11診断結果
「ただの考えすぎですよ」
医師のその言葉が、診察室の中で時間がスローモーションのような感覚にさせられた。
上げようとしていた腕をゆっくりと下ろした。脇の下には、診察のために塗られたジェルの感触がまだ残っている。
「本当でしょうか?でも、周りからは臭うと言われていまして…自分でも、お風呂に入っていないような臭いがする気がして…」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
この数ヶ月、俺の生活はニオイに支配されて、大分変わり果てていた。
電車に乗る時に、人目が妙に気になったり、オフィスでは同僚が鼻をズルズルと啜る音ひとつに身を縮めていた。
あの女に「私たちワキガなんですかね〜」と仄めかされてから一日に何度もトイレに駆け込んでは、肌を赤くなるまで拭き取っていた。
ワキガであってほしくない反面、もしワキガだと診断されれば、この言いようのない恐怖に名前がつき、治療という出口が見つかる、そんな矛盾が交錯していた。
医師は診療録をめくり、眼鏡をクイッと持ち上げた。
「神城さん、もう一度言いますが、医学的な観点から見て、あなたのワキガの可能性は極めて低いです。アポクリン腺の活動も正常の範囲内ですし、先ほど確認したガーゼのテストでも、ワキガ特有の強い臭気は感知されませんでした」
「いや、でも……」
医師は向かいのパソコンから目を逸らし、椅子をくるりと回転させ、正面から向き合った。
「これは自己臭恐怖症に近い状態かもしれませんね。清潔感に敏感な若い方は最近、多いんです。他人の何気ない仕草を自分の臭いのせいに結びつけて、深みにはまってしまう」
あんなに恐れていたワキガではないという言葉。それは救いであるはずなのに、安堵よりも「じゃあ、この数ヶ月の苦しみは何だったのか」という途方もない虚脱感だった。
「先生……俺は、臭くないんでしょうか。会社の上司に、臭うと言われたんですよ…挙句の果てには、お風呂に入ったのか?とか、訊かれてしまって」
「ええ、全く臭くありませんよ。少なくとも、治療が必要なレベルでは全くない。しかし、そうですか。臭うと言われてしまった、との事ですがそれは貴方の臭いじゃない可能性が高いですよ」
「それはどういうことでしょう?」
「貴方の身の回りの人、つまり " いつも一緒にいる人物 " こそが、臭いを発信していて周囲の方々が、貴方の臭いと勘違いをしてしまった可能性もあると思います」
その可能性が低いことは分かりきっていた。入社してから誰とも絡んでいなければ、車両ではいつも1人だった。
膝の上で握りしめていた拳を解いた。爪の跡が白く残っている。
「そうですか、分かりました。お忙しい中ありがとうございました」
会計を待つ間も、人目が気になった。先生が「何もに臭いません」と言ってくれたのに、中々信じられなかった。
今日を含めた1ヶ月間、一体なんだったのだろう。
いくら考えたって答えは見つからず、ただ診断結果の紙を鞄にしまい、自宅へと向かった。
靴を玄関の前で脱ぎ、綺麗に整えて、自分が今から歩く廊下を除菌シートで念入りに拭き取りながら、キッチンへと向かった。
穴からは、瞳が今日は向き出されていなく、珍しいな、なんて漠然と思っていた。
「すいませーん皮膚科の診断結果なんですけど」
俺の問いかけに、隣の部屋の彼女は答えなかった。
もう一度、声を掛けてみよう。
「きこえますか?というか、今出掛けています?」
出掛けているのなら、返事が出来なくて当然か。しかし、彼女がこの1ヶ月間家を出たことはなかった。食事はどうしているのか、と質問を問いかけると、配達を、お願いしていると言っていた。
まあ、彼女だって気晴らしに外にも出たりするだろう。ずっと家の中に居たら、空気もきっと悪くなる。
そう思った矢先に、やっと穴の先から、か細い声が降り注いだ。
「…神城さん」
「あ、居たのですね、良かったです。診断結果なのですが、」
俺が話ている最中に彼女は、口を挟んだ。
「そんな事、今はどうでもいいんです。それよりも…私の質問に答えてください」
彼女は一拍も置かず、俺への反応を託している訳でもなく、ただ淡々と次の言葉を口にする。
「私の……、私の…性別ってどちらに見えていましたか?」




