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バズる命、バズらない命

作者: 月読二兎

「はい、ルナちゃん、こっち向いて。そう、いい子」


 ミカはスマートフォンの画面を覗き込みながら、優しく声をかける。ファインダーの向こうでは、生後三ヶ月ほどの白猫が、おもちゃの羽毛にじゃれついていた。その子は事故で左目を失い、今は縫合された瞼が痛々しく閉じられている。けれど、残された右目は大きく澄んだサファイアブルーで、見る者の庇護欲を掻き立てるには十分すぎるほどの力を持っていた。


 ミカは連写モードで数十枚の写真を撮ると、ベストショットを一枚選び、慣れた手つきで補正アプリを立ち上げた。彩度を少し上げ、背景をぼかし、ルナの青い瞳にキラリと光のハイライトを追加する。完璧。これなら、きっと人々の心に届く。


『片目の天使、ルナちゃん。こんなに小さな体で、大きな試練を乗り越えました。彼女の未来を、あなたの愛で照らしてくれませんか? プロフィールのリンクから、彼女の医療費とシェルター維持のためのご寄付をお願いします。#天使のウィンク #猫のいる暮らし #保護猫 #エンジェルポーズ』


 投稿ボタンを押すと、すぐに「いいね!」の通知が鳴り始めた。コメント欄には「可愛い!」「なんて健気なの」「絶対に幸せになってほしい」という言葉が溢れ、団体の寄付サイトへ誘導するリンクは、クリックされるたびにミカの達成感を満たしていった。


 ここは、動物保護団体「エンジェルポーズ」。ミカはその広報担当として、この世界で最も効果的な“命の救い方”を実践している。それは、共感を呼ぶストーリーを作り、SNSで拡散し、寄付という名の愛を集めること。彼女の信条は明確だった。


「可愛いは正義。そして正義は、お金になる」


 ミカの戦略は常に正しかった。エンジェルポーズのフォロワーは百万を超え、月々の寄付額は他の団体を圧倒していた。メディアはミカを「SNS時代の新しい博愛主義者」と持ち上げ、彼女自身もその評価を疑うことはなかった。自分がバズらせた動画や写真によって、実際に多くの犬や猫が新しい家族を見つけ、施設の運営は潤沢な資金で支えられているのだ。事実が、彼女の正しさを証明していた。


 ルナのキャンペーンは大成功を収めた。特に、ミカが編集した「ルナが初めてご飯を完食するまで」というドキュメンタリー風のショート動画は、数百万回再生を記録し、寄付金は目標額の三倍に達した。ミカは、事務所の壁に設置されたデジタルカウンターの数字が勢いよく跳ね上がっていくのを、シャンパンでも開けたい気分で眺めていた。


「ミカさん、さすがです」「今回のキャンペーンも神ってましたね」


 お洒落な同僚たちが、それぞれのデスクでノートパソコンを叩きながら称賛の声を上げる。白を基調としたクリーンなオフィス、ガラス張りの壁、そして天使の羽と肉球を組み合わせた可愛いロゴ。ここで働く誰もが、自分たちは正しいことをしているのだという輝かしい自負に満ちていた。ミカもその一人だった。救っているのは命だ。醜い現実から目を背け、絶望しているだけの人々とは違う。私たちは、行動している。


 そんな成功の余韻に浸っていたある日の午後、事件は起きた。


 通用口のブザーがけたたましく鳴り、モニターに映し出されたのは、顔を隠した人物が大きなプラスチックの檻を置いて走り去る姿だった。職員の一人が恐る恐る扉を開け、その檻を事務所に運び込む。途端に、鼻を突くような獣の匂いと、微かなアンモニア臭が清潔なオフィスに広がった。


「うわ……何これ……」


 同僚の一人が、顔をしかめて後ずさる。ミカも眉をひそめながら、その檻を覗き込んだ。


 中にいたのは、皮膚病で毛が抜け落ちたタヌキ、顔が潰れたような老犬、そして外来種の巨大なヒキガエル。ミカたちが“商品”として扱ってきた、清潔で管理の行き届いた生き物たちとは、あまりにもかけ離れた存在だった。


 オフィスの空気が、一瞬にして凍りついた。誰もが、同じことを考えていた。


「こんな子たち、どうするの……?」


 誰かが呟いたその言葉は、彼らの本音そのものだった。SNSに載せられるだろうか? この子たちのために、寄付金は集まるだろうか? いや、無理だ。むしろ、団体のクリーンなイメージが損なわれる。フォロワーは、希望に満ちた美しい物語を期待しているのであって、こんな管理の行き届いていない現実そのものを見たいわけではない。


「……とりあえず、奥の隔離室に運びましょう」


 口を開いたのは、ミカだった。彼女の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。


「獣医の田中先生には診てもらうけど、公式にアナウンスするのは待って。まずはルナちゃんのキャンペーン成功報告が先よ」


 ミカは自分に言い聞かせるように言葉を続けた。「私たちの使命は、より多くの人々の共感を得られる命を優先的に救うこと。リソースは有限なんだから、選択と集中は当然よ」


 それは、冷徹な経営判断のようでもあり、必死の自己正当化のようでもあった。


 同僚たちは、その言葉に安堵したように頷き、忌まわしいものに触るかのようにして檻を運び出していく。ミカは、先ほどまで見ていたルナの愛らしい写真と、今しがた見たタヌキの爛れた皮膚を脳内で比べ、ぞっとした。世界は、こんなにも不公平にできている。そして自分は、その不公平さを利用して「善意」というビジネスを成立させているのだ。一瞬よぎった自己嫌悪を、ミカはすぐに打ち消した。感傷に浸っている暇はない。来週には、ルナのキャンペーン成功を祝うオンライン感謝祭が控えているのだ。


 一週間後、オンライン感謝祭の生配信が始まった。


 特設されたスタジオは、パステルカラーの花と風船で飾り付けられ、主役であるルナは、フリルのついた首輪をつけてミカの膝の上で大人しくしていた。ミカは完璧な笑顔をカメラに向け、司会者の質問に淀みなく答えていく。


「ミカさんの情熱が、ルナちゃんの命を救ったんですね」

「いいえ、私一人の力ではありません。この配信を見てくださっている、エンジェルポーズを支援してくださる全ての“エンジェル”の皆様の愛のおかげです」


 練習通りの完璧な応答。コメント欄は「ミカさんありがとう!」「ルナちゃん、幸せになってね!」「これからも応援します!」という温かい言葉で埋め尽くされている。寄付金のカウンターも、リアルタイムで順調に数字を伸ばしていた。これだ。これが私の仕事。これが、世界を良くする方法。


 配信がクライマックスに差し掛かり、ミカが支援者への感謝のスピーチを始めた、その時だった。


「皆様の温かいご支援がなければ、私たちは一匹の命も救うことはできません。皆様こそが、声なき動物たちの希望の光なので——」


 ミカの背後にある大型スクリーンに、本来であればルな愛らしいダイジェスト映像が流れるはずだった。しかし、そこに映し出されたのは、まったく別の光景だった。


 薄暗く、コンクリートが剥き出しの殺風景な部屋。三つの汚れた檻。

 その一つの中で、毛の抜けたタヌキが、助けを求めるように前足で必死に金網を引っ掻いている。

 別の檻では、老犬が苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、その瞳には光がなかった。

 ヒキガエルは、ただ壁の一点を見つめて微動だにしない。


 それは、一週間前に運び込まれた、あの隔離室のライブ映像だった。技術スタッフの単純な、しかし致命的なミスだった。


 映像は、ほんの五秒ほどで切り替わった。しかし、その五秒は永遠にも感じられた。


 スタジオの空気が凍りつく。ミカの笑顔は顔に張り付いたまま固まり、頭の中は真っ白になった。


 コメント欄の空気が、一変した。


『え?』

『今の何?』

『あの部屋ひどくない?』

『え、管理体制どうなってんの?』

『表のキラキラした施設と全然違う…落差がすごい』

『これが現実?ショック…衛生的に大丈夫なの?』

『裏ではこんな杜撰な管理なのか』

『隠してたってこと?』

『騙された気分。寄付金、こんな施設の維持費に使われてるの?』

『#エンジェルポーズの裏側』


 滝のように流れる非難の言葉が、ミカの視界を埋め尽くす。さっきまでの温かい賞賛は、瞬時にして燃え盛る怒りと失望の炎に変わっていた。彼らが怒っているのは、動物の見た目ではない。自分たちの善意が、信じていたクリーンな理想とはかけ離れた、杜撰な現実に使われているという裏切りに対してだった。ミカの膝の上で、ルナが不安そうに「ミャア」と鳴いた。その声が、やけに遠く聞こえた。


 配信は、謝罪の言葉もないまま、強制的に終了された。


 エンジェルポーズの楽園は、その日、崩壊した。


 翌日から、団体の電話は鳴り止まず、メールサーバーはパンクした。SNSのフォロワーは面白いように減っていき、スポンサー契約の解除を告げる連絡が次々と舞い込んだ。「裏切り者」「偽善者」というレッテルが貼られ、ミカたちの活動はすべてが欺瞞だったと断罪された。あれほど熱狂的にルナを応援していた人々は、今や最も辛辣な批評家と化していた。


 がらんとしたオフィスで、ミカは呆然とパソコンの画面を見つめていた。そこには、数日前に自分が投稿したルナのキャンペーン成功を喜ぶ記事と、その下に連なるおびただしい数の罵詈雑言が並んでいた。


「……ミカくん」


 背後から、静かな声がした。振り返ると、年配の獣医である田中先生が立っていた。彼は、流行りやSNSには疎いが、どんな動物にも分け隔てなく接する、この団体で唯一、ミカが少しだけ苦手としていた人物だった。


「君は、自分のやったことが間違いだったと思うかね」


 田中の問いに、ミカは答えられなかった。間違いだったのか? でも、事実として多くの命を救ってきたはずだ。資金がなければ、ルナだって助からなかった。


「……選択と集中は、必要です。すべての命を救うなんて、無理だから」


 かろうじて絞り出した声は、ひどく震えていた。


 田中は、悲しそうに首を振った。「あの映像に映っていた老犬ね。カルテを見たら、十年前はうちの団体が保護した子だったよ。当時はフワフワの毛が自慢の人気者でね、すぐに新しい家族が見つかった。でも、歳をとって、病気になって、顔が崩れて……捨てられたんだ。そして、君たちの前にもう一度現れた」


 ミカは息を呑んだ。


「君が無視したあの老犬も、昔はルナちゃんみたいに可愛かったんだよ。君が救っていたのは、本当に“命”だったのかい? それとも、人々からの“いいね!”と、寄付金のカウンターが上がるのを見て満足する、君自身の気持ちだったんじゃないのかね」


 その言葉は、鋭い刃物のようにミカの胸を貫いた。

 そうだ。自分はいつからか、命そのものではなく、命に付随する「物語」と「共感」だけを見ていた。可愛いという価値。可哀想という感情。それらを刺激し、効率よくマネタイズすることに熱中していた。あのタヌキの苦しみも、老犬が重ねてきた時間も、ヒキガエルの静かな生命力も、自分の「ビジネス」の邪魔になるからと、見ないふりをした。


 その時、ミカのスマートフォンの通知が鳴った。見てみると、ライバル関係にあった別の動物保護団体のアカウントが、こんな投稿をしていた。


『どんな子にも、清潔で安全な環境を。#エンジェルポーズ が光を当てなかった命に、私たちは責任を持ちます』


 その投稿には、あの薄汚れた隔離室から救出されたタヌキや老犬の写真が添えられていた。もちろん、プロのカメラマンが絶妙なライティングで撮影し、「劣悪な環境から救われた悲劇のヒーロー」として演出された写真だ。コメント欄には、「待ってました!」「本物の愛護団体だ!」「寄付します!」という言葉が熱狂的に並んでいる。


 ああ、何も変わらない。

 舞台が変わっただけ。役者が入れ替わっただけだ。

 消費される「物語」が、「可愛い天使」から「劣悪な環境に耐えた健気な子」に変わっただけ。人々が求めているのは、結局、自分たちが安心して酔える、完璧にパッケージされた「善意の物語」なのだ。


 ミカは静かに立ち上がると、自分のデスクに向かった。パソコンを開き、新規のワードファイルを作成する。そして、指が自然に動き出した。


『一身上の都合により、退職いたします』


 画面に表示されたその一行を、ミカは虚ろな目で見つめていた。外では、また新しい「正義」が、たくさんの「いいね!」を集め始めている。その喧騒は、もう彼女の心には届かなかった。


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