8穴
女の喘ぎ声が聞こえたのは今朝、眼が覚めた時だった。壁が薄いからか、よく隣の住民の足音が聞こえるなんて事は日常茶飯事だったが、喘ぎ声が聞こえたのは初めてのことだった。
右隣の部屋、つまり403号室に住まう住民は外国人の男性だった。
深夜に知らない言語を発しながら大声で、交わす通話は壁を筒抜けて丸聞こえだった。
安い家賃で立地もいいから日本に出稼ぎに来た外国人がこの地域に多く住んでいることは、担当の不動産会社から伺っていた。
しかし女の喘ぎ声は左隣…401号室から聞こえてきていた。物静かで、生活音が何も聞こえないものだから、つい先日までは空き部屋とばかり思っていた。
だが、ドアノブに黄色い猫の模様が描かれた傘が綺麗に立て掛けているのを偶然見かけて、空き部屋ではなかった事を先日発覚したばかりだった。
朝っぱらから、自慰的行為をする者と、深夜の電話が耐えない人間が俺の住まう部屋両サイドに入り浸っているなんて、耐え難い事実だった。
次第に401号室の女の喘ぎ声は近所迷惑に達するほど激しく声を荒らげた。もはや、叫び声に近かい。
深夜に聞こえる外国人の声音よりも、生々しく聞こえる。むしろ、この部屋にいるんじゃないかと錯覚してしまうほどに。
俺の真後ろで喘いでいるような、感覚だった。
「よく見えないので、立ってほしいです」
喘ぎ声が途絶え、401号室の女は誰かに問いかけるような口調へと豹変した。俺に話しかけているかのような、やけに身近にいる気がした。
───よく見えないので、立ってほしいです
流石に俺に話しかけた訳じゃないだろうが、今俺は現状リビングに腰をかけて、座っていた。
401号室の女の言葉と今の俺の状況が静謐に一致していて、やはり俺に話しかけたのでは、という疑問がより一層深まった。
少し不気味に思いながらも無視を続けていたが、
徐々に荒くなる甲高い声に、つい、後ろを振り向いてしまった。
「......え」俺の口から、戦慄めいた情けない声が漏れだした。
部屋の中で生々しく聞こえていた声の原因が明らかとなった。
この部屋に俺以外の人間が居座っていた訳ではなかった。俺の部屋と401号室を繋ぐ壁に、小学生の拳サイズの穴が空いていた。
昨日まで、存在していなかった小さな穴がリビングの壁掛けカレンダーの右下にぽっかりと空いていた。
恐ろしいながらも、恐怖心、いや好奇心に近い感情で、その穴を覗いてしまった。
まつ毛の長い眼光が向き出し、眼と眼が重なった瞬間───
「ぎゃああああああああああああああああああああ」
低く、そう叫んだのは俺じゃない。向こう側だ。
「ぁ...あのっ、ごめんなさい。いきなり眼が現れたからびっくりしちゃいました」
「……」びっくりしたのは紛れもなく俺の方だ。予想だにもしていなかった展開に、呆然としていた。
彼女は穴から眼を離し、申し訳なさそうな声で謝るばかりだった。困惑したいのは、俺の方なのに彼女が想像以上に騒ぎ立てていて、かえって俺は落ち着きを取り戻していた。
置かれた状況に訳が分からず、ただ息を吸って吐くことしか出来なかった。
そんな中、インターフォンが鳴った。
「あのぉ…」
開けようとした矢先に、急かすようにドアをノックしだした。
「すいません…あのぉ…」
「あ、今開けますんで。近所迷惑なので、ノックはちょっと辞めてください」
誰がインターフォンを鳴らしたのか何となく察することが出来た。先程の401号室の女性だ。
「あの、さっきはごめんなさい…私つい、穴があると覗いちゃうんです」
「穴を開けたのは君?」
俺の問いかけに、彼女は捲し立てるように否定の体勢を取った。
「いやいやいやいやいやいやいやいや...私違います。本当ですよ...私じゃないんです。元々穴が空いていたっぽくて...私、ついつい穴があると覗きたくなっちゃうんです。小さい頃とかに、蟻の巣穴を覗いたら、女王蟻が視界に映ったんです。普段見れないものが見れたという優越感がありまして、その頃から穴を見ると覗いちゃう癖があるんです...というか、人間誰しも穴があると覗きたくなっちゃいませんか...?夢があるというか、私たちの知らない世界が穴を通じて、見えると思うんですよね」
めちゃくちゃ変人だ。後半は何を言っているのかが理解不能であった。意味の無い会話を、真摯に受け止めても、ただの時間の無駄だった。
だが、容姿は言葉とは裏腹に、清潔そうな黒髪に、"喋らなければ" お人形さんのように美しかった。
「穴が元々空いていた?それ、嘘ですよね…内見に伺った時は、綺麗な真っ白い壁でしたよ。それに、大家さんも壁は新品に取り替えたと仰っていました」
「いやいやいやいやいや…だから私は開けていないんです。そもそも貴方が住む前も穴は空いていましたよ。確か、1年前とかから穴がありましたね」
「1年前からってことは、亡くなられた方が住んでいた時から、ということですか?」
「…あ、いやその時は、もちろん住んでいませんでした。彼が亡くなった直後に私はこのマンションに住みました」
一瞬彼女は、言い淀んでいた。何か言いたげな、隠したかのような素振りをしていた。
「とにかく、穴は元々空いていましたから!私、神城さんがこの家に入居した日に、部屋中を掃除しているところ、見ましたもん!」
今にも叫び出して、暴れだしそうだった。
彼女、401号室のこの女は、入居した日からずっと俺の部屋を穴から監視していたのだ。
まだ、名前も名乗ってもいないのに知っているのも、俺が部屋中を清掃していた所も、壁の穴を通して、全て監視されていた。




