏やかな問いかけに、私は少しだけ言葉に詰まった。 「はい」と答えたいけれど、嘘はつきたくない。
「……おはようございます。 あの、団長さん。ご飯をいただく前に、少し相談してもいいですか?」
「ん? なんだ? 何か欲しいものでもあるのか?」
団長さんはコーヒーカップを手に、リラックスした様子で耳を傾けてくれた。 私は意を決して切り出した。
「実は……最近、ワンちゃんが部屋に来てくれないんです」
ブフッッ!!
団長さんが盛大にコーヒーを吹き出した。 慌ててナプキンで口元を拭い、咳き込みながら私を見る。
「な、なんだ急に」 「だって、心配なんです。 皆さんとっても良くしてくれますし、団長さんが寝るまで手を握ってくれるのも、すごく安心します。 でも……やっぱり、あの子が急に来なくなって、少し寂しくて」
私が正直な気持ちを伝えると、団長さんはバツが悪そうに視線を泳がせた。
「……そ、そうか」 「はい。もしかして、私、何か嫌われるようなことしちゃったのかなって」
「いや、それはない! 断じてない!」
団長さんは食い気味に否定した。
「あいつは……その、『しつけ』の最中なんだ」 「しつけ、ですか?」 「ああ。『年頃の女性の寝室に、許可なく入り浸るのは行儀が悪い』と……上からきつく叱られてな。 今は夜間の外出禁止処分中なんだ」
団長さんはスラスラと(しかし耳は赤くして)嘘をついた。 なるほど。ワンちゃんも騎士団所属の賢い子だから、規律は厳しいのか。
「そうですか……怒られちゃったんですね。私のせいかな」 「(……俺のせいだがな)」
団長さんがボソリと何か言ったが、私は気を取り直して、一番の疑問をぶつけることにした。
「でも、それなら昼間はどうしているんですか?」
「昼間?」
「はい。夜に会えないなら、昼間に会いに行こうと思って、昨日屋敷中を探したんです。 でも、庭にも、犬小屋にも、厩舎にもいなくて……」
そう。これが一番不思議だった。 この屋敷に住んでいるはずなのに、日中、あんなに大きな銀色の狼を見かけることが一度もないのだ。 使用人さんたちに聞いても、「さあ? 旦那様の使い魔ですから」と曖昧な返事しか返ってこない。
「ねえ、団長さん。 どうしてワンちゃんは、夜にしか会えないんですか? 昼間はどこにいるんですか? 夜がダメなら、せめて昼間におやつをあげたり、ブラッシングしてあげたいのに」
私が身を乗り出して尋ねると、団長さんは明らかに動揺して、パンにバターを塗りたくっていた。
「そ、それはだな……あいつは『特殊任務』についているからだ」
「特殊任務?」
「ああ。あいつは……その、昼間は『姿を隠して護衛する』という任務があるんだ。 騎士団の極秘任務で、昼間は実体を消して……いや、俺の影の中に潜んでいるというか……とにかく、滅多に姿を現さないんだ」
団長さんの説明はしどろもどろだ。 でも、要するに「昼間は仕事で忙しい」ということだろうか。 騎士団のワンちゃんって、そんな忍者みたいなこともできるんだ。すごい。
「そうなんですね……。みんな忙しいんですね」 「ああ、大変だ。……特に最近は、色々と自制心との戦いが激しくてな」
団長さんは疲れたように溜息をついた。
「でも、寂しいです」
私は素直に言った。
「団長さんがいてくれるから、命の不安はありません。毎日感謝しています。 でも……やっぱり、あの温かくて大きな背中に抱きつくと、すごくホッとするんです。 あのモフモフは、私の心の『癒やし』なんです」
その言葉を聞いた瞬間、団長さんの表情が、なんとも言えない複雑なものになった。 悔しそうな、でも少し嬉しそうな、そして葛藤に満ちた顔。
「……レイ。お前、あいつのことがそんなに好きなのか?」 「はい! 大好きです!」 「……俺よりもか?」
団長さんが、拗ねた子供のように低い声で聞いてきた。
「えっ?」 「俺が手を握るだけでは、不満か? 俺よりも、あの毛玉の方がいいのか?」
まさかの嫉妬!? 団長さんが、自分の飼い犬(狼)に張り合っている?
「そ、そんなことありません! 比べられませんよ!」
私は慌てて手を振った。
「団長さんは、私の命の恩人で、尊敬するひとです。一番頼りにしています。 ワンちゃんは……その、可愛い弟というか、ペットというか……『好き』の種類が違います!」
私が必死に弁解すると、団長さんは「恩人……尊敬……」とブツブツ呟き、少しがっかりしたような、でもホッとしたような顔をした。
「……はぁ。分かった」
団長さんはコーヒーを一気に飲み干し、覚悟を決めたように私を見た。
「昼間は任務があるから無理だが……夜、もしお前がどうしても眠れなくて寂しい時は、俺に言え」 「え?」 「兄上の言いつけはあるが……お前が呼んだのなら、少しは融通が利くかもしれん。 特別に、少しだけあいつを部屋に入れてやる」
それはつまり、団長さんがワンちゃんへの「外出禁止令」を一時的に解いてくれるということだろうか。
「本当ですか!? ありがとうございます!」 「……あくまで『どうしても』の時だけだぞ。 それと、あいつが来ても、絶対に無茶なスキンシップはするなよ? ただ背中を貸すだけだ。いいな?」
団長さんは念を押すように言った。その耳がほんのり赤いのを、私は見逃さなかった。
「はい! 約束します!」
私は満面の笑みで頷いた。 これでまた、あのモフモフに会える。 団長さんの大きな手と、ワンちゃんの温かい毛並み。その両方に守られていれば、私はもう何も怖くない。
――なぜ彼が夜にしか現れないのか。 なぜ団長さんとワンちゃんが同時に存在しているところを見たことがないのか。 そして、なぜワンちゃんを呼ぶと団長さんが少し疲れた顔をするのか。
その単純な答えに私が気づくのは、まだもう少し先の話である。




