2.牢屋ですか?
森を抜けると、そこには無骨な石造りの砦がそびえ立っていた。 魔の森の前線基地。本来なら、魔物の襲撃に備えた緊迫感のある場所なのだろう。 けれど、私の目に入ってきたのは、ただただ「薄汚れた」光景だった。
石壁にはどす黒い苔のようなものがびっしりと張り付き、地面はぬかるみ、空気は森の中よりも淀んでいるように感じる。 働いている人々の顔色も悪い。すれ違う兵士たちは皆、目の下にクマを作り、殺伐とした空気を纏っていた。
「……汚い」
思わず本音が漏れた。 潔癖症というわけではないけれど、この空気の重さは少し息苦しい。 私の呟きを聞き咎めたのか、先頭を歩いていたジルベルト団長が足を止める。
「不満か」 「いえ。掃除しがいがありそうだなと」 「……変わった女だ」
彼は呆れたように鼻を鳴らすと、砦の中へと私を先導した。 通されたのは、一階の奥にある小部屋だった。窓はなく、埃っぽい匂いが充満している。おそらく、使われていなかった倉庫か何かだろう。
「ここを使え」 「はい。牢屋ですか?」 「部屋だ」
団長は不機嫌そうに短く答えた。 鍵がかかっていないなら、牢屋ではないらしい。叔父の家で寝起きしていた階段下の物置に比べれば、広さも十分だし、何より私のテリトリーがあるだけマシだ。
「食事の時以外は勝手に出歩くな。迷子になられても探すのが面倒だ」 「分かりました。ここから一歩も動きません」 「……掃除をするんじゃなかったのか?」 「あ、そうでした」
私が頷くと、彼は眉間を押さえて深い溜息をついた。 どうやら私は、すでに彼を疲れさせているらしい。早めに処分されないよう、有能さをアピールしておかなくては。
彼が出て行った後、私は部屋の隅にあったバケツと雑巾を見つけた。 とりあえず、自分の寝床となる床だけでも拭いておこう。
「よいしょ……」
水に濡らした雑巾で、黒ずんだ床をひと拭きする。 すると、奇妙なことが起きた。 雑巾が触れた箇所から、こびりついていた黒い汚れが「シュゥ……」と音を立てて蒸発するように消え失せたのだ。 後には、新築のようにピカピカに輝く石床が現れた。
「……洗剤いらずですね。異世界の汚れは落ちやすくて助かります」
私は特に深く考えず、その調子で床と壁を磨き上げた。 拭けば拭くほど、部屋の中に立ち込めていたカビ臭いような淀みが消え、代わりに凛とした澄んだ空気が満ちていく。 三十分も経つ頃には、薄暗い倉庫は、そこだけ高級ホテルのような清浄な空間に変わっていた。
「うん、これなら寝れそう」
満足して雑巾を洗っていると、開け放していたドアの向こうから、通りがかった騎士たちが驚愕の声を上げた。
「おい……なんだここ!? 眩しいぞ!?」 「空気が美味い……! ここだけ森の瘴気が完全に消えてるぞ!」 「あの中にいるの、さっき団長が拾ってきた女だよな? 何をしたんだ?」
廊下からヒソヒソと視線を感じる。 しまった。勝手に備品をピカピカにしすぎただろうか。 怒られる前に言い訳を考えていると、騒ぎを聞きつけたのか、再びあの重い足音が近づいてきた。
「何ご……とだ」
ジルベルト様が入り口で立ち尽くしている。 その金色の瞳が、見違えるほど綺麗になった部屋と、薄汚れた雑巾を持つ私を交互に見て、大きく見開かれていた。
「……貴様、何をした」 「掃除です」 「魔法は使ったか」 「使えません。水拭きしただけです」 「……水拭きで、これか?」
彼は信じられないという顔で、壁にそっと触れた。 その瞬間、彼の強張っていた肩の力が、ふっと抜けたように見えた。
「……静かだ」
彼は独り言のように呟くと、複雑そうな目で私を見た。 怒鳴られるかと身構えたが、彼は何も言わず、ただ部下たちに「夕食を用意させろ」と短く命じただけだった。
数分後、私は食堂の長いテーブルの端に座らされていた。 目の前には、木のお椀に入ったスープと、黒パン。 周りでは騎士たちが遠巻きにこちらを観察している。完全に見世物だ。
「食え」
向かいの席に座った団長が、顎で食器をしゃくった。 私はスプーンを手に取る。 スープはどろりとしていて、正直あまり美味しそうではない。毒が入っている可能性もあるけれど、まあ、それならそれでいいか。
一口、スープを啜る。
「……あれ?」
意外だった。見た目に反して、味がすごく優しい。 体が内側からポカポカするような、深い旨味がある。
「美味しいです」 「……は?」 「見た目が悪いので覚悟していましたが、美味しいです」
私が正直に感想を言うと、周囲の騎士たちが「嘘だろ?」「今日のスープ、腐りかけの野菜を使ってたはずじゃ……」「俺がさっき味見した時は泥の味がしたぞ」とざわめいた。 どうやら私の味覚がおかしいわけではないらしい。 私がスプーンでかき混ぜた瞬間に、スープの中の悪いものが消えたことなど、知る由もなかった。
黙々とパンを齧っていると、不意に視界に影が差した。 顔を上げると、団長が自分の皿に乗っていた大きな肉の塊を、フォークで突き刺し、私の皿に「ドンッ」と乱暴に放り込んだところだった。
「……あの、これは?」 「食え」 「団長の分では?」 「俺はいい。貴様のような痩せぎすは見ていて不愉快だ。肉をつけろ」
食堂内が、静まり返った。 騎士たちの目が点になっている。 『団長が、自分の肉を譲った……?』『あの食欲魔人の団長が!?』という心の声が聞こえてきそうだ。
しかし、私はその行動の意味を、自分なりに解釈していた。
(なるほど。これは「最後の晩餐」的なやつか、あるいは……)
私は皿に乗った肉を見つめる。 きっと、痩せていると処刑した時に見栄えが悪いとか、あるいは魔物の餌にするには肉付きが悪いとか、そういう理由だろう。 「不愉快だ」とハッキリ言われたし。
「ありがとうございます。残飯処理ですね、承りました」 「……ッ、違う!!」
団長がテーブルを叩いて立ち上がった。 その音にビクリと肩を揺らすと、彼は悔しげに顔を歪め、ドシドシと足音を荒らげて食堂を出て行ってしまった。
「……怒らせてしまった」
私は肉を口に運びながら、ぼんやりと考えた。 やっぱり、お礼を言うときは「残飯」なんて言わず、黙って食べるべきだったな。 明日はもう少し、空気になれるように気をつけよう。
そうして夜が更け、砦が静寂に包まれた頃。 私は中庭の井戸の近くで、一匹の大きな獣と出会うことになる。




