15.レイの本音
……なんだ、これは。
俺はレイに抱きつかれたまま、目を見開いていた。
今夜、俺がこの「銀狼」の姿になっていたのは、 自主的な巡回のためだ。レイとはじめてこの狼の姿で会った夜は、久しぶりに魔力が高ぶり、意図せず狼の姿になってしまったが…
王家では、先祖返りで稀に狼への変身能力を持つ者が生まれる。 この姿になれば、聴覚や嗅覚は人間の比ではない。 レイを狙う不届き者がいないか、屋敷の結界にほころびはないか。それを確認するには、この姿になるのが一番確実だった。
――だが、代償はある。
人一人の器には収まりきらない膨大な魔力を、この姿で維持し続けるのは、常に全身を万力で締め上げられるような重い負荷がかかるのだ。 魔力が血管の中で軋み、頭の芯がジリジリと焼けるような「魔力酔い」。 普段の巡回なら、この不快感に耐えながら短時間で済ませるのだが……。
今はどうだ。
レイの小さな掌が俺の背中を撫でるたびに、常に感じていたあの忌々しい頭痛や倦怠感が、嘘のように引いていく。 まるで、泥水が濾過されていくように。 軋んでいた歯車に、極上の潤滑油が差されたように。
魔力の流れがスムーズになり、体が羽根のように軽い。
(……ああ、やはりそうか)
俺は、ある一つの「答え」に辿り着き、戦慄した。
思い返せば、森で初めてこいつと会った夜――俺がこの狼の姿で遭遇したあの時も、そうだった。 いつもなら苦痛を伴う変身状態が、あの夜だけは妙に楽だった。 その時は、森の瘴気が薄れたせいか、あるいは偶然だと思っていた。
だが、違う。 今、こうして再び彼女に触れ、俺は確信した。
(こいつだ。こいつの「浄化」の力が、俺の過剰な魔力を安定させているんだ)
どんな高位の魔導師に調整させても、どんな魔道具を使っても取り除けなかった、変身時の慢性的な苦痛。 それが、この少女がただ「撫でている」だけで、完全に消滅している。
俺は、思わず喉を鳴らして目を細めた。 心地いい。 こんなに何の負荷もなく、クリアな感覚でいられるのは、生まれて初めてかもしれない。
「ねえ、ワンちゃん」
レイが俺の耳元で囁く。その吐息すらも、今の俺には心地よい安定剤だ。
「貴方は、ずっとここにいてくれる?」 『……』 「明日も、明後日も……私が死ぬまで。 団長さんは優しいけど、やっぱり人間だから、いつか私を嫌いになるかもしれない。 でも、貴方なら……ずっと友達でいてくれる気がするの」
馬鹿な奴だ。 俺とお前を処刑しようとしている(と勘違いしている)団長は、同一人物だというのに。 むしろ俺の方こそ、お前がいなければ、この慢性的な苦痛から解放されないというのに。
(……手放せるわけがない)
俺は悟った。 俺が一方的に彼女を守るのではない。 俺たちは互いに、互いを必要としているのだ。 彼女は孤独を癒やす温もりを。俺は魔力を鎮める安らぎを。
ならば、今は甘んじて「ペット」でいてやろう。 彼女の側こそが、今の俺にとって世界で一番、魔力の効率が良い「休息地」なのだから。
『ウォフ(仕方ないな)』
俺は短く鳴いて、彼女の頬をざらりとした舌でひと舐めした。 涙の味がした。
「……あ、舐めた。くすぐったいよ」
レイが涙声で、けれど嬉しそうに笑った。 その笑顔を守れるなら、狼の血筋も悪くないかもしれない。
「……ふわぁ」
しばらく撫でていたレイが、大きなあくびをした。 緊張の糸が切れたのか、瞼が重そうに落ちてきている。 夜風が冷えてきた。これ以上外にいると風邪を引く。
俺は立ち上がり、鼻先で彼女の背中をグイグイと押した。 「部屋に戻れ」という合図だ。
「え? もうおしまい? ……そっか、貴方も眠いよね」
レイは素直に立ち上がると、ふらつく足取りでテラスの窓へ向かった。 そして振り返り、月明かりの下で微笑んだ。
「おやすみなさい、ワンちゃん。また明日ね」
窓が閉まり、カーテンが引かれる。 部屋の明かりが消えるのを見届けてから、俺は大きく息を吐いた。
『…………』
俺はテラスを飛び降り、自室のベランダへと着地した。 いつもなら変身を解く際、反動で酷いダルさに襲われるのだが、今は驚くほどスムーズに人間の姿へと戻ることができた。 体も軽い。まるで質の良い睡眠をとった後のようだ。
「……これでは、本当に手放せんぞ」
俺は自室の窓ガラスに映る、妙にスッキリとした自分の顔を見つめながら、 「明日はもっと美味い肉を用意してやろう」と、もはや餌付けが趣味になりつつある思考で寝床についた。




