あなたが『当たり前だ』と仰ったので。
「君はお嬢様だから、世の中の“当たり前”を知らないのだよ」
婚約者のダニエルは不機嫌そうに眉根を寄せた。
しかし、口元には引き攣った笑みを浮かべており、何ともチグハグな表情をしている。
彼の隣には明るい髪色をした小柄な女性が心配そうに彼を見つめていた。
クリッとした大きな瞳に艷やかな唇。彼女の容姿こそ世間でいう“可愛らしい”とか、“庇護欲をそそる”というものなのだろう。
それに比べれば私の容姿は正反対といってもいい。
切れ長の瞳に、スラリとした高身長。胸はそれなりだとは思うけれど、目の前の彼女ほど丸みを帯びてはいない。
私は変えようのない現実に、小さく息を吐いた。
「婚約者がいるのに、他の女性と二人きりで外出するのが世間の当たり前なの?」
次の夜会で着るドレスを新調するため、行きつけの店に来たのだが、まさか自分の婚約者が他の女性と一緒にいる場面に出くわすとは微塵も思っていなかった。
普段は屋敷に呼んでいるのだけれど、気分転換を兼ねて外出することにしたのだ。それに、そもそも婚約者がドレスを贈ってくれていれば、こんなギリギリに新調する必要もなかったのに。
「彼女は学園の同級生だ。一度もドレスを選んだことがないというから、友人として助けてあげただけだよ。困っている友人を助けることは当たり前だろう? まあ、君は学園に通っていないからわからないだろうけど」
ダニエルはフンと鼻で笑った。
物心つく頃には決まっていた婚約者という存在。貴族の間ではさほど珍しくもない。
私とダニエルの婚約も家同士の決めたものだった。
公爵家に生まれた私には兄がいて、彼が家督を継ぐため、私は侯爵家長男のダニエルに嫁ぎ、侯爵夫人となる。
そのためにたくさんの勉強をしてきた。
それこそ幼少期から決まっていたため、必要な知識はすべて修得済みで学園に入る必要もなかった。
あとはダニエルの卒業を待って、結婚するだけだったのだけれど――
「彼女は学年一優秀なんだ」
隣の彼女を蕩けるような瞳で見つめる。彼女のほうも満面の笑みを浮かべて、それに応えた。
私という存在を忘れてしまったかのように見つめ合う二人に心の中で大きな溜め息を吐いた。
「だから、何ですの?」
私が問うと、ダニエルはもう隠しもせずに大きな息を吐き出した。
「そんなこともわからないのか。これだから嫌なんだよ。まあいい機会だから、ハッキリ言っておく。家同士が決めた婚約だから君とは結婚する。ただ――君は学園に入ることもできないくらい頭が悪いのだから、侯爵夫人となる君には補佐が必要だろう? それを彼女に頼もうと思っている」
初めから合わないと思っていた。けれど、少しでも距離を縮めようと努力してきた。
しかし、そんな私の努力は彼にはまったく届いていなかった。彼は私を見ようともしてくれなかった。
少しでも見てくれていれば、私がどうして学園に通っていないのかも自然とわかるはずなのに。
「本来ならルドルフと共に学園に入る予定だっただろう? しかし、君は公爵令嬢という立場を利用して学園に入らなかった。お嬢様だからといって甘やかされて育ったから学園に入ることもできなかったのだよ」
ルドルフはダニエルの弟で侯爵家次男。私と同じ歳でダニエルと距離を縮めようと奮闘する私をいつも応援してくれていた。
(ルディなら私が学園に入らなかった理由を知っているわよ)
ここまで来ると説明しようとも思わない。
「君はお飾りの侯爵夫人でいてくれていいよ」
(もうバカでいいか……)
私はにっこりと微笑んで、その場を後にした。
◇
「あのバカ兄貴、どうしようもねえな」
「こらこら、お口が悪いわよ。侯爵令息様」
「だってさ……ひどすぎるだろ?」
一通り愚痴って気持ちが収まったからか、それともルディが共感してくれたからか、思わず笑みが溢れてしまった。
ルディは時々公爵家に来て、すでに学園を卒業し、公爵家の仕事をしている兄に従事して学んでいる。
今日も来ており、その休憩中に私の愚痴を聞いてくれたのだ。
「もう、いいの。私ね、本当にバカになってやろうかと思って」
「はあ?」
「あのね、こんなのはどうかしら?」
私がこっそり耳打ちすると、ルディはにやりと口元を緩めた。
「いいね、それ。その役、俺にやらせてくれよ」
「え……? いいの?」
「もちろん! むしろ俺が適任じゃん?」
「でも……それだとルディに迷惑が――」
「あー、もう! 俺がやるって言ってんだから、任せとけばいいんだよ!」
ルディは私の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「わかったから、それやめて! 髪が乱れる!」
「わかれば、よろしい」
そう言って、ルディはニカッと笑った。
◇
夜会の日。
結局、ダニエルは「彼女には相手がいない。友人である僕が助けるのは当たり前だろう?」といい、私を迎えに来なかった。
しかも、婚約者がエスコートできないのだから、君は来る必要はないという理由でドレスを贈らなかったらしい。
(まあ、そんな理屈、バカだから理解できませんけどねー)
きらびやかなホールに楽団の生演奏が響き渡り、優雅に舞う人々の中、私は会場に一歩足を踏み入れる。
「なっ……セラフィーナ! 何で君がここに? 来るなと言ったはずだが?」
眉間の皺をいつもより深くしたダニエルが私に近づいてくる。そして、私の隣にいる人物を見ると更に溝を深めた。
「ルドルフ、お前……」
「やあ、兄上」
「セラフィーナ。どういうつもりだ?」
ルディを視界から排除するようにして、ダニエルは私に詰め寄った。
「御機嫌ようダニエル様。どういうつもりも何も……彼には相手がいないので、未来の義姉として私が助けるのは当たり前でしょう?」
「は? そんなわけ――」
「このドレスも、彼が選んでくださったの」
私はルディの瞳と同じ色のドレスの裾をちょんとつまんで見せた。
「え? 二人で選びに行ったのか?」
「ええ。彼は未来の義弟だもの。一度もドレスを選んであげたことがないというから、義姉として助けてあげただけよ。困っている人を助けることは当たり前なのでしょう? まあ、私は学園に通っていないからわからないけれど」
私が口角を上げてみせると、ダニエルは唇を噛み締めた。
「やっぱり君はバカなんだな」
ダニエルは額に手を当てると盛大に溜め息を吐いた。そんな姿に私は首を傾げてみせた。
「そうね……私はバカだけど、彼は学園一優秀よ」
隣にいるルディを蕩けるような瞳で見つめる。ルディも満面の笑みを浮かべて、それに応えた。
「だから、何だ? 君は私の婚約者だぞ!」
ダニエルは苛立ちを隠しもせず、私たちに大きな声を上げた。今にも飛びかかってきそうなほどの剣幕に驚いていると、私の視界がドレスと同じ色の背中に遮られた。
「そんなこともわからないのか、兄上は。まあ、いい機会だから、ハッキリ言っておくよ。家同士が決めた婚約だからと諦めていたけど、もう我慢しない。俺がセラフィーナと結婚する。学園一優秀な俺がセラフィーナと結婚すれば、補佐なんて必要ないだろ?」
「え……ルディ?」
途中から予定にない展開の連続で驚きっぱなしの私に、ルディはいつものようにニカッと笑ってみせた。
「俺はフィーのことがずっと好きだった。俺じゃ不満か?」
突然の告白に頭が真っ白になったけれど、自然と首を左右に振っていた。
「じゃ、決まりな!」
ルンルンで私の手を取ったルディをダニエルが呼び止めた。
「馬鹿な! そんなこと、父上が許すはずないだろう?」
すでに会場を出ようとダニエルに背を向けていたルディは面倒くさそうに振り返った。
「あーそれね。今回のことで父上も覚悟を決めたようだよ。そりゃあ、婚約者を蔑ろにして他の令嬢をエスコートしてるんだから当たり前だろ?」
ダニエルはその場に崩れ落ち、側にいたお相手の令嬢は彼に見切りをつけたようで、その場から逃げるように走り去った。
◇
「さっきの、あれは……お芝居よね?」
夜会からの帰り道。
蹄の音だけが響く馬車内の沈黙を破ると、目の前に座っていたルディがスンと真顔になった。
「芝居じゃないよ」
いつもふざけてばかりいるルディからは考えられないほど真剣な表情に胸がドキリと鳴る。
「侯爵夫人になるために一生懸命頑張ってるフィーを側で見ていて、どんどん好きになっていった。それと同時に何で兄貴の婚約者なんだって、すげえ嫉妬してた」
ずっと我慢していたのか、キュッと締められた襟元のボタンを外し緩める。
「でも、フィーの努力を無駄にはしたくなくて、俺は兄貴を支えながら、ずっとフィーの側にいられればいいかなって思ってたんだ。――あの日までは」
ルディはふぅと小さく息を漏らした。
「あの日、フィーに兄貴のことを聞いてから、詳しく調査したんだ」
「え……?」
「例の令嬢、田舎の男爵家出身でどうにかして高位貴族に嫁ぎたかったらしい。兄貴に取り入れば誰か紹介してもらえると思ってたんだろ。でも兄貴自身が熱を上げちまった」
「そうだったの……」
彼女も学年一になるほど一生懸命勉強して、自分の願望を叶えようとしていたのだ。
「俺にとってはまたとないチャンスだったわけだ」
「へ……?」
意地悪そうに片方の口角を上げたルディは徐に腰を上げると、私の隣へ移動しドカリと座った。
「すでにフィーの両親に許可も得てる。そんなこと、当たり前だろ? 安心して俺の元に嫁いで来い」
「えぇ……」
――すでに根回しはできている、と?
「でろっでろに甘やかす準備はできてるからな。覚悟しろよ、未来の侯爵夫人」
耳元で囁かれ、慣れない溺愛が始まりそうな予感に心臓がバクバクと大きな音を立てた。
「お手柔らかにお願いします、未来の侯爵様」
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【連載版】あなたが『当たり前だ』と仰ったので。
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