潮の記憶
潮の記憶
**第一章 寿司屋との出会い**
酢飯の香りが鼻をくすぐると、洋一の胸は自然に躍った。寿司への愛着は子供の頃から変わらない。回転寿司から高級店まで、機会があれば迷わず足を向ける。ただし、そのことと海は別だった。広がる水面を目にすると、胸の奥がざわつき、身体が緊張する。理由は自分でもはっきりとはわからない。幼少期、親に連れられて海に行った時、目の前に波が広がるのを見たとたん、「おうちにかえる」と言い出してきかなかったらしい。本人には記憶がないが、その感覚はずっと残っていた。まるで身体の奥深くに刻み込まれた記憶のように、潮の匂いや波音を想像するだけで、説明のつかない不安が湧き上がるのだった。
職場の同僚たちは、洋一の寿司好きをよく知っていた。歓送迎会の店選びでは必ず寿司屋を推し、「また寿司かよ」と笑われることも多い。けれど彼らには、洋一が海を避けていることまでは知られていない。家族旅行の話題が出ても、自然と山や温泉の話にそらしてしまう癖があった。
ある土曜日の午後、洋一はいつものようにリビングのソファで雑誌を読んでいた。妻は台所で夕食の支度をしており、息子は宿題に取り組んでいる。静かな午後の時間が流れる中、手にしたグルメ雑誌のページをゆっくりとめくっていく。地方の名店特集、新しいレストランの紹介、季節の食材を使った料理法。どれも興味深い内容だったが、老舗寿司屋「田中」を特集したページに差し掛かった時、洋一の手が止まった。
そこには、五十年ほど前の白黒写真が載っていた。カウンターの奥に立つ板前の男の姿。真剣な表情で寿司を握る職人の横顔。洋一は息をのんだ。顔が、自分と瓜二つだったのだ。目鼻立ちの角度、口元の微かな癖、髪の生え際の輪郭──すべてが重なった。古い写真で画質も粗いはずなのに、見れば見るほど同じ顔に思えた。まるで自分が過去にタイムスリップして、そこに立っているかのような錯覚に陥る。
「どうしたの?」
妻の声が聞こえたが、洋一は写真から目を離すことができなかった。手に持つ雑誌が微かに震えている。これは偶然なのだろうか。世の中には似た顔の人が三人いるという話もあるが、ここまで似ているものだろうか。
翌日、洋一は雑誌を手に家族とともに田中を訪れた。電車に揺られながら、何度もその写真を見返す。見るたびに新たな類似点を発見し、不思議さが増していく。電車の窓に映る自分の顔と、雑誌の写真を見比べてみても、やはり驚くほどよく似ていた。駅から歩いて十分ほど。住宅街の細い路地を抜けると、古びた木造の建物が現れた。格子戸にかかった藍色の暖簾は色あせているが、「田中」という文字が品よく染め抜かれている。建物自体に派手さはないが、長年この場所で地域の人々に愛され続けてきた歴史を感じさせる、どっしりとした佇まいだった。
入口の引き戸に手をかけると、中から話し声と笑い声が聞こえてくる。「いらっしゃいませ」という威勢のいい声と共に暖簾をくぐると、昼時の活気が店内を満たしていた。
「奥のお席でよろしければ」と案内されたのは、カウンターから少し離れた個室だった。落ち着いた雰囲気で、家族連れには居心地の良い空間だったが、洋一としてはカウンター越しに職人の姿をじっくり見たかった。それでも、初回の訪問としては十分だろう。
案内された席に座ると、酢飯と魚の香りが鼻をくすぐり、懐かしさにも似た感覚とともに胸の奥が静かに揺れる。不思議なことに、初めて訪れたはずの店なのに、どこか安心できる空気があった。ちらりとカウンターの方を見れば、六十前後の主人が黙々と寿司を握っている。手さばきに無駄がなく、包丁の音が規則正しく響く。客との会話も絶やさず、時折笑い声を立てながらも、手元への集中を緩めることはない。その姿を見ているだけで、洋一は自然と落ち着きを覚えた。
「何にしようか」
妻が息子と相談しながらメニューを眺めている。「お子様寿司があるのね」「僕、まぐろがいい」という会話が聞こえる中、洋一は店内の雰囲気に意識を向けていた。照明の具合、壁の木目、天井から落ちる淡い光。すべてが温かく、時間がゆっくり流れているような感覚。初めて訪れたはずの店なのに、どこか知っている感覚。懐かしさと不思議さが入り混じった居心地の良さを、洋一は確かに感じていた。
注文した寿司が運ばれてきた。洋一は箸を取り、一貫目を口に運ぶ。酢飯の温度は人肌ほどで、魚の締まり具合も絶妙。口の中でほぐれる食感と、舌の上に広がる旨味──一瞬でその技術の高さを理解する。自然に「うまい」と言葉が出た。息子も目を輝かせながら「おいしい!」と声を上げ、妻は満足そうに微笑んでいる。
だが洋一の注意は、寿司の味以上に店全体の空気に向かっていた。カウンターから聞こえる職人の声、客同士の笑い声、包丁がまな板を叩く音。これらすべてが織りなす空間の音楽のようなものに、深い安らぎを感じている。まるで自分がこの店の一部であるかのような、不思議な一体感があった。
食後、会計を待つ間、洋一は店内をゆっくりと見渡した。棚に並ぶ古い陶器、壁に掛けられた書や絵、カウンターの奥で光る冷蔵ケース。五十年前の写真で見た光景と、現在の店内が重なり合う。設備は新しくなっているが、基本的な構造や雰囲気は変わっていないのだろう。触れることはできないが、時間の層が幾重にも重なり、過去と現在がゆっくりと呼吸しているような気がした。
帰宅途中の電車の中で、洋一は再び雑誌の写真を見つめた。あの板前の顔、店内の空気、包丁の音。すべてが心の中で響いている。なぜかはわからないが、確かに何かが動き始めていることを感じるのだった。まるで長い間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚めようとしているような予感があった。
**第二章 再訪と告白**
数日後、洋一は再び田中を訪れた。前回は家族連れで昼の混雑の中にいたため、主人と落ち着いた話をする機会がなかった。今回は一人で、少し遅めの昼時を狙って店に向かう。平日の午後ということもあり、前回よりも静かな店内に足を踏み入れることになった。入り口の格子戸を押すと、酢飯と魚の香りが柔らかく迎え入れる。暖簾の奥を覗くと、主人が一人でカウンターに立ち、黙々と仕込みをしていた。客は年配の男性が一人だけ。静かな時間が流れている中、洋一の足音が床に響く。
六十前後の主人は、洋一の姿を認めると軽く会釈をした。細かい皺が刻まれた顔には人生の重みを感じさせる落ち着きがあり、職人として積み重ねてきた年月が表情に現れている。「いらっしゃいませ。お一人様ですか」という声には、温かみがあった。
洋一がカウンター席に座ると、主人がふと顔を上げた。その瞬間、包丁を持つ手がわずかに止まる。洋一と目が合うと、主人の表情に微かな戸惑いが浮かんだ。まるで記憶の奥から何かが蘇りかけているような、困惑を含んだ視線。眉がわずかにひそめられ、首をかすかに傾げるような仕草も見せた。しかし次の瞬間には職人らしい穏やかな表情に戻り、何事もなかったかのように仕事を続ける。
「いらっしゃいませ」
声には温かみがあったが、どこかためらいを含んでいた。まるで何か言いたいことがあるが、言葉にできずにいるような雰囲気。洋一はゆっくりと腰を下ろしながら、主人の様子を観察していた。
カウンターは静かで、包丁がまな板を叩く音と、握る時のシャリの音だけが心地よく響いている。手元を照らす照明が寿司ネタを淡く照らし、木の床に落ちる影が微かに揺れている。目を閉じれば、前回感じた不思議な居心地の良さが蘇る。まるで時間がゆっくり流れ、過去と現在が重なり合う特別な空間にいるような感覚だった。
主人は仕込みを続けながらも、時折手を止めては洋一の横顔を盗み見るような素振りを見せた。その視線には微かに困惑があり、同時にどこか懐かしさのような感情も混じっているように見えた。まるで昔どこかで会ったことがあるような、そんな既視感を抱いているのかもしれない。
洋一も似たような気持ちだった。この人を知っている、どこかで会ったことがある──そんな感覚が湧き上がってくる。だが、実際に面識があるはずはない。
しばらく無言の時間が続いた後、洋一は意を決して口を開いた。心臓の鼓動が少し早くなっているのを感じながら、鞄から雑誌を取り出す。
「先日、雑誌を見てはじめてこちらに来ました。実は…この写真に写っている方が、私とそっくりで・・・」
雑誌のページを開き、五十年前の白黒写真を主人に向けた。写真に写る板前の男性は、真剣な表情で寿司を握っている。光と影のコントラストが印象的で、年輪のように深みのある表情を作り出していた。時代を感じさせる服装と髪型だが、顔立ちは確かに洋一とよく似ている。
主人は息を一度深く呑み、やがて穏やかな声で口を開いた。
「その写真の男性は…私の父です…でもそれから何年か経った頃、趣味の海釣りに出かけたまま帰ってきませんでした。」
洋一は息を呑んだ。やはり偶然とは思えない。五十年前の写真の人物と、目の前の自分の顔がここまで重なるということが。血のつながりはないはずなのに、鏡写しのような不思議な一致。世の中にはこんなことがあるものなのだろうか。
主人は、続けて話した。
「その後この店は弟子の板前が続けてくれました。私が成人してから彼に弟子入りし、しばらくして私が店を継ぐことになりました。申し遅れました、私は田中文雄と申します。私の中では父の顔と言えばこの写真の顔なんです。まだ幼かったのでそれ以前の父の顔はあまり記憶にはありません。だからこの写真は私にはとても大切な写真なんです」
文雄の声には、深い感慨が込められていた。父親への思い、そして目の前の不思議な出会いへの戸惑い。様々な感情が混じり合った複雑な表情を浮かべている。
洋一は視線を写真に戻した。確かに目の前の文雄と写真の人物──文雄の父親──の間にも似た部分がある。そして自分も、なぜかその系譜に連なるような顔をしている。説明はつかない。ただ、確かに何かがつながっているという直感だけがあった。
文雄は一呼吸置き、ためらいがちに言った。
「もしよろしければ、・・・母に・・・私の母に会ってはもらえないでしょうか?」洋一は文雄の目を見つめ、そこに宿る真摯な気持ちを感じ取った。
「わかりました」
洋一は静かに頷いた。自分でも理由はわからないが、自分はそうすべきなのではないかという気がしたのだった。
店を出ると、夕方の風が顔に触れた。西日が街並みを染め、街灯が淡く道を照らし始めている。通りの影がゆらゆら揺れ、日常の喧騒が徐々に静まりつつある時間帯。洋一は歩きながら考えた。田中の店、その香り、写真の顔、文雄の表情。すべてが微かにずれながらも、確かに繋がっている感覚。説明はできない。それでも、運命的な何かが動き始めているという予感が、静かに胸の奥で脈打っていた。
**第三章 記憶の影**
田中からの帰り道、洋一の胸の奥には奇妙な重さが残っていた。文雄から母に会ってほしいと頼まれたあの一言が、心のどこかで反響し続けている。特に断る理由はない。むしろ、なぜかその申し出に強い関心を抱いていた。だが、なぜ会うのか、会って何を話すのか、そもそもこの不思議な縁は何を意味するのか──考えようとすると、どうしても言葉にならない感覚が彼を包むのだった。
夜道を歩く足取りは自然とゆっくりになった。いつもなら家路を急ぐ時間帯なのに、今日は歩くことで頭を整理したい気分だった。秋が深まった川沿いの道を選んで歩く。川面に映る街灯の光が揺れ、遠くで虫の声が鳴いている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った住宅街を抜けながら、洋一は自分の生い立ちについて考えていた。
職場での洋一は大の寿司好きとして有名だった。歓迎会などのイベントがあり、リクエストを求められると決まって寿司屋を推薦した。けれど同僚たちは知らない。洋一が海水浴や海釣りの話題になると、いつもそれとなくその話題を避けていることを。家族旅行の相談でも、「今年は山がいいな」「温泉でゆっくりしよう」と、自然に海から遠ざかる提案をしてしまうことを。魚は愛せても、海には近づきたくない──この矛盾について、洋一自身も長い間答えを見つけられずにいた。
ふと、子供の頃のことを思い出す。
幼い頃から魚は好きだった。焼き魚や煮魚も好きだったが、中でも寿司は特別だった。初めて食べた寿司の味が忘れられないのかも知れない。
しかしその一方で「海」だけは、なぜか遠ざけてきた。川や湖は平気なのに、海だけは違う。広大な水の広がりを前にすると、言葉では説明できない何かが押し寄せてくる。
はじめて家族に連れられて海に行った日のことを、洋一は親から何度も聞かされた。三歳か四歳の頃だったらしい。「おさかなさんのところへいこうね」と言われ、胸を躍らせて出かけたはずだった。しかし灰色の海原を目の前にした瞬間、なぜか「おうちにかえる」と言って聞かなかったようだ。帰宅してから、母が「せっかくだったのに」と父に呟いているのを耳にした記憶だけがぼんやりと残っている。「あの子、海が怖いのかしら」という心配そうな声も。以来、家族で出かけるときは山や遊園地に行くことが増え、海に近づく機会はほとんどなかった。両親も洋一の気持ちを察して、無理に海へ連れて行こうとはしなかった。
なぜ自分は海を苦手に感じるのか。理由は今もよくわからない。ただ、心の奥深くに「海は怖い場所だ」という感覚が根を下ろしているのだ。説明のつかない忌避感。まるで遺伝子レベルで刻み込まれた記憶のような、理屈を超えた感情だった。
文雄が語った「父親が海釣りに出たまま帰らなかった」という話が、その感覚とどこかで結びついているように思えてならない。血のつながりもないはずの人物の運命と、自分の幼少期から続く海への恐怖が、奇妙な糸で結ばれている──そんな考えは、はたから見ればおかしなものかもしれない。それでも洋一はその考えを頭から消し去ることができなかった。
家に帰ると、リビングでは妻と十歳の息子がテレビを見ていた。文雄が父親を亡くしたのも同じ年頃だろうか。動物番組を見ながら「すごいねー」と感嘆の声を上げている。いつもの日常の明るさが、洋一の胸に静かな安堵をもたらした。この平和な家庭、愛する家族、安定した日常。これらすべてが、自分にとって何より大切なものだった。
「お帰りなさい、夕飯にする?」
妻が振り返って微笑む。洋一は「そうだね、でもお昼が遅かったから少なめで」と答えながら、文雄との会話や母親に会う約束について話すべきかどうか迷った。けれど今は、この静かな家庭の時間をそのままにしておきたい気がした。
息子がテレビで海の生き物の特集を見ている。クジラやイルカ、色とりどりの魚たちが画面を泳いでいる。「お父さん、今度水族館に行こうよ」と言った時、洋一の胸に複雑な気持ちが湧いた。水族館は好きだ。魚たちを間近で見ることができるし、息子の喜ぶ顔も見られる。けれど同時に、そこには海の生き物たちがいる。海への複雑な気持ちが顔を出す瞬間でもある。
「そうだね、今度行こうか」
洋一は息子に微笑みかけながら答えた。息子の純粋な好奇心を大切にしたい。自分の理解できない感情で、息子の世界を狭めるようなことはしたくなかった。けれど、文雄の言葉が再びよみがえる。
「私の母に会ってはもらえないでしょうか?」
彼の母は、自分を見て何を思うのか。愛する夫を海で亡くし、それから五十年という長い時を生きてきた女性。息子と共に店を守り続けてきた人生。その目に、突然現れた不思議な来客はどう映るのか。驚くのか、困惑するのか、それとも何か別の感情を抱くのか。
洋一はテレビの音を背にしながら、ひとり静かに考え込んだ。偶然の一致と呼ぶにはあまりにも強い引力を感じる。まるで長い間眠っていた何かが目覚めようとしているような、運命的な力に導かれているような感覚。不安と好奇心が入り混じり、答えの出ないまま時間だけが過ぎていく。
夜更け、家族が寝静まった後、洋一は一人リビングに残って窓の外を眺めていた。星がいくつか見える静かな夜。明日からまた普通の日常が続いていく。けれど、その日常の中に、新しい物語の糸が編み込まれようとしている。
やがて眠りにつく前に、洋一は覚悟を決めた。
──彼の母親に会おう。
それがどんな意味を持つのか、どんな展開が待っているのかはわからない。けれど確かめるべき時が来たのだと、心のどこかで感じていた。自分の中にある海への恐怖、魚への愛着、そして今回の不思議な出会い。これらすべてが繋がる何かが、そこにあるような気がしてならなかった。
**第四章 邂逅**
数日後の午後、洋一は約束通り寿司屋の裏口から案内される形で、文雄の母が暮らす古い家を訪れることになった。場所は店から歩いてほど近い、街の中心から少し外れた静かな住宅地。昔ながらの日本家屋が並ぶ一角で、時の流れがゆっくりと進んでいるような落ち着いた雰囲気の場所だった。文雄に連れられて細い路地を歩きながら、洋一は周囲の風景を眺めた。瓦屋根の家々はところどころ色あせ、雨戸の木には時の流れを物語るような細かいひびが走っている。それでも手入れは行き届いており、住人たちの生活への愛着が感じられる街並みだった。
ただ、そのこと以上に彼の心を支配し、困惑させたのは彼自身の感覚についてだった。文雄に先導されつつ、次は右に曲がるのでは、などと文雄の歩く方向が読めるかのような気がしたのだ。「こちらになります」と古い造りの家の前で文雄が立ち止まった。しかし、洋一の目はその数件手前からその古い家を捉えていた。不安と好奇心からくる緊張感に懐かしさにも似た感覚が混ざり、心に広まるのを洋一は感じた。
門構えは質素だが品があり、小さな庭には季節の花が丁寧に植えられている。玄関先には古い傘立てや、使い込まれた下駄箱が置かれていた。文雄が呼び鈴を鳴らすと、中から「はーい」という穏やかな声が聞こえてくる。引き戸がゆっくりと開かれると、そこには小柄な老女が立っていた。背筋はやや丸まっているが、まだしっかりとした足取りで歩いている。白髪をきちんと結い上げ、清潔感のある服を身にまとった、品のある女性だった。
「お母さん、お客様をお連れしました」
文雄が穏やかに声をかける。老女──美代子は洋一の姿を認めると、一瞬表情を固くした。まるで何かに驚いたような、戸惑いを含んだ表情見せたが、すぐに笑顔を作り、「どうぞ、お上がりください」と丁寧に迎え入れてくれた。
玄関から続く廊下を歩きながら、洋一は家の中の雰囲気を感じ取っていた。畳の匂いが鼻をかすめ、古い木材の温もりが伝わってくる。障子越しに差し込む柔らかな午後の光が廊下を照らし、静寂の中でかすかに時計の秒針が響いている。長年大切に住み続けられてきた家の、そして洋一を暖かく迎え入れてくれるかのような独特の安らぎがあった。気がつくと、先ほどまでの緊張感が薄れ、落ち着きを取り戻すのを感じた。
案内されたのは奥の座敷だった。床の間には季節の花が活けられ、掛け軸には達筆な書が掛けられている。座布団が三つ、きちんと並べて用意されていた。美代子が「どうぞ」と勧める声には、来客への心遣いと同時に、微かな緊張も感じられた。文雄が「母さん、こちら洋一さん、店のあの古い写真を見てお寿司を食べに来てくれたんだよ」と改めて声をかけると、美代子はゆっくりと座布団に腰を下ろした。年齢を感じさせる深い皺が顔に刻まれているが、目元にははっきりとした光が宿っている。長い人生を通じて様々な出来事を経験し、それでも前向きに生きてきたことが、その表情から伝わってきた。
洋一が畳に膝をつき、軽く頭を下げて挨拶をすると、美代子の視線がゆっくりと彼の顔をとらえた。そして、洋一の顔をじっと見つめているうちに、その表情が徐々に変化していく。戸惑いを含んだように瞬きを繰り返し、やがてその表情は固まっていく。まるで時間が止まったかのように、美代子の動きが完全に静止した。長い、長い沈黙が座敷を支配した。時計の秒針の音だけが規則正しく刻まれ、外からは遠くで子供たちの遊ぶ声が微かに聞こえてくる。文雄も息を詰めるようにして、美代子の様子を見守っている。
やがて美代子の瞳がわずかに揺れ始めた。その奥に、深い感情の波が立ち上がってくるのが見て取れる。驚き、困惑、そして何か懐かしいものに触れたような、複雑な感情が混じり合っている。そして次第に、その瞳が薄く潤みを帯びていく。
「……あなた……」
小さな、震える声が漏れた。まるで長い間探していた何かをついに見つけたような、あるいは失ったものが突然戻ってきたような、そんな響きを含んだ声だった。震える手がゆっくりと洋一の方へと伸ばされる。ためらいがちに、そっとその手を包み込むように触れた。
皺だらけの小さな掌の温もりが、洋一の手にじんわりと伝わった。その瞬間、洋一の胸の奥で何かが大きく動いた。言葉では説明できない感情の波が押し寄せてくる。初めて会ったはずの人なのに、なぜかずっと昔から知っているかのような感覚。まるで長い間離ればなれだった家族との再会のような、深い安堵と懐かしさが心を満たした。
洋一は言葉を失った。何を言えばいいのかわからない。美代子の手の温もり、その瞳に宿る深い感情、文雄を見つめる視線。すべてが現実とは思えないほど不思議で、同時に運命的な必然性を感じさせた。説明できる理由などどこにもない、それでも確かに、この出会いには深い意味があるのだと感じられた。
次の瞬間、洋一自身にとっても予想外のことが起きた。
自分でも驚く言葉が、まるで自然に湧き上がるように彼の口から発せられたのだ。
「……ただいま……」