転(テン)
運命の日は訪れた。町はずれの教会――星の智慧会館を集合場所として、二人の刑事と一人の女子高生が集まっていた。
「牧村警部補、ご無事なようで何よりです」
「ハハハ……問題は今日ですけど、なかなか眠れなくて」
命は無事でこそあったが、ストレスからなる睡眠不足による身体への悪影響は、顔色からも一目瞭然であった。無理からぬ話である。眼前に迫る生命と肛門の危機を前に熟睡できる者はそうはいない。
「それで、肛門に大型犬や人間が侵入しても大丈夫な備えはしてきましたか?」
「善処はしましたが……」
「そうですか」
牧村が言いにくそうに応じると、神楽は一歩後ろに距離をとった。藍川警部は物珍しそうにそれを見ている。なにしろ鳥居神楽という人物に、明確な感情の動きが見られることは稀だったから。それはそれとして、藍川は二歩後ろに距離をとった。
「藍川警部、モートン氏の方は?」
「モートン……フランセット・モートンの居所は掴めたんだが、どうやらやっこさんは海外に居るらしい。明らかにこの事件の重要参考人だが、牧村のタイムリミットには間に合いそうにないから、今は別動隊に任せとる」
「ありがとうございます」
「シスター・ナイの居所を突き止めるのにも、思ったより時間がかかったが……どうにか間に合ったようだな」
「勝負はここからですよ、藍川警部。ですが、少し待ってください……そろそろ来ます」
鳥居神楽は腕時計を確認する。
「神楽ちゃん! 遅くなってごめんなさい!」
声がした方を振り向くと、そこには某有名私立中学の制服に身を包んだ、すらりとした背の高い少女が立っていた。三つ編みの髪と丸いレンズの銀縁眼鏡によって地味な印象を強めているが、その一方で、この年頃の少女をしばしば悩ませるそばかすなどはなく、肌はきめ細かい。ただ、一七二メートルという身長は、いくら日本人の平均身長が年々高くなってきているとは言っても、同年代の少女と比べていささか高すぎるきらいにあり、地味な印象に反して確かな存在感がある。よく見ると、体つきは制服の上からでも明確な起伏に富んでいることとも明白で、全体的に中学生離れした美人であると言える。
「片桐さん、お忙しい中ありがとうございます」
「お礼には及びませんよ。何かすごい忍者が居るそうですし」
また変な奴が出てきたぞ。藍川警部はこの少女を一目見て、そう独り言ちた。鳥居神楽からして、名探偵にありがちな奇人変人であることは間違いないが、この長身の少女もまた、第一声からして曲者であることは間違いなかった。
「紹介します。彼女は――」
「忍者見習いをしています、片桐亜美です。よろしくお願いします」
少女、片桐亜美は深々と頭を下げた。見た目と第一声から受ける印象はともかく、少なくとも鳥居神楽よりは好感の持てる人柄であることが伺えた。
「本来なら部外者を巻き込むべきではないのですが、彼女はこういう事件に詳しいので、無理を言って来ていただきました」
そして、ただちにその考えを改めるべきであることも判明した。肛門が破壊されるような事件に詳しい女など、ろくな奴ではない。
「ご足労いただいて申し訳ありませんが、片桐さんは外で待機していてください。そのときになったら合図をします」
「わかりました。何かあったらすぐ呼んでください」
片桐亜美を屋外に残し、三人は星の智慧会館の建物の中へと入る。そこには一人のシスターが待ち受けていた。
「ようこそ、お待ちしておりました」
彼女の顔の作りはコーカソイドのそれだったが、肌は黒い。顔の造形そのものは、ハリウッド女優と比較しても遜色ないほどに整っている。一見して清楚な印象を受ける修道服は、よく見るとボディラインが浮き出るような改造が施されたもので、ともすれば冒涜的とも言える出で立ちである。こうした特徴は蠱惑的で、どこか堕天使を思わせる魅力があった。どこにでもいる普通のナイアルラトホテップである。
「高村さんの訃報はお聞きしています。警察の方が来られることも予想通りです。どうぞお上がり下さい」
お前たちの考えなど、全てお見通しだ――そう言わんばかりの、どこか小馬鹿にした調子に、二人の刑事は内心苛立ちを覚えた。表情にもそれがよく表れている。ただ一人、鳥居神楽だけは、相変わらずのポーカーフェイスを維持していた。
「シスターさん、時間が無いんだ。こいつも高村みたいに、三日前に『猟犬』とやらを見ちまったらしい」
「それは可哀想に」
そうは言いつつも、まったく同情していないことは明白だった。それどころか嘲笑しているようにさえ感じられたのは、焦燥感から来る印象か、あるいは彼女の本質を見抜いてのことだったか。
「確かに、わたしは高村さんの死の二日前に会っています。彼と同じように『猟犬』のことをお聞きしたいのでしょう」
シスター・ナイは説明を始めた。その内容は想像を絶するものだった。
「結論から申し上げますと、『猟犬』は『角度』に潜む、異次元の怪物です。あらゆる鋭角から鋭角に、一瞬で移動できるのです。完全な密室であっても、どこかに『角度』がある限り、その追跡を免れることはできません」
「馬鹿な……と言いたいところだが」
否定はできない。なにしろ、現場は完全な密室だったのだ。仮に高村淳一の死体が普通の死に方であったとしても、密室殺人の謎はどのみち残る。だがシスター・ナイの説明するような能力を持った怪物であれば、完全な密室でも侵入は可能だ。牧村が見た『猟犬』のことも合わせると、全て辻褄が合う。
「『猟犬』に対抗するには『曲面』の力を借りなければならないと言われています。彼らを閉じ込め、また彼らから身を護るためには『曲面』だけで構成された空間が必要だと。彼にもそのようにお伝えしました」
「なるほど……」
にわかには信じられないような話であり、二人の刑事も理解が追いついていなかったが、鳥居神楽だけはそうではなかった。彼女だけが、納得したように頷いている。
「だから、他の犠牲者は『猟犬』から身を守るために、部屋のあらゆる『角』を排して『曲面』だけの空間を作ろうとした。しかし、実際にそれで身を守れた者はいない……違いますか?」
「よくご存知ですね」
シスター・ナイは感心したように神楽を見た。彼女の経験上、自分が説明した『猟犬』の性質に、ここまで理解が早い者はいなかったのだろう。
「わたしも意地悪で高村さんに対処法をお教えしなかったわけではないのです。これまでの『猟犬』の犠牲者は、いずれも作業のどこかに穴があったのでしょうね。主に生活に必要な家具等が障害になるはずです。ましてや、二日や三日でそれができようはずもないのですよ」
意地悪で対処法を教えなかった訳ではないという彼女の主張は、確かに正しいのだろう。だがその口振りは、どこか挑戦的な調子が含まれてもいた。やれるものならやってみるがいい。それくらいの無理難題であったから、言外にそう言っているも同然だった。
「やはりそうでしたか。ですがこれで、死の間際に自分でパンツを脱ぐなどという、高村淳一の奇妙な行動の理由がわかりました」
「えっ?」
とはいえ、彼女は普通のナイアルラトホテップだ。人知を超えた知性を持つことは確かであっても、全知全能ではない。知らないことはあるのだ。だから、驚きの表情を見せることはある。
「シスター・ナイはご存知でしょうか? 高村淳一が『猟犬』の襲撃を受けてから、二日間は生きながらえていたことを」
「そ、そうなのですか? 彼もなかなかやりますね」
実際、彼女の知る限り、『猟犬』の追跡を退けた者は稀なのだ。数少ない生存者は恒久的に脅威を排除したことも知っている。逆に言えば、『猟犬』がその執拗な追跡の習性から『猟犬』と呼ばれている以上、二日という短期間だけ乗り切るというのは前例が無いのだ。
「彼は、手近にある『曲面』だけで構成された空間を利用して、猟犬を封じ込めようと考えました。本当ならその場で殺されてしまうところを、翌日まではそれで乗り切ったのです」
「『曲面』だけの空間ですって? そんなものが……」
シスター・ナイも驚きを禁じ得なかった。『猟犬』に詳しい彼女は、曲面だけで構成された空間を作る試みのすべてが失敗したことを知っている。
「直腸です」
鳥居神楽は、きわめてシンプルに、手短にそう述べた。
「えっ?」
シスター・ナイは、聞き間違いかと思い、その言葉を反芻した。だが、直腸という単語と同じ発音の日本語には、どうしても思い当たらなかった。
「なるほど、確かに人間のケツの穴の中は『曲面』で構成されている……そういうことか」
藍川もそれに同意し頷く。
「えっ?」
シスター・ナイの表情には、明らかな困惑が見て取れる。『猟犬』を尻の中に入れようなどという発想をする者が二人もいて、それに対してすんなり理解を示す者が一人いる。
「シスター・ナイ。『猟犬』を肛門に入れたら、どうなりますか?」
「えっ? えっと……死にます。多分」
シスター・ナイのその答えに、満足そうに頷いた。当然だ。自身の推理が核心を突いたことを誇らしげに思わぬ名探偵はそうはいない。相変わらず眉一つ動かさないポーカーフェイスを維持していたが、心なしか、どこか得意げな様子が見て取れた。
「そうでしょう。十分な備えもなく実行に移せば、待っているのは確実な死です。あの高村淳一のように」
「十分な備えがあればいけるのか」
藍川警部の疑問はもっともだ。人間の肛門はイヌ科の動物やヒト科の動物はもちろんのこと、異次元の怪物である『猟犬』を出し入れするようにはできていないことに変わりはない。
「十分な備えというものがどういったものかはわかりませんが、『猟犬』をお尻の穴に入れても死なないようであれば、それは十分な備えなのでしょう。現に、高村淳一は襲撃の翌日までは生きていました。ただ、残念ながら、二日後には出ました。彼の備えは十分ではなかったのでしょう」
手記に残されていた最後の短い一文、すなわち「もうだめ でる」は、『猟犬』を尻の穴に閉じ込めておくことに限界が来たことを示していたのだ。
「シスター・ナイ、どうかお教え下さい。『猟犬』を肛門の中に封じ込める方法を」
「その……申し訳ありません。『猟犬』については存じておりますが、お尻のことは専門外でして……」
無論、普通でないナイアルラトホテップであれば、肛門の作用にも通じていたかもしれない。だが、彼女は普通のナイアルラトホテップだったので、肛門のことは専門外であった。
「そうでしたね。確かに、肛門科の医師を除けば、普通はそうです。ですが、異次元の『猟犬』についてここまで詳しい貴女は、普通ではありません。普通ではない、つまりアブノーマルな貴女なら、きっと肛門のことについても知っている筈です」
そのような獲物を前にした鳥居神楽の追及は無慈悲であった。
「あの……困ります。やめてください」
神楽の迷惑行為と、心底困惑したシスター・ナイの不毛なやりとりが続く。シスター・ナイは関わり合いになりたくないという意図を隠そうともしなかったが、そんな彼女を誰が責められようか。
そんな中、ふと、部屋の隅から異臭が発生した。続いて立ち込める煙、その中にわだかまる影を見た。真っ先に気付いたのは、他でもない、その煙の中の影を見たことのある牧村警部補だった。
「警部、来ました!」
「なんだい、ありゃあ……」
それは明らかに犬ではなかったが、しかし『猟犬』であることは間違いなかった。狩りをする生き物なのだ。既知のどの犬種よりも大柄な体躯だったが、異様に痩せ細っており、それが本質的に抱える飢餓を如実に表していた。耳元まで大きく裂けた口からは、現場に残されていたものと同じ、青色の粘液を滴らせており、そこから長い舌が延びている。臭いは普通の獣臭とは明らかに違う、むしろ腐乱死体のそれに近かった。どう見ても肛門に出し入れしてよい生き物のようには見えない。
「お前が見た『猟犬』ってのは、あれか」
「はい。間違いありません」
藍川警部の確認に、牧村警部補も頷く。
「シスター・ナイ、あれで間違いはないのですね」
「はい、あれが『猟犬』――ティンダロスの猟犬です」
鳥居神楽もまた、シスター・ナイに確認をとった。
今、眼前に超次元の悪意が迫っている。悪意と狂気に真っ向から立ち向かったことは、一度や二度ではない。だが、それは圧倒的なのだ。目――おそらく、それが目なのだろう――球状の器官が指し示す向きから、その標的が誰なのかは明らかだった。だが、その痩せ細った不健康な体躯から、それが無限の飢えに苛まれていることが漠然と見て取れる。然るが故に、そいつが狩りを終えた後、手近な他の者に襲いかからぬ道理はないのだ。だから、この生き物を生かしておいてはならない――シスター・ナイ以外の全員が共通した見解を持っていた。
「こうなったら是非もありません。牧村警部補、すぐにお尻を出してください」
身の危険を感じた『猟犬』は、一歩後ずさった。牧村がそうしたのと全く同時だった。
「片桐さん!」
神楽が屋外で待機していた仲間に合図を送る。すると、轟音と共に天上に穴が開き、その上から屋内を覗き込む片桐亜美の姿があった。
「片桐さん、わたしが牧村警部補を取り押さえますから、貴女は『猟犬』を頼みます」
「わかりました! あの忍者ですね!」
言うが早いか、片桐亜美の行動は迅速だった。忍者見習いを自称するだけあって、でかい図体に反し、その動きは機敏かつ精妙である。頭の回転も早く、それが忍者――彼女は、この世の不可解なものは全て忍者の仕業だと思っているのだ――だと認識するのも一瞬であった。それが忍者でないことを除き、彼女の認識は正しい。
「ギャオッ! オゲヒャアアアア!!」
『猟犬』は必死に抵抗した。しかし、力も体格も彼女の方が遥かに上である。『猟犬』は中指のデコピンで弾き飛ばされ、壁に激しく叩きつけられた。その際の名状しがたい叫び声から、こうした攻撃は有効なダメージになっていることが伺える。『猟犬』はこの時点で重傷を負っていたが、片桐亜美は更に、親指の腹の部分で念入りに押し潰した。感嘆すべきは、それでも『猟犬』が生きていることだ。押さえつける親指を一旦離したときに見えた、グロテスクな再生の過程は、その生き物が生半なことでは死なないことを示している。
「ギャオッ! オゲヒャアアアア!!」
一方の牧村警部補も、鳥居神楽の恐ろしいバリツの犠牲となった。彼女が手を握った瞬間、手首、肘、肩の順に関節を外されたのだ。「十分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない」とは、何かにつけて度々引用される名言であるが、たとえば合気道の達人の動きがそうであるように、高度に発達した格闘術もまた、往々にして魔法と区別がつかないことがある。そうしてもう片方の腕もすぐに同じように使用不能にされ、牧村はその激痛に身悶えた。ある種の官能小説でよく見られる種類の悲鳴は、意味をなさない絶叫ではあったが、それがかえって、その苦痛を雄弁に物語っている。両腕を封じられて抵抗できないようにされた彼の肛門に待ち受ける運命は、想像するだに悲惨なものに違いない。
「これはひどい」
シスター・ナイは嘆息した。その口元を手で覆っているが、笑いを堪えるのに必死であることは明らかだ。
「可哀想に。やめさせてください」
「可哀想って」
藍川警部は四つん這いにさせられている牧村警部補と、彼の肛門へと押し込まれていく『猟犬』とを交互に見やった。あまりにも忌まわしい生き物と肛門だった。
「どっちが」
「両方です」
実際、他人の肛門に無理矢理押し込まれる生き物を目にした読者諸兄は、どちらを犠牲者と見るだろうか? シスター・ナイの答えは正鵠を射ていると言えた。
「……ひでえことをしやがる。これが人間のやることかよ」
「……」
シスター・ナイは非難がましい視線を藍川に向けた。だが、この惨状を見ていながら、彼女自身も含め、結局は誰一人止めようともしない。犠牲者を除くと、ここにいる者は皆、この惨劇の主犯か、さもなくば共犯者なのだ。
「藍川警部、助けてください。まだ十分な準備ができていません」
「本当に申し訳ない」
彼の発言は無慈悲であるように聞こえるかもしれない。だが片桐亜美の方が力も体格も圧倒的に上であり、また鳥居神楽の魔法じみた体術から、この蛮行を阻止することは不可能である。下手をすれば、自分も同じ目に遭いかねないのだ。
「神楽ちゃん、全部入りました!」
「上出来です。そのまま出入口を封鎖して下さい」
「わかりました!」
程なくして、牧村警部補の肛門は閉鎖された。こうして『猟犬』――ティンダロスの猟犬は、曲面だけで構成された空間、すなわち成人男性の直腸の中へと封じ込められたのだった。
「グモッ! ゲボオオオオオ!!」
肛門から『猟犬』に侵入された牧村は、成人向けのASMRでよく聞かれる種類の声を出している。だが、十分ではないにせよ、何らかの備えをしていたともとれる発言からもわかるとおり、彼はまだ生きている。
「気を確かに保って下さい。今、どんな感じですか?」
「すごいです」
「大丈夫そうですね」
鳥居神楽はその様子と返答に目を伏せ、首を横に振った。ポーカーフェイスは相変わらずであったが、どこか相手を憐れむような色合いが見て取れる。
「お待ちください」
また、そそくさと逃げようとしているシスター・ナイもまた、ただちに捕獲された。鳥居神楽からは逃げられない。一歩で何メートルもの距離を移動したように見える不思議な足の運びは、手を握っただけで複数の関節を同時に外したときと同様、まるで魔法のようだった。実際にそれを目にした藍川警部も、後に「あれは遠近法を無視した、だまし絵じみた動きだ。まるで空間を操って距離そのものを縮めたかのようだった」と述懐している。
「シスター・ナイ、目を背けたくなるお気持ちはわかりますが、肝心なのはこの後です」
神楽の魔の手がシスター・ナイに迫る。既に彼女の右手は、包み込むようにして握られていた。下手な動きをしたその瞬間、ただちに拷問へと切り替わることは、誰の目にも明白だった。
「この後、どうしたらいいですか?」
「わかりません」