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起(キ)

 その部屋の中は、ひどい臭いで満たされていた。誰もがそう言うだろう。排泄物、嘔吐物、そして死臭――それら全てが実際に入り混じった臭い。その悪臭の源――下半身が破裂し、腸をぶちまけた死体がそこにあった。

 近隣住民の通報を受けて警察官が駆けつけるまで、その部屋は完全な密室だった。ドアの下の小さな隙間から臭いが漏れ、不審に思った近隣住民が通報するに至るまで、さほどの時間は要さなかったようだった。それほどまでにひどい臭いだったのだ。

「これはひどい」

 捜査一課や鑑識課の人員は、その職業柄、警察関係者の中でも、殊更に死体を目にする機会は多い。だからといって、それに慣れるかどうかは別問題である。

「ひでえことをしやがる。これが人間のやることかよ」

 壮年の警部――藍川拓哉は、皺の寄った顔を更に歪ませながら、そうこぼした。彼のようなベテラン刑事でさえ、あるいはだからこそ、この感想が出てくるのだろう。

 ましてや、今回の事件のような無惨で、なおかつ奇妙な死体ともなると、話は違ってくる。強い衝撃による内臓の破裂は、交通事故等に由来する死因としてはままあることだが、腹部が本当に内側からの力だけで破裂するというのは、明らかに普通の死に方ではない。他殺であれ自殺であれ、あるいはそれ以外の死因であれ、普通ではない出来事が起こったことは確かなのだ。「これが人間のやることか」という言葉の意味には、その残虐性への非難と、本当にこれが人間業であるのかという疑問の両方が含まれていた。

「被害者は高村淳一、三六歳、私立探偵。金庫の中身はおろか、彼が常用していた財布すら盗られずに現場に残されていました。強殺(強盗殺人)の線は薄いでしょう」

 端正な顔立ちの若い警部補――牧村慎太郎が、被害者の身元を読み上げる。努めて平静を保とうとしているが、額に滲む汗と芳しからざる顔色から、あまり良い気分でないことは確かであった。階級に比して年若いという事実は、それだけで彼の優秀さを物語ってはいるものの、一方で、このような猟奇殺人事件に慣れるには若過ぎることも確かだった。

「確かに、強殺ならこんなものが現場に残ってるのも、おかしな話だ」

 透明な袋に入れられた証拠物品のうち、特に目を引くものを眺める。

 それは見事なダイヤモンドの首飾りだった。普通の宝石店ではまず目にすることのない、記録的な大粒のダイヤモンドで、狼を模った白金の台座まである。見事な意匠もさることながら、石そのものがダイヤモンドとしては珍しい青色を帯びていることが、この品の希少価値をより高めている。仮にこれが天然のダイヤモンドだとすれば、高価という言葉でも足りない、博物館や美術館以外の場所ではまずお目にかかれない種類のものである。仮に個人所有するにしても、一介の私立探偵風情には似つかわしくない逸品だった。金目の物が目当ての強盗殺人であれば、このような宝飾品が現場に残留していようはずがない。

「……」

 似つかわしくないといえば、この場にはもう一つ、凄惨な殺人事件の現場には相応しからぬものがあった。制服姿の警官の中に混じって、有名私立高の制服姿の女子高生が、現場を見て回っているのだ。背丈は一四〇センチメートルあるかないかという小柄さで、ともすれば、本当に高校生であるかすら疑わしいくらい、幼い容貌でもある。

 その様子は、仮に彼女が警察官の制服を着ていたとしても、明らかに異常だと言えた。というのも、眉一つ動かさずに、しかし双眸は光らせ、淡々と事件の現場検証に従事しているのである。肝の据わった奴だと言えばそれまでだが、いくら殺人事件に慣れている刑事といえど、こうまで酷い状態の死体が相手ともなれば、眉をひそめる程度の反応はする。だが彼女には、そうしたことに心を動かされるような、あって然るべき人間味が一切ないのだ。元より端正な顔立ちではあったが、表情筋のわずかな作用さえ見て取れない。そんな彼女の様子をしばらく観察すると、これが猟奇殺人犯とは別の意味で、容易ならざる手合いであることに気付くであろう。

「どう思うよ、お嬢」

「……」

 だが彼女は、現場の見分、とりわけ死体とその痕跡にのみ関心をしめしており、まるで気が付いていないかのように反応を返さない。

 本来ならば、こういう事件の現場に無関係の一般人が近寄ることはできないものだが、「お嬢」と呼ばれた彼女――鳥居神楽が、いくつもの難事件を解決してきた実績のある名探偵ともなると、あまり無碍にできない。かといって、警察組織の面目を考えると、相手が名探偵であろうと、あるいはそうだからこそ、現場を無駄に荒らされる訳にもいかない。然るが故に、藍川警部と牧村警部補は、言わば鳥居神楽の『お守り』の役割を一任されている形になる。

「怨恨の線はどうだ?」

「探偵という職業柄、どこで恨みを買うかはわかりませんが、少なくとも周辺住民との諍いや、知人との金銭トラブルは無いそうです」

 牧村警部補の持つ調書は、被害者の身元を詳細に記していた。

「この粘液は?」

 袋に入った粘液のサンプルは、犠牲者の体に付着していたものだった。明らかに自然界に存在するような色ではない、異常な青色の粘液が死体に付着していた。質感は膿のそれに似ており、化学塗料の類であるようにも見えない。ただ、部屋全体を包む悪臭の原因の一つが、この正体不明の粘液であることは確かだった。

「塗り薬か何かでしょうか? いずれにせよ、貴重な証拠品です。犯人のDNAが検出されるかもしれません」

「――不可解な点が、いくつかあります」

 一方で、無言で現場を見分していた鳥居神楽が、ようやく口を開いた。

 被害者はただ、下半身が破裂して死亡したというだけではなかった。得体の知れない粘液も、その正体が明らかになるには時間を要するだろう。どちらもこの難事件の重要な謎ではあったが、神楽の関心は別にあった。

「まず彼は、どうしてズボンとパンツを脱いだ状態で死んでいたのでしょうか」

 藍川警部も、そのことについては敢えて考えないようにしていた。状況から鑑みるに、トイレに駆け込む途中で殺されただけであって、死因とは直接関係がないだろうと考えられたためである。

「まずないとは思うが、強姦殺人の線は?」

「被害者のズボンのベルトの金具からは、被害者の指紋しか検出されませんでした。DNA鑑定も、恐らく同じ結果を示すかと。つまり」

「自分で脱いだのか……」

「そういうことになります」

 指紋の照合にはある程度の時間はかかるが、現時点で判明している発見時の遺体の体勢といった事実だけでも、この犠牲者は明らかに、自分でズボンを下ろして、その最中に死亡したとしか判断できない状態だった。

「藍川警部、それにお嬢。これを。筆跡からして、被害者が残したメモですね」

 さらに持ち込まれた別の証拠品、一冊のメモ帳を受け取った。宝石と違って、中身を見ないことにはヒントとなりえない物品だったから、袋から取り出し、慎重に中身を見る。













三月二七日

 モートン女史から預かった宝石の中に『猟犬』を見てしまった。『猟犬』については、メイヤーズ夫人から話には聞いていたが、実物を見るのははじめてだ。

 彼女が言ったとおりなら、私はあと三日後、あの恐ろしい『猟犬』に殺されるということになる。

 あのとき見た『猟犬』、奴は飢えている。わたしを殺すだけで満足はしないだろう。あのような奴を解き放ってはならない。


三月二八日

 星の智慧派教会のシスター・ナイに相談してみる。

 曰く、奴等は『角』に潜み、全ての『角』は奴等の支配下にあるので『曲面』でもって対抗すべし、という。こちらの命がかかっているというのに、具体的な対処法は教えてくれない。あいつはいつもそうだ。


三月ニ九日

 シスター・ナイの断片的な助言に従い『曲面』での対抗を試みるが、完全な『曲面』は何があるだろうか? 人工的な空間ではありえない。部屋の壁の壁の角を漆喰か何かで塗り固めて丸めたところで、どこかに『角度』がある。部屋の中から『角度』を排することは不可能だ。

 ふと思いついたのは、人工物でないものであれば、完全な『曲面』もあり得るのではないか、という点だ。普通の生き物の体は『曲面』で構成されている――活路はそこにあるかもしれない。だがそれには、十分な備えが必要だ。


三月三〇日

 どうにか『猟犬』を閉じ込めることには成功した。一時しのぎとしては上々の結果である。失ったものは大きいが、命には代えられない。


三月三一日

 体の調子が良くない。やはりあの方法では駄目だったらしい。早急に次の手を考えなければ。


四月一日

 もうだめ

 でる












 手記はそこで終わっていた。

 四月一日という日付は、死亡推定時刻と丁度一致している。最後の日の手記は明らかに筆跡も荒く、死が目前に迫ったことによる焦燥感が見て取れた。

「出る?」

 神楽は首を傾げた。ここに来て、彼女はようやく眉間にわずかな皺を寄せ、首を傾げる仕草を見せた。鳥居神楽という人物の表情の変化は珍しく、ある程度付き合いの長い藍川警部も、ほとんど見たことがない。

「出るって、何が出るのでしょうか?」

「わからん」

 大便のことではあるまい。そんな日常的な内容のことをわざわざ書き残しておくとは、神楽も考えてはいない。

「この『猟犬』とは何でしょうか?」

 牧村警部補は、至極もっともな疑問を投げかけた。

「多分、殺し屋のコードネームか何かだろう。危険なヤマに巻き込まれたか」

 既に手記の内容は、超常的な内容が伺えるものだったが、藍川警部は敢えてオカルト的な観点は切り離して考えていた。私立探偵が殺し屋に狙われるというのは、ありえない話ではない。なにしろ、そういう厄介事と直接的な繋がりがありそうな宝石が、現場に残されていたのだ。このダイヤモンドが、仮に反社会的組織の大物の所持品であったとすれば、入手手段の如何によっては、このように酸鼻を極める報復を受けたところで不思議ではない。無論、仮にそうであったとして、それでも現場に宝石が残されていたことが、やはり奇妙ではあったのだが。

「だが『角』やら『曲面』やらが引っかかるな。宝石の中に『猟犬』とやらが見えたってのも、変な話だ」

 遺された手記からは、犠牲者は自身に迫る死を知っていたことが読み取れる。『曲面』を使用すれば『猟犬』に対抗できるという内容は、既に藍川警部の理解を越えていた。元より完全な密室の状態と、その常ならざる死体の有様から、普通の殺人事件でないことは明らかだったのだが。

「ですが、これで少なくとも、彼の死因はわかりました」

 神楽は再度、犠牲者の死体の状態を思い出していた。損傷が特に酷いのは臀部で、それ以外はほとんど無傷であったことを。

「彼の死因は、手記にあった『猟犬』が、被害者の肛門に侵入したことです」

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