1 夜の忍者
ビルの屋上には冷たい風が吹いていた。月の出ていない空に星が瞬く。
日付が変わろうとする時刻、隼人はそこにいた。
県立丸葉津高校忍者科二年二組、出席番号十一番の武田隼人は――忍者だ。
ビルの柵に立って地上を見おろす隼人は全身黒ずくめだった。
忍者スーツ。体にぴったりした薄手の特殊素材で作られた戦闘服だ。ある程度の防刃性能を備え、伸縮性に富むので激しい動きにも邪魔をしないつや消し仕上げの全身タイツ。つやありもオプションである。
軽い忍者ブーツと手首までを覆う軽量でいて頑丈な手甲、スーツと同じ素材のコンバットベスト、ニットキャップに模した忍者ヘルメット、鼻から下を隠すシンプルな面頬は黒いマスクに見えなくもない。
地上には四人の人影があった。男三人に女がひとり。男たちがなにやらわめいているようだが、六階建てのビルの屋上にはその声ははっきりとは届かなかった。忍者といえどもみながみな耳がいいわけではない。
忍法地獄耳を使えば聞き取ることは可能だろう。指向性マイクのスイッチを入れればいいのだ。
「聞いた、隼人くん?」
今までひとりだったはずの屋上に、いつの間にかひとつの人影があった。一瞬びくりと体を震わせた隼人だったが、地上から視線を離さず、
「日菜子か」
なにごともなかったかのように落ち着いた声で返した。
小滝日菜子もまた丸葉津高校に通う忍者――くノ一だ。アスリート然としたがっしりした体つきに、身長は自称百六十九センチ、実際は百七十センチの、女子としては長身で胸の大きいくノ一が纏う忍者スーツはつやありだった。
「新しい任務のことだな」
「そう」
日菜子は隼人からやや離れた転落防止用の柵にふわりと乗ると、地上をのぞき込んだ。
「聞いたさ」
「どう思う?」
日菜子の問いに隼人はわずかに間を置き、
「なにも思わない。俺たち忍びは任務について感情を覚えてはならないんだ」
静かに答えた。
「教科書か」
日菜子がぼやいた時、地上の男三人が女に詰め寄った。
「いかん」
隼人は柵から宙に身を落とし、次の瞬間には壁を走っていた。
忍法壁走り! これは忍者ならほとんどの者が身につける技だ。パッシブスキルともいうべきもので、呪文や印を組む必要がない。歩くこともできる。
三階ほどの高さまで走ると壁を軽く蹴った。そのまま落下する。音もなく地上のアスファルトへ降りて片膝をついた。すぐそばにいる男たちは誰も気づかない。やや遅れて日菜子も降りてきた。ビルに挟まれた薄暗い裏通りだ。
「とぼけんなよ! 俺は見たんだ!」
「バッグを調べさせてもらうぜ」
「見せるわけねぇだろ! 人を呼ぶぞ!」
女が甲高いが抑えた声で叫んだ。
男たちも女も若い。二十歳をいくらか出たくらいだろう。
どうも単純に男たちが女をさらおうとしているわけではないようだった。とりあえず隼人は制圧して事情を聞くことにした。日菜子にハンドサインを送ってうなずく。
「いててててて! な、なんだ、お前ら!」
あっという間に男たちはうつ伏せでアスファルトに横たえられ、腕を後ろにねじ上げられていた。隼人がふたりを、日菜子はひとりを押さえつけている。
「なにがあった」
隼人は声を低く変えて尋ねた。アメコミのコウモリヒーローのようだった。
「ああ!? なんでお前が痛ーい!」
隼人はちょっと力を加えただけだった。緩める。
「そ、その女が俺から財布をスリとったんだよ!」
「なに」
「痛ーい!」
「あ、ごめん、力が入った」
隼人は女に目を向けた。驚いた顔で茫然と突っ立っていた女は、はっと我に返って踵を返して走りだした。
日菜子が素早く立ち上がって追いかける。組み伏せられていた男の腕は後ろに回ったままだ。
忍法後ろ手縛り! 男の手首には結束バンドが巻かれていた。
すぐに日菜子は女の襟首を捕まえて戻ってきた。
「ちょっと、なにすんだよ! 離せ!」
じたばたする女が両膝をついた。日菜子は軽く押さえつけただけだ。女からトートバッグを奪う。
「勝手に見るんじゃねえよ!」
掴みかかってくる女の手を逆に掴むと、
「痛くしたくはないんだよね」
と日菜子は甲高い声で言った。腹話術のような声だった。声を変えたつもりだろうが、不気味だった。黒づくめの女が頭のてっぺんから出てくるような甲高い声でしゃべるのだ。
女はおとなしくなった。少し震えている。
日菜子はトートバッグの中をまさぐった。
「あ、これかな?」
甲高い声で言った日菜子が取り出したのは安っぽい二つ折りの財布だった。
「それはあたしンだよ!」
女が身を乗り出してきたが、日菜子がちらりと視線を向けるとおとなしくなった。
日菜子は財布を開いて中を調べる。すぐに取り出したのは、免許証だった。顔写真には顎ヒゲがある。男だ。隼人が押さえつけている男だった。
日菜子は免許証を隼人に向ける。夜目が利く忍者には薄暗くともよく見えた。
隼人はひとつうなずくと、男たちから手を離して立ち上がった。低い声で、
「すまなかったな」
男たちはうめきながら立ち上がると隼人をにらみつけた。
「すまなかったじゃすまねえんだよ。なんだ、お前らは」
日菜子が免許証を戻した財布を隼人に向かって投げた。手首のスナップと肘から先だけで投げられた財布はすごい勢いで飛んでいく。隼人はそれに一瞥もくれることなく、親指と他の四指で挟むようにキャッチした。男たちが目を見開く。
「まあまあ、財布も戻ったし、いいじゃないか」
声を変えた隼人は男に財布を渡し、衣服の汚れをぱんぱんと払った。
男は釈然としない様子でぶつぶつとつぶやきながら、財布を尻ポケットに入れた。日菜子が押さえていた男も縛めを解かれて立ち上がった。
「さて」
つぶやいた隼人は一瞬にして男たちの背後に立っていた。手刀で男たちの首筋を軽く叩く。男たちはかくんと膝を折った。気を失ったのだ。
映画やドラマなどでは首筋を叩くと相手が気絶するが、あれはウソだ。もしそんなことが本当にあれば、世の中は気絶者だらけになってしまう。
しかし忍者の手刀は別だ。なぜなら強力な毒薬を塗った針が手甲に仕込まれているからである。名前はない。隼人らは、毒針で気絶させるやつ、などと言っている。
隼人は頭をアスファルトで打たないように男たちを捕まえた。優しく男たちをアスファルトに横たえた隼人は、女に向きなおった。
「な、なんだよ。どうするんだ? お前ら警察か?」
トートバッグを取り戻し、すでに立ち上がっていた女は声を震わせた。警察がこんなことをするわけはないが、女はそこまで頭が回らないのだろう。
「いいや」
隼人が低い声で言うと、女は少し安心したようだった。
「ふざけんな、バーカ。今日の儲けが台無しだ」
女は名残惜しそうに男たちにちらりと目を向けると、その場から離れようと足を踏み出した。
「待て」
低い声に女はびくりと足を止める。女が強ばった顔で振り返った。
隼人は人差し指を夜空に向けて立てた。日菜子はうなずくと、一歩で移動し、女の太ももに素早く回し蹴りを放った。ぱあん! といい音がビルの間にこだまする。
「いっ!」
女は膝を地面につけたが、そのままどうと横になった。身をよじるが声も出せない。骨は折れていない。忍者が本気で蹴ったら一般人の大腿骨など粉々だ。それでもかなりの痛みだろう。
「立て」
低い声。女が顔を上げた。溶けたマスカラで黒い涙が大変なことになっている。
「い、いや、でも」
「立つんだ」
隼人が拳を立てる。日菜子の忍者ブーツがじりっと音を立てた。隼人は素早く日菜子に顔を向けた。その厳しい眼は、忍者が音を立てるとはなにごとか! と言っている。日菜子は小さく身をすくめた。
しかし女は音を聞いて身を震わせると、体を起こした。
日菜子は隼人に視線を向けた。その眼は、これを狙ってたの、音を立てたのはわざとだよ、とちょっと得意そうだった。隼人の眼は、ウソをつけ! と叫んだ。
女はぶるぶると震えながらも立ち上がった。蹴られていない足だけで立っている。
「行け」
低い声。立ち去れというのだ。
「え、で、でも、足が」
「早く行って」
甲高い声。女は恐怖に眼を見開くと、足を引きずって歩き始めた。ゆっくりと遠ざかっていく女を隼人と日菜子は微動だにせず見送る。やがて女がビルの角に姿を消してもふたりはしばらくそのままだったが、やがて、
「いやー、まいったまいった」
隼人が肩の力を抜いた。女を助けるつもりだったのがどうしてこんなことになったのか。
「隼人くんが女の人の足を蹴れって言ったときは驚いたよ」
気を失ったままの男たちをアスファルトの端に引きずりながら日菜子が言った。隼人くんが、までは甲高い声だった。
「馬鹿って言われたのがちょっとカチンときてな」
隼人らは特に悪人を罰しようなどとは思っていない。訓練も兼ねての人助け。トラブルを解消できればそれでいいのだ。
一日一善、ひと月六十善、それが隼人ら丸葉津高校忍者科の生徒に出された課題だった。宿題みたいなものだ。
男たちを端に寄せてしまうと、隼人は元いたビルの屋上に向けて右腕を伸ばした。親指と薬指の先端を触れあわせる。離してもう一度つける。離して今度は親指と中指の先端を触れあわせる。その間〇・二七秒。
ぷしゅ
手甲から小さな音がした。目に見えないほど細い糸が吐き出されたのだ。先端には鉤爪がついている。
忍法蜘蛛男! ルビは振らない。
隼人らが身につけている忍者スーツには多種多様のギミックが仕込まれている。その操作は触れあわせた指先の組み合わせで行うのだ。指印と呼ばれている。毒針で気絶させるやつもこの操作で針を出したり引っ込めたりするのである。
隼人は親指と人差し指の先端を触れあわせ、離さないまま親指を人差し指の根元に向かって滑らせた。隼人の体がふわりと宙に浮いた。糸を巻き取っているのだ。日菜子も同じように宙に浮いている。壁を駆け上がってもいいが結構しんどいのだ。
屋上の縁に近づくと壁に張り付き指先を操作した。先端のフックが引っ込みビルから離れた。
屋上に降り立つと日菜子がやってきた。マスクに手をやって引っ張ると、体型に似合わない可愛らしい顔が露わになる。マスクから手を離すと、黒いテープのようなものでそのまま顎の下にぶらさがった。
「さっきのは一善にカウントされるのかな?」
と日菜子は首をかしげた。ふたりで組んでもそれぞれ一善とカウントされるのだ。
「盗まれた財布を取り返したからな、大丈夫だろう」
隼人は柵に肘をついて夜の街を眺めた。
「そっか、それならいいけど。でも――」
隼人は眼だけを日菜子に向けた。
「――それもしばらくお休みだね」
隼人はうつむく日菜子の顔をしばらく眺めていたが、やがて街に視線を戻した。
「ああ」
街は静かでトラブルなど微塵も見えない。
「明日からは――殺しあいだからな」
隼人は眼を細めた。




