19.レイとの日々
それから、一ヶ月が過ぎた。
俺の生活は劇的に変化し、今や完全にレイ中心で回っていた。
かつては仕事中毒の騎士団長として恐れられ、夜は魔力酔いの頭痛に悩まされながら眠るだけの、味気ない毎日。 だが、この一ヶ月はどうだ。
朝。 俺は目覚まし時計が鳴るよりも早く、爽快な気分で目を覚ます。 以前のような鉛のような体の重さはない。隣の部屋から微かに聞こえるレイの寝息が、どんな回復魔法よりも俺の活力を満たしてくれるからだ。
身支度を整え、食堂へ向かう。 そこには、すっかりこの屋敷の生活に馴染んだ(と俺は思っている)レイが、ちょこんと座って待っている。
「おはようございます、団長さん」 「ああ、おはよう。……また少し顔色が良くなったな」
俺は満足げに頷いた。 一ヶ月前、骨と皮ばかりだった彼女の体には、適度な肉がつき始めていた。頬は桜色に染まり、艶やかな黒髪は天使の輪を浮かべている。 俺の「肥育計画」は極めて順調だ。
「はい。昨夜も『ワンちゃん』が来てくれたので、よく眠れました」
レイが嬉しそうに微笑む。 彼女の中で、俺(人間)への敬意と、俺(狼)への親愛は、この一ヶ月で完全に定着していた。 毎晩の「夜警(という名の添い寝)」は、もはや彼女にとっても俺にとっても欠かせないルーティンとなっている。
「さあ、食うぞ。今日は果物を多めに用意させた」 「はい。(……ビタミン補給。随分と時間をかけて肉質を調整してるわね。熟成肉にするつもりかしら)」
まだ物騒な心の声が聞こえた気がしたが、一ヶ月も経てば俺も慣れたものだ。 俺は無視して、パンにたっぷりとバターを塗ってやった。
◇
昼。騎士団本部。 俺は執務室で書類の山と格闘していた。
以前なら数日かかっていた業務量が、今の俺なら半日で終わる。 魔力が安定しているおかげで思考はクリアだし、何より「早く帰りたい」というモチベーションが違う。
「団長、少しよろしいですか?」
副団長のダリウスが入ってきた。 彼は俺の机の上に積まれた「完了済み」の書類タワーを見て、呆れたように口笛を吹いた。
「相変わらず絶好調ですね。 一ヶ月前までは『屋敷に帰っても頭痛がするだけだ』と言って、深夜まで残業していた人が嘘のようだ」 「体調が良いだけだ」 「ふーん。体調、ねぇ……」
ダリウスはニヤニヤしながら、俺のデスクの端に置かれた紙袋を指差した。 それは、昼休みに俺が自ら行列に並んで買ってきた、王都で人気の洋菓子店の新作タルトだ。
「で、その可愛らしい包みは? この一ヶ月、毎日何かしら甘いものを買って帰っていますよね?」 「……部下への差し入れだ」 「へぇ! 今日こそ私にですか!?」 「違う。屋敷の……その、使用人たちへの慰労だ」
俺が苦しい言い訳をすると、ダリウスは「はいはい、ご馳走様です」と肩をすくめた。
「『愛しの迷子ちゃん』への手土産でしょう? 全く、過保護なパパ……いや、飼い主様だこと。 彼女、随分と可愛くなったそうじゃないですか。噂になってますよ」 「うるさい。仕事に戻れ」
俺はダリウスを追い払うと、時計を見た。 あと一時間。それで帰れる。 俺はタルトの箱を大事にしまい込み、残りの書類を瞬殺すべく気合を入れ直した。
◇
夕方。 屋敷に帰ると、玄関ホールでレイが出迎えてくれた。 以前は「掃除用具」を持ってウロウロしていたが、マチルダたちの教育(監視)のおかげで、今は大人しく待っていることができるようになった。
俺はマントを脱ぎながら、レイに近づく。 そして、日課となった「手土産」を、ぶっきらぼうに差し出した。
「……これ」 「え? 今日もお土産ですか?」 「帰りに……偶然、手に入った。食え」
「偶然」なわけがない。この店は予約必須だ。 レイは箱を受け取ると、中身を見てパァッと表情を輝かせた。
「わぁ……宝石みたい! これ、すごく有名なとこのタルトですよね? 昨日はマカロンで、一昨日はプリンで……こんなに贅沢していいんでしょうか」 「構わん。お前の仕事は食うことだと言っただろう」 「ありがとうございます。 ……(こんなに高級品続き。いよいよ出荷の時期が近づいてきたのかな。一ヶ月も生かしてもらえただけ奇跡だけど)」
レイは相変わらず悲壮な覚悟を決めているが、それでもタルトの誘惑には勝てず、嬉しそうに箱を抱きしめた。 その笑顔が見られたなら、一ヶ月並び続けた甲斐もあったというものだ。
◇
そして、夜。 ここからが俺の「本番」だ。
俺は自室で「銀狼」の姿に変身する。 一ヶ月前は変身するだけで軋むような痛みがあったが、今はもう、呼吸をするようにスムーズだ。 レイの近くにいることが、俺の魔力にとって最高のメンテナンスになっている証拠だ。
俺はベランダから隣の部屋のテラスへ飛び移り、窓をカリカリと爪で叩く。
「あ、ワンちゃん!」
すぐに窓が開き、レイが飛びついてくる。 風呂上がりの甘い香りと、柔らかな体温。 この一ヶ月で、彼女は俺(狼)に対して完全に心を許していた。
「よしよし、いい子ね。今日も来てくれたんだ」
レイが俺の首に腕を回し、顔を埋める。 俺はその温もりを全身で感じながら、今日一番の安らぎに浸った。 魔力の澱みが浄化され、力が満ちていく。まさに「充電」だ。
「あのね、ワンちゃん。聞いて」
レイが俺の背中を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「今日で、ここに来て一ヶ月が経ったの」
『(ああ、そうだな)』
「最初はすぐに殺されると思ってたけど……団長さん、まだ私を生かしてくれてる。 毎日美味しいご飯をくれて、お菓子までくれて……」
レイの手が止まる。
「……私ね、最近ちょっと怖いの」 『?』 「このまま、死ぬのが少し怖くなっちゃった。 ……もし許されるなら、もっと生きたい。 団長さんが買ってきてくれるお菓子を、もっと一緒に食べたいなって……そう思っちゃうの」
その一言に、俺の心臓が大きく跳ねた。
死ぬのが怖い。 もっと生きたい。 一緒に食べたい。
それは、一ヶ月前の「諦めきった彼女」からは想像もできない、明確な「生」への執着であり、俺個人への「想い」だった。
(……そうか。ようやく、お前も未来を望んでくれるようになったか)
俺は嬉しさのあまり、尻尾をバタンバタンと床に打ち付けてしまった。
「え? どうしたのワンちゃん、急に興奮して」 『ウォフ!(なんでもない)』
俺は慌てて平静を装い、彼女の膝に顎を乗せた。
この一ヶ月、大切に育ててきた甲斐があった。 彼女の心に、「生きたい」という灯がともったのだ。
絶対に死なせない。 処刑も、教会の干渉も、全て俺が叩き潰す。 そしていつか誤解が解けた時、今度は人間の姿で、堂々と彼女とタルトを囲んでやる。
俺はレイの温もりを全身で感じながら、 「明日はもっと美味い店を探しておこう」と、騎士団長にあるまじき決意を固めていた。
――こうして、俺の「レイ中心の生活」は、一ヶ月を経て、より強固で、かけがえのないものになっていたのだった。




