6異臭の源
彼は、水を俺に差し出すとそのまま踵を返し、逃げるように去ってしまった。
そこいらの自販機でわざわざ買ってきてくれたのだろう。いつもなら、他人が触ったペットボトルなんて、受け取ることすらも出来ないのに、現状、そんな事など気にしてはいられなかった。受け取ったペットボトルを拭くことさえ、する余裕なんてない。
彼の敬意に感謝をし、受け取ったペットボトルの水を喉に押し込むように流し入れると、喉から胃に猛烈な違和感が残った。
水が毛に絡み合い、それが障害物のように、思うように喉に通らない。水で押し込むように、勢いよく喉に水を流し込むが、毛が喉に張り付いていて、上手くいかない。
唾を飲み込む度に、未だ違和感は拭いきれなかった。
─────
俺は有り得ない速度で走っていた。風を切り抜け、都会の植木を避けながら、会社へと向かう。
速度を上げる度に、胃の中の水がぽたんっと音を立てる。
道すがら、数々の人にぶつかり合いながら前へ前へと進んでゆく。入社2日目で、遅刻なんてあっていい筈がない。俺の矜恃が許せなかった───
ぎりぎりだ。それは寸前だった。会社には、なんとか間に合ったらしい。不幸中の幸いであり、疾走しなければ完全に詰んでいた。
安堵した反面、まだ拭いきれない違和感は残っていた。
女性社員数名の視線を察知し、目を合わせる度に逸らすと言った奇妙な事を彼女達は行っていた。
それだけじゃない。彼女たちはヒソヒソと何かを話していた。
もしかしたら、同じ車両に乗っていて、先程の嘔吐を見られていたのではないかと不安に駆られた。
それは、電車で嘔吐した際に浴びせられた軽蔑するような目を、彼女たちはしている。
デスクを前に姿勢を正すが、どうにも背中がむず痒い。周囲全体が、何か、不穏のような物を感じる。
不意に俺は右隣の、眠たそうに瞼を擦っていた上司に尋ねた。
「なんか、変な臭いしませんか...?洗濯物の生乾き臭と言うか...いや、もっと猛烈な何か...お風呂に入っていないような...衛生的ではないような感じの...すみません、語彙力なくて...えっと、伝わりますかね?」
「あぁ、そうだな...確かに臭うな」
「ですよね?俺も今そう思っていた所でして...」
「お前だよ」
一瞬、彼が何を言っているのか脳内で理解するのに時間がかかった。
「はい?」
「臭うぞ、お前」
時が止まったのかと思った。俺は再度尋ねる。
「...あの、どういうことでしょうか?」
「昨夜は風呂に入ったのか?神城。あまり言いたくはないが、昨日は遅くまで飲み会に付き合ってもらったのは悪かった。神城が会社に馴染めるようにと、思っての本意だったが、風呂に入る時間も惜しんでまで、申し訳ないな」
彼の言葉は完全に俺に対する皮肉だった。申し訳なさそうに語る姿は、尚更冗談を言っているようには見えなかった。
彼の目線が、俺の指先へと向けられていた。俺はそれを辿るように、自らの爪先に目を向ける。
爪の間に垢が詰まっていて、見るからに真っ黒だった。
驚きのあまり、思わず、隠すように後ろに手を回していた。
「.....え」
「お前が来た瞬間からだ。この臭いは」
上司の言葉が遠回しに近づくな、と言われたような気がして、言葉を失っていた。あんぐりと開いた大きな口は、閉じる事を忘れ、間抜け面で、呆然とデスクに向き合っていた。




