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承(ショウ)

 鳥居神楽のこのような突飛な推理とその結論は、ある程度付き合いの長い藍川警部にとってはいつものことであったが、今回ばかりは心配になる内容だった。

「……大丈夫ですか?」

 牧村警部補は心配そうな面持ちで、鳥居神楽の顔を覗き込んだ。相変わらずの能面の如き無表情がそこにある。その完璧なポーカーフェイスからは、彼女の考えを読み取ることは不可能であるように思われた。

「大丈夫です。問題ありません」

 彼女はそう言うものの、二人の表情は怪訝そうだ。藍川も牧村も、警察官としての経験上、正気でない者に限って自分は正気だと主張することを知っている。

「藍川警部、犬を肛門に入れたらどうなりますか?」

「わからん。俺に聞かんでくれ」

 肛門に犬を入れる行為は、通常の人間にとっては未知のことなので、藍川警部のこの返答は当然のことだった。日常的な雑談においても、このような質問を見越して回答を用意しておく者は稀だ。彼を責めることはできない。

「牧村警部補は?」

「わかりません。犬は入れたことがないので」

「え……そうですか。残念です」

 神楽は一歩後ろに下がって距離をとり、その後頷いた。藍川警部もそれに続く。両者とも、努めて冷静であろうとする心の動きが、その動作の後の表情の変化から見て取れる。無論、神楽の方はともかく、少なくとも藍川警部の方には、敢えてその辺りには触れぬ情けがあった。

「お嬢はどう考える」

「そうですね……」

 神楽は形の良い顎に手を当てて数秒ほど考え、結論を出した。

「肛門が破壊されると思います」

「そうだな。俺もそう思う」

 自明の理である。それが大型犬であれ小型犬であれ、人間の肛門はイヌ科の動物を生きたまま出し入れできる作りにはなっていない。ましてや、手記にあった『猟犬』が比喩的表現であること、藍川警部の推理のとおりに殺し屋のコードネームであるとすれば、『猟犬』とは犬ではなく人間を指すことになる。それがオランウータンであれホモ・サピエンスであれ、人間の肛門はヒト科の動物を生きたまま出し入れできる作りにはなっていない。これらは小学生レベルの知識である。

「そういう訳です。仮に肛門から大型犬が侵入したとすれば、あんな風に体を内側から破壊されるはずです。ましてや、警部の言うように、『猟犬』というのが人間の殺し屋と仮定するなら、もっとひどいことになるでしょう」

「うーむ……」

 聞いているだけでも頭痛がするような推理である一方、死体の状態から言って、肛門に何かを入れられたことによって、内臓を内側から破壊されて死亡したことは間違いないのだ。死体の損傷具合から言っても、普通の凶器でそのような殺し方が不可能である以上、神楽の推理に一定の理があることを認めざるをえなかった。

「ところで、牧村警部補、先ほどの話ですが」

「とりあえず、肛門のことはひとまず保留にして、もう一つの遺留品について見てみませんか」

 牧村警部補は自身に対する追及を逃れるべく、もう一つの重要な証拠品の話題を持ち上げた。

「……実に見事なダイヤですね。一介の私立探偵の持ち物とは思えません。手記の内容によれば、モートン女史なる人物から預かったものだそうですが」

 神楽は牧村警部補から慎重に距離をとりながら、問題の宝石を遠目に見ている。あまり興味があるようにも見えない。今の彼女にとっては『猟犬』と肛門の方が重要なのだろう。

「お嬢は宝石には詳しいのか?」

「申し訳ありませんが、雑学としての知識はあっても、専門の目利きはできません。こういうのは、牧村警部補の方がお詳しいかと」

「僭越ながら」

 何を隠そう、彼は育ちの良いお坊ちゃんでもあった。実家が裕福な彼は、こうした骨董品に触れる機会も多い。警察官を志すことがなければ、きっともっと多くの芸術品や宝石と触れ合っていたことだろう。そういう経歴の持ち主だ。

「……この大きさと、台座の装飾の特徴から見るに、相当古い品です。しかも、こういう青みを帯びたダイヤは珍しい。有名なホープ・ダイヤと同時期か、より古い名品でしょう。多分、日本円でも億は下らないかと」

 ホープ・ダイヤは、少しでも宝石に関する知識をかじった者なら、必ず知っているような名品である。持ち主に死をもたらす不吉な青いダイヤモンドとして知られホープ・ダイヤは、宝石を巡る殺人事件というこの場で引き合いに出すにあたって、これほど適切な物も他に無い。

 実際、不吉ながらも美しい青のダイヤモンドは、じっと見ているだけでも吸い込まれそうになる、魔力としか言いようのない、名状しがたい力が確かにあった。宝石の目利きができる人物にとっては猶更だ。

「あれ……?」

 ふと、牧村は宝石の中に小さな点のようなものを見つける。こういう色付きのダイヤモンドは、不純物が含まれていることによって精妙な色合いを出す。その小さな点の汚れも、そうした不純物であるのかもしれない。そう思って、もっとよく観察してみようと目を凝らす。

 その行いを後悔するのに、さほどの時間はかからなかった。小さな『点』の形をよく観察すると、それは生き物の形をしていた――飢え、瘦せ細り、青い粘液を滴らせる、奇怪な生き物の姿を。悪いことに、そいつは「こちら」を見ているのだ! 恐怖のあまり、牧村は宝石をうっかり取り落としてしまう。

「おい、どうした」

「……宝石の中に、変な生き物が見えました」

「やってしまいましたね、牧村警部補」

 鳥居神楽は眉一つ動かすことなく、淡々と牧村に差し迫った危機について説明した。

「信じ難い話かもしれませんが、牧村警部補が今見たものは被害者、高村淳一が見たものと同じ『猟犬』でしょう。あの手記の内容的と照らし合わせれば、今見たものと辻褄が合います」

「そんな馬鹿な」

 藍川は努めてオカルトや超常現象を推理の材料にはしないよう心掛けている。だが現実に、今回の事件の犯人――「人」とは言えぬ以上、適切な表現ではないかもしれない――が、宝石の中に住む怪物であると認めざるを得ないほどに、パズルのピースはそろい過ぎていた。

「この手記の内容を信じるなら、高村淳一は宝石の中の『猟犬』を目にして、その三日後に襲撃を受けています。つまり」

 神楽は現場の壁にかかっていたカレンダーと時計を見遣った。

「七二時間後、牧村警部補の肛門も破壊されます」

 方々より「人の心を持っていない」との誹りを受ける鳥居神楽ではあるが、この場にあって相手に無用な恐れを抱かせぬために、敢えて「死ぬ」「殺される」といった表現を避けるだけの情けはあった。

「どうしよう」

「落ち着いてください。とりあえず、彼が死の直前に頼ったという、星の智慧派教会のシスター・ナイとコンタクトを取ってみましょう。この手記が正しいのなら、高村淳一は三月三〇日に『猟犬』と遭遇していますが、その翌日までは生きていたことになります。つまり例のシスターの助言のもと、ある程度のところまで『猟犬』に対処できていたことになります」

 幸運なことに、まだ希望は失われていない。手記の内容から伺える事実として、被害者は『猟犬』に一度遭遇して、本来ならばその場で殺されてしまうであろうところを、その知恵をもって二日間は生きながらえていたのだ。

「こっちはモートン女史とやらを当たってみる。依頼主との連絡先くらいは控えてるだろう」

 藍川は、牧村から少しずつ距離を取りながら言った。気遣う様子は見せても体は正直である。

「牧村警部補は、いつでも逃げられるように窓等を開けておいてください。彼と同じなら、どれほど厳重に閉じこもっても効果はないどころか、こちらが退路を断たれることにもなりかねません」

 普通なら、犯人の襲撃を避けるために安全な場所に籠ることを奨めるものだが、死体発見時の状況からして、件の『猟犬』は、何らかの方法で完全な密室にも、鍵を開けることなく出入りしている。

「それから……念の為、肛門に大型犬や人間が侵入しても大丈夫な備えをしておいて下さい」

「肛門に大型犬や人間が侵入しても大丈夫な備えとは、具体的にどういうことをすれば良いのですか?」

「肛門に大型犬や人間が侵入しても大丈夫な備えです」

「わかりました。善処します」

 その返事に、神楽は牧村から一歩距離をとってから頷いた。

「これは簡単ではない事件です。『猟犬』と直接対決することを視野に入れておいた方が良いでしょう」

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