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赤い目の黒猫 情けは人の為ならず

作者: ティムん

「にゃおーん」


 間抜けな鳴き声が路地裏に響く。誰の鳴き声かって? そりゃ、俺の鳴き声さ。何故鳴いたかって? そりゃ、俺が猫だからさ。朝起きたらまず、にゃおーんと一声鳴いて、俺は猫だと認識するのさ。

 前脚を伸ばし、ぐぐぅっと伸びをする。いやぁ、毎朝この時間が至福のひと時。


「にゃ、にゃぁ……」


 だが、俺の口から漏れるのは情なぁい鳴き声だ。何故かって? そりゃ、ここが路地裏、それもゴミが大量に捨ててある路地裏だからさ。人よりうんと優れた鼻にゃあ、ちぃとばかしキツすぎる。


 今でこそ路地裏に住んでるが、これでも一年ばかり前にゃあ、家があったんだぜ? こじんまりとした鍵屋だったけどな。今じゃあ家無し、職無し、金もなし。なしなしなしのホームレスキャットってぇわけだ。


 とはいえ身嗜みにゃあ気を使ってるんだぜ? 毎日ちゃあんと水浴びをしてるのさ。たまぁにくすねてきた石鹸を使うことだってある。俺は綺麗好きな猫なのさ。


 え? 毛繕い? 俺はどうも苦手でね。自分の体を舐めるなんてばっちぃじゃねぇか。


 ぐぅぅぅ


 おっと、腹の虫がお怒りだ。俺もこいつにゃあ適わねぇ。早く食い物を献上しねぇと。

 さてさて、食い物食い物ーっと。とりあえず人間にねだりにいくか。飯なんて辺りのゴミを漁りゃあ簡単に見つかるんだろうが、そいつぁ俺のちっぽけなプライドが許さねぇ。

 それに、人間にちょっとねだりゃあもっと上等な飯が手に入るんだ。わざわざゴミ漁りなんてする必要ねぇ。


 俺は路地裏から抜け出し、大通りにやってきた。おじさんにゃあ眩しいセーラー服を来た学生さんたち三人組が、きゃっきゃしながら歩いてらっしゃる。どうやら学校の帰りらしい。まぁ、かなり日は傾いてるし、下校時間だったとしても不思議はねぇか。

 え? お前はさっき起きたばかりだったよな、だって? おうとも、その通りさ。夕方まで寝こけてたのさ。いいんだよ、俺は猫なんだし。


 ともあれこれは好都合。女子高生なんてのは、可愛いものに目がねぇからな。にゃんにゃんにゃーんと媚びてやればイチコロさ。


「にゃおーーん」

「あ、クロにゃんだ! 可愛いー!」

「ホントだ! クロにゃんだ! この子、野良だとは思えないほど綺麗だよねー」


 そうだろう、そうだろう。俺は嬉しいことを言ってくれたお嬢さんに自慢の黒い毛並みを擦り付ける。


「きゃっ、くすぐったーい」

「この人懐っこさも野良っぽくないよね。なになにー、どうしたのー? お腹でも空いてるのかなぁ」


 そうだとも。そろそろ腹の虫が限界なのさ。今にも羽化して羽ばたきそうなんだ。


「何かあったかな……あ、私スルメ持ってるよ! ほら、クロにゃん、スルメだぞー」


 おっ、なかなか渋い嬢ちゃんだ。だが猫にスルメは御法度だって知らねぇのかい? そりゃ、スルメはうめぇが、猫が食ったら腰が抜けちまうのさ。危ねぇ危ねぇ。俺がこれを知らなかったら、善意に殺されちまうところだった。


 俺は首を振ってイヤイヤする。我侭なガキみてぇだが、可愛い猫を演じるのにゃあもう慣れたのさ。今更恥ずかしくもなんともねぇ。


「あれ、スルメ要らない? 美味しいよ?」

「あ、そうだ。猫にスルメはダメだって聞いたことあるよ!」

「ほんと? そうなんだ。ごめんね、クロにゃん。じゃあ私、クロにゃんにあげれる物ないや。二人は何か持ってる?」

「あ、私クロにゃんにあげようと思って、猫缶持ってきてるよ!」


 お、本当かい? そいつぁありがてぇ。猫缶、うめぇんだよなぁ。わざわざ野良の俺に猫缶をくれる物好きなヤツはそうそういねぇから、俺にとっちゃあ猫缶はご馳走だ。


 俺は女子高生の足にぽむぽむと肉球を押し付ける。早くくれよ。もう腹の虫が繭から足を出しちまってる。


「可愛いー。なになにー? おねだりかな? わかったよ、はいどうぞ」

「にゃーん!!」


 俺は目の前に置かれた猫缶に頭を突っ込んだ。はぐはぐ、はぐはぐ。かー、やっぱりうめぇ。ツナの素材の味がしっかりと感じられるし、油が少なくてさっぱりしてる。なにより、あとから来るこの生臭さがたまんねぇ。


「あはは、クロにゃん凄い勢いで食べてるー」

「お腹すいてたんだねー。あ、写真撮ってインスタにあげよっと」

「あ、私も私もー! 黒猫で目が赤いって他で見たことないし、きっと話題になるよ!」

「そうだよねー、黒猫で赤眼って有り得るのかなぁ。赤眼はアルビノだって聞いたけど、クロにゃんは黒猫だし……」

「何か特殊な猫なのかもねー。とりあえず写真撮っとこっと」


 ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃり。


 お、いんすたかい? いいぜ、サービスしてやるよ。おじさんは、いんすたばえってのをちゃあんと分かる大人だからさ。

 まずは両手で缶を捕まえて、ケツをぷりっと突き上げる。仕上げは尻尾をぴぃんとな。ほらどうでい。かわいいだろう?


 途端に湧き上がる歓声。いいねぇ。こうも反応がいいともっとサービスしたくなっちまう。

 ちぃとばっちぃが、ツナを両手で掴んで二本足で立ってやる。背筋はぴーんと伸ばして、ミーアキャットみたいなポーズだ。そしてはぐはぐ、はぐはぐ。


「きゃー! なにそれ、凄い! クロにゃん、何で立って食べてるの!?」

「これ絶対バズるよ! インスタよりTwitter向きだ!」

「クロにゃんってば可愛い上に面白いんだねー!」


 ふむふむ、かなりのご好評を頂けたみてぇだな。俺としても、こんな疲れるポーズした甲斐あったってもんだ。


 猫缶を完食した俺は、女子高生たちに別れを告げ、新たなる冒険の旅に出たのだった! いや、まぁ、行く宛もねぇから、たださまよってるだけなんだけどな。


 ぶらぶらーっと歩くことしばらく。俺は商店街にやってきた。近頃、シャッター商店街なんてぇのをよく聞くが、ここも御多分にもれず、営業している店は半分ほどしかねぇ。太陽の光があまり入って来ず、どことなく暗い雰囲気が漂ってやがる。


 特に、もうヨボヨボの婆さんがやってる雑貨屋なんかは閑古鳥がぴーよろろろと盛大に鳴いてやがる。いや、閑古鳥がぴーよろろろと鳴くかは知らねぇけどな。


 通る人も、婆さんの客引きなんて無視して過ぎ去っちまう。やれやれ、冷てぇことだな。商店街の温かみってのはどこに行っちまったのやら。

 仕方ねぇ、ここは俺が一肌脱いでやりますか。


「にゃおーん」


 俺は婆さんの前に座り、ここに居るぞと主張する。何故かって? そりゃ、婆さんが寝てたからさ。俺が店の前まで行くわずかな時間に、あっという間に夢の世界。


「まぁ、クロ助かい。気が付かなくてごめんねぇ。あんまりにもお客さんが来ないもんだから、ついうたた寝しちゃってたんだよ」


 ん? さっきはクロにゃんだったのに何で今度はクロ助なのかって? そりゃ、俺が野良だからさ。みんな好き勝手に自分で決めた名前で俺を呼ぶのさ。ま、俺は名前なんかに縛られないってぇことさ。


 婆さんは俺の頭を節くれだった手で優しく撫でる。くぅ、やっぱり婆さんの撫では技が違うぜ! こいつも年の功ってやつなのかねぇ。気を抜いたら昼寝しちまいそうなくらい、気持ちがいい。


「はぁ、どうしたらお客さんが来るのかねぇ……」


 婆さんは浮かない顔でため息をひとつ。おぉ、そうだった。俺はそれを何とかするために来たってぇのに、忘れるところだったぜ。

 さっき女子高生から猫缶を貰った恩を返してねぇからな。きちんと恩を返さねぇと。


 ん? 恩を返すならさっきの女子高生にじゃ無いのかって? あぁ、そりゃあ、一年前に聞いた、ある恩人の考えが原因なのさ。

 情けは人の為ならずってことわざがあるだろ? あれの意味は、誰かを助けたら、その誰かがまた別の人を助けて、そうすると今度はまたそいつが──ってな感じで、最終的には最初のヤツに返ってくるってことだとあの人は解釈してるんだ。恩を別の人に返していくんだ。

 んで、恩の輪っかがぐるぐるぐーるぐーるぐるってな。


 どうだい、悪くねぇだろ? だから俺は、受けた恩は別のヤツに返すって決めてるのさ。


 さてと、じゃあサクッと恩返し、始めますか。


 客を呼ぶにゃあ、まず人目を惹かなきゃ始まらねぇ。見てもくれなきゃ店になんて来てくれるわきゃないんだからな。で、人目を惹くためにゃ何をすればいいか。これが人間なら相当難しぃ問題だが、幸いというかなんというか、俺は猫だ。


 人間なんてのは、小さい動物、とりわけ猫や犬なんかが大好きだからな。足元を猫が歩いているだけで目が追いかけちまう、そんな生き物なのさ。


 そんないるだけで人目を惹いちまうこの猫様が、ちょっとした芸でも披露してみろ。瞬く間に人混みが出来ちまうってぇ寸法だ。


 ──こんなふうにな。


 俺は店の前に出来た人の塊を見て、うんうんと頷いた。ま、俺の手にかかりゃあざっとこんなもんよ。ひぃ、ふぅ、みぃ……三十人ほどは集まったか。殆どの人がスマホで俺を狙ってやがる。気分は大量のスナイパーに狙われた政治家だ。パシャパシャという薄気味わりぃ音を聞きながら、俺は独りごちる。


 ──そりゃ、猫がリズムよくタンバリンなんてぇもんを叩いてりゃ、このくらいは集まるか。


「クロ助、あんたそんな特技があったんだねぇ。すごいねぇ」


 雑貨屋の婆さんの優しい声を聞き、俺は婆さんお手製ミニタンバリンを横にそっと置く。さ、第一段階は上手くいった。次は集まった人に商品を買わせねぇとな。


 俺は店の中にしゅっと入り、お客様方に売りつける商品を物色する。店内の商品は全て婆さんの手作りで、素朴な温かみがある。そのおかげか、はたまたオレンジ色の間接照明のおかげか、店内に入ると同時になんだか懐かしい気分になっちまった。


 だが今は感傷に浸っている場合じゃあない。お客様方が逃げちまうからなぁ。さてと、どれにするかなぁ。集まってる人は女性が多かったし……よし、決めた。


 俺はビーズを使ったブレスレットと、パワーストーンを使ったネックレスを引っ張り出してきた。もちろん、口にくわえるなんてマネはしちゃいねぇぜ? そんなことしたら商品がダメになっちまうからな。俺はそういうのに気を使える、できる猫なのさ。


 ブレスレットを頭に、ネックレスを背にのせた俺は集まったお客様方の中で売りつけやすそうな人を探す。んー、やっぱりここは子供だな。俺は最前列にいた五、六歳の女の子に近寄り、ブレスレットを差し出す。


「にゃーん」

「猫さん……? わぁ、きれい!」


 女の子がブレスレットを受け取り、それを太陽に透かして目を輝かせる。


「気に入ってくれたかい? それは婆の手作りなんだよぉ」

「お婆さんが作ったの? 凄い! 私にも作り方教えて!!」

「構わんよ。婆も暇しとったしのぉ」


 本当に嬉しそうに、優しい笑顔を浮かべる婆さん。たがそれで満足してもらっちゃあ困るぜ? 俺は今度は中学生くらいの女の子にネックレスを渡す。


「にゃおーーん」

「クロにゃん、私にはこれ? わぁ、可愛い! お婆さん、これください!」

「はいよぉ、七百円だよ」

「そんなに安いんですか!?」

「なに、しがない婆が手慰みに作っただけじゃからの」

「あの、お婆さん、もし良かったらこれの作り方教えてくれませんか?」

「もちろん構わんよ。こんな婆の相手をしてくれるなら大歓迎じゃ」


 人間ってのは不思議なもんで、人が買う姿を見ると自分も欲しくなっちまうもんなのさ。流れに逆らえない生き物とでも言うのか、とにもかくにも二人の女の子に続くようにしてお客様方は次々に店に入っていき商品を買っていく。

 中には女の子達と同じように、婆さんに作り方を乞うやつまで現れた。


「にゃーーん」


 ふっふっふっ、計画通りってやつだな。俺の狙いは商品を買わせることじゃなかったのさ。そもそも婆さんは商品が売れないことを嘆いてたわけじゃあないからな。お客が来ないのが、人と関われないのが悲しかったってぇわけさ。つまりは婆さんが求めてたのは金じゃなく人との繋がり、その温かみなのさ。


 だから商品を買わせるだけじゃあ足りねぇ。その後も続く関係じゃないと意味が無い。見てみろよ、あの婆さんの満足そうな顔。シワだらけの顔をさらにしわくちゃにしてやがる。モナリザも真っ青の最高の笑顔だな。


「ありがとうねぇ、クロ助」

「にゃん」


 いいってことよ。俺はただ恩を返しただけなんだからな。だから婆さんも他の誰かに恩を返してくれりゃ、それでいい。


 そうは言いつつも、俺は自分の手をじっと見つめる。何も起こらない。ま、そりゃそうか。このくらいじゃ俺が受けた恩は返せねぇ。そもそも今のは女子高生のくれた猫缶の恩返しだしな。


 さてと、これで恩返しは終わったんだ。そろそろ行きますかね。


「にゃん」


 あばよ。俺は婆さんに別れを告げると、てくてく目的地のない旅を再開した。俺は根無し金なし風来坊っと。いや、この辺りに住んでるから根はあるんだがな。気分だ気分。


 歩くことしばらく、見覚えのある店があった。

 決して大きくはないが、壁が綺麗に塗られていて清潔さを感じさせる店だ。大きな鍵の形の看板が、ここは鍵屋だと主張してきやがる。


 俺が一年前住んでいた家だ。もっとも、俺が住んでいた頃はもっと汚れていて、潰れかけって感じだったがな。


 店の前を通り過ぎる時、中に居た店主と目が合っちまった。店主は俺を見つけると、わざわざ店の外に出てきた。店主ははるか頭上から俺を見て、薄く笑いをうかべる。


「頑張れよ」

「……にゃあん」


 店主の励ましに、俺はおざなりな返事を返す。この店主は俺の恩人なんだが……素直に感謝出来ない。何故かって? ……まぁその辺はちぃとばかし複雑なんだ。あれだ、大人の事情って奴だ。


 俺は鍵屋を足早に通り過ぎ、止まっていた車の影で足を止めた。地面に寝転がり、空を見上げた。さっきまで意気揚々ときらめいていた太陽は、今はすっかり重苦しい雲に覆い隠されている。


「にゃあ……」


 もうあれから一年か。そろそろ、何とかしねぇとなぁ。いつまでもホームレスキャットでいるわけにゃいかねぇ。家を、見つけないと。


 とは言ってもなぁ、そんな都合良く見つからねぇよなぁ。でもこのままじゃあなぁ。うーん、どうしたものか。


 おっと、うだうだしているうちに結構時間が経っちまったみてぇだ。太陽は相も変わらず分厚い雲の鎧を纏ったままだが、内側から鎧を赤く染めている。黒と赤が入り交じったような空はどことなく気味がわりぃ。


 その時、分厚い鎧に切れ目が生まれ、そこから赤の光が零れ落ちて道を照らした。照らされた道には五、六才の女の子。さっき、雑貨屋の婆さんにブレスレットの作り方を習おうとしていた子だ。


 手には何やら小さな紙袋を持っている。あれか、婆さんに習って作ったブレスレットか。でもそれならなんで紙袋なんかに? 腕に付けて帰りゃあいいだろうに。何より奇妙なのはその表情だ。雑貨屋で見せた無邪気な顔はそこにはなく、接着剤で固められたように硬い表情をしている。


 ……やる事もねぇし、ついて行ってみるか。もしかすると家が見つかるかもしれねぇしな。


 俺はストーキングを開始した。抜き足差し足忍び足。まぁ、そんなことする必要ねぇんだけどな。何故かって? そりゃ、俺が猫だからさ。俺の足にゃ立派な肉球ってぇ消音グッズがあるんだから、音は鳴らねぇのさ。


 潜入スパイの気分で楽しくストーキングをすること五分ほど。女の子はボロっちいアパートに入っていった。錆び付いた階段を上り、所々塗装が剥げた廊下を歩き、二〇三と書かれたプレートのある扉の前で足を止めた。

 ポケットをまさぐり、鍵を取り出すとガチャりと鈍い音を立てて鍵が開く。


 あぁ、ダメだな。今の音からするに鍵穴が錆びてやがる。まったく、ちゃんと手入れしないと開かなくなっちまうぞ? 手入れしてやりてぇが、猫の俺じゃ無理だよなぁ。早めにどっかの鍵屋にでも頼んで手入れして貰えよ?


 まぁ、当然俺の声が聞こえるはずもなく、女の子は扉を開けた。軋む音をたてながら扉が開き、女の子は家の中に入った。


 俺は扉の横の小窓からこっそりと家の中を窺う。気分はさながら、色んな事件を覗き見る家政婦だ。


「ただいま……」


 女の子が小さな声でぽつりとつぶやく。その声は頼りなさげで微かに震えていた。両手で持った紙袋がくしゃりと音を出す。


 すると、家の奥から足音が近づいてきた。それと同時に酒の匂いも漂ってきやがる。あぁくせぇ。廊下の角から姿を現した足音の主は、男だった。年齢から判断するに、この女の子の父親だろう。


「ちっ、こんな時間まで何してやがった。愛衣」


 男は見て分かるほどに酔っていた。真っ赤な顔にふらつく足元。手には酒瓶を握りっぱなしだ。ったく、ダメな大人の見本みてぇじゃねぇか。親が子供に見せていい姿じゃねぇぞ。


「ごめんなさいお父さん……あの、これ……」


 女の子、いや愛衣ちゃんはビクつきながらも手に持った小さな紙袋を差し出した。


「ぷ、プレゼント……。明日、お父さんの誕生日だから……」

「あぁ? そうだったか?」


 男は紙袋から中身を乱暴に取り出しやがった。出てきたのはビーズでできたブレスレットだ。少しいびつなのは、愛衣ちゃんの手作りだからだろうよ。

 可愛らしいそれは、大人の男にゃ不似合いだろうが、世の中の父親にとっちゃ、最高のプレゼントのはずだ。なにせ、可愛い娘の手作りなんだからな。


 だが、こともあろうにこの男は、ブレスレットを引きちぎって愛衣ちゃんに投げつけやがった。


「こんなもん付けられるか!! 要らねぇよ!!」

「痛っ、ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 愛衣ちゃんはほっぺたを抑えて蹲り、涙ながらに謝り続ける。それを見た男はさっと顔色を変えた。さっきまでが熟れたトマトだとしたら、今はさしずめ大根、いや、モヤシだな。顔を真っ白にして焦りで彩っている。


「わ、悪かった愛衣。痛かったよな、ごめんな。ごめんな」

「ぐすっ……ぐすっ……」

「ごめん。ほんとにごめん。酒飲むと頭に血が上って抑えられなくなるんだ。ほんとにごめんな。プレゼントありがとうな」


 男は愛衣ちゃんを抱きしめながらぶつぶつ呟くように謝る。


 ……あれか、酒で人格が変わるってやつか。んで、暴力を振るったあとに後悔して謝る、でもまた繰り返す。テレビで見たことのあるDV夫ってやつだな。愛衣ちゃんからすると虐待父親か? 愛衣ちゃんの様子からして、多分こんな事がよくあるんだろう。ったく、本当にダメな男だな。


 愛衣ちゃんが可哀想でならねぇ。仕方ねぇ、ここは俺が何とかしてやるとするか! もしかすると家が手に入るかもしれねぇしな。


 まずは情報収集からだな。とは言っても今日はもう日が暮れちまった。こんな中情報収集するってぇのはちぃとばかし無理があるか。仕方ねぇ日を改めよう。


 俺はいつもの寝床に戻った。わざわざ寝床に戻らなくたって好きなとこで寝ればいいじゃないかって? おいおい猫にも社会ってもんがあるんだ。人様の縄張りを犯しちゃまずいのさ。


 それじゃまぁ、明日は早いし、今日はもう寝るとしますか。おやすみなさいっと。

 大欠伸をひとつ。俺は夢の世界へと落ちていく。



 目が覚める。


「にゃおーん」


 いつものように一声鳴く。ぐぐぅっと伸びをしながら太陽の位置を確認する。良かった、まだ早朝だ。


「にゃん」


 さてと、行きますか。愛衣ちゃんを救うために情報を集めなきゃならねぇんだ。


 俺は昨日行った愛衣ちゃんのアパートへと向かう。道に迷うなんてヘマはやらかさねぇぜ? この周辺は俺の庭みてぇなもんだ。迷うわけがねぇ。何せ、猫ってのは暇なのさ。毎日ふらふら歩き回ってりゃ嫌でも覚えるってもんだ。


 よし、到着っと。俺はアパートのゴミ捨て場で足を止めた。ここが目的地だ。何故かって? そりゃ、ゴミ捨て場と言ったら井戸端会議の場所だからさ。

 情報を集めるってんなら井戸端会議がうってつけだ。何せ俺は聞き込みなんて出来ねぇんだからな。猫だからさ。


 とはいえそう都合よく愛衣ちゃんの親父の話が出るとは思えねぇ。ちぃとばかし細工をしねぇとな。


 俺はゴミ捨て場にある酒瓶やビールの缶を一箇所に固める。はぁ、疲れたぜ。猫の体でやることじゃねぇな、こりゃ。くわえて運んだから、顎がいてぇや。


 おっと、足音だ。どうやら来たみたいだな。足音は……三つか。十分だな。俺は物陰に身を隠す。スタンバイオーケーだ。それでは存分に井戸端会議をしてもらおうじゃあないですか。


「うちの鍵、もうダメね。この前なんか鍵開けるのに五分もかかっちゃったわ」

「あら、それならこのアパートの近くの鍵屋さんに見てもらったら?」

「え、あの鍵屋? いやよ、あんな汚い店。それに店主もすごく変わり者じゃない」


 おいおい、俺の前の家を散々に言ってくれるじゃあねぇか。文句を言いてぇが、口から出るのはにゃーという猫の言葉だけなんだよなぁ。諦めるしかねぇな。


「知らないの? 一年前に綺麗に改装したのよ。それと同時に店主も人が変わったみたいに優しくていい人に変わったのよ」

「あ、それ私も聞いたことあるわ。サービスいいらしいわよ」

「本当? それなら行ってみようかしら」


 そこで主婦の方々はゴミ捨て場にある、大量の酒のゴミを見つけた。顔が露骨に嫌そうに歪む。


「このゴミ、多分高橋さんの所のよね」

「そうね、高橋さん以外、お酒をこんなに飲む人いないし」

「高橋さんねぇ、奥さんを亡くしてから変わっちゃったわよねぇ」

「前までは奥さんと愛衣ちゃんと三人、仲良さそうな家族だったのに、今じゃ仕事も辞めて酒浸りだものねぇ」

「奥さん、交通事故でお亡くなりになったんですってね。だから、慰謝料とかで生活には困ってないみたいですけど、愛衣ちゃんが可哀想よねぇ」


 お、あの男、高橋って名字なのか。ふぅん、奥さんがねぇ。そりゃ確かに辛いんだろうが、酒に溺れて娘に当たるってぇのは看過できねぇ。でもまぁ、そうだな。誰か一人でも話を聞いて支えてくれるやつがいりゃあ、また何か違ったのかもなぁ。

 家族なり近所の人なり、誰か一人でもいりゃあ……はぁ、まったく、近頃は人との縁が薄くていけねぇ。


 事情はわかった。後は当人同士の気持ちを知らねぇとな。でないと拗れちまうかもしれねぇからな。俺はその辺よく分かってる猫なのさ。


 二〇三号室にやって来た。玄関横の小窓は鍵がかかっていなかった。ったく、不用心だなぁ。俺は小窓からシュタッと侵入。こういう時、猫っていいよな。見つかったって警察のお世話になることもねぇ。


 さてさて、まずはこの部屋に入ってみるか。おっと、ここは愛衣ちゃんの部屋か。いや、部屋の中の物から考えると、母親と愛衣ちゃん二人の部屋ってところか。

 愛衣ちゃんはダブルベッドの端っこに縮こまって寝ている。ったく、あの男は酒が入ってなくてもダメなやつだな。娘をこんなに寂しがらせるなんて。愛衣ちゃんはピーマンでも食っちまったような表情をしている。嫌な夢でも見てんのかねぇ。


 おっと、レディの顔を見つめるのは紳士じゃあねぇな。さっさと探索を済ませるか。俺は机や引き出しを手当たり次第に探ってみる。当然、荒らしたりはしてねぇぞ? 俺は紳士な猫なのさ。


 お、あったあった。俺は「にっき」と書かれた可愛らしいノートを見つけた。躊躇いもなく日記を開く。愛衣ちゃんに悪いと思わないのかって? まぁだって俺、猫だしな。てことで、日記を一通り読んでみた。拙い字だが思いってもんが篭もった日記だった。昨日のページに書かれた言葉に一番思いが篭っていた。


『だいすきなおとうさんが、かえってきますように』


 あぁ、これは、何とかしてやらねぇと。愛衣ちゃんはまだ、あんな男を好きなんだな。いつかは元に戻ってくれると思って信じてるんだな。あんな男でも、愛衣ちゃんにとっちゃあ、唯一無二の父親ってぇわけか。


 俺は日記をそっと背に乗せ、別の部屋の探索に向かった。探すのは勿論あの男、いや愛衣ちゃんの父親の部屋だ。

 見つけた。部屋に入ると父親が仰向けで寝ていた。目には薄らと涙が浮かんでいる。……あぁ、そうだよな。こいつも苦しんでるんだ。奥さんが死んで、男手一人で小さい女の子を育てなきゃならなくなって、でも助けてくれる人はいなくて。


 こいつの愛衣ちゃんに対する暴言暴力が許されるわけじゃあねぇが、あれだ、情状酌量の余地ありってやつだ。仕方ねぇ、俺がお前を助けてやるよ。俺は情け深い猫なのさ。


 それに……。俺は机の上のブレスレットにちらりと目をやる。バラバラになったビーズを全部かき集めて、修復したんだろう。


 ──愛衣ちゃんに対する愛情は、残ってるみてぇだしな。


「にゃおーん」


 俺は父親の胸の上に乗って大きく鳴いた。何故かって? そりゃこいつを起こすためさ。


「にゃおーん。にゃおにゃお、にゃおーん」


 さっさと起きろ。この、この!


「う、うぅん……。ねこ……?」

「にゃお」


 そうだとも。プリティーキューティな猫様だ。ほら、さっさと起きろ。


「どっから入ってきたんだ? とりあえず俺の上から降りてくれよ」

「にゃー」


 どうやら酒が入らないと攻撃的じゃあないらしい。はぁ、なら解決策はこいつ自身もわかってんだな。禁酒すりゃいいだけじゃねぇか。

 まぁ、それが難しいんだろうよ。酒だけが唯一こいつを現実から逃がしてくれるってぇわけなんだろ。


 あぁあぁ、おじさんにもよぉくわかっちまうぜ。何せ俺はホームレスキャットなんだからな。逃げたくなる気持ちもわかっちまう。だが、あんたは逃げてちゃいけねぇだろうよ。あんたには愛衣ちゃんがいるんだから。


「にゃ」


 俺は背中にのせた日記を差し出す。ふぅ、落とさねぇように運ぶのは一苦労だったんだぜ?


「これは、愛衣の……?」


 父親がこのツボを買うと幸せになれると言われたような顔でノートを受け取った。俺は父親の胸からシュタッと飛び降りる。男は体を起こし、日記を読み始めた。俺は黙ってそれを見守る。こんな時に、にゃあにゃあ言うほど野暮な男じゃないのさ、俺は。

 程なくして、父親は日記を閉じた。


「愛衣……愛衣……!」


 父親の目からは涙が零れた。日記を抱きしめて、ただただ涙を流した。


 おいおい、何をやってんだ。あんたがするべきなのはそうやって泣きじゃくることじゃねぇだろ。しょうがねぇやつだ。背中くらい押してやるよ。俺は気の利く猫なのさ。


 俺は男の顔に強烈な猫パンチを御見舞してやった。


「痛っ、何するんだ」


 あんたがいつまでも動こうとしねぇからだろ。ほら、行けよ。俺は扉を開け、愛衣ちゃんの部屋を顎で示す。


「あぁ、そう、だな。愛衣と話をしないと。このままじゃ、いけない」


 父親は駆けだした。愛衣ちゃんの部屋に向かって真っ直ぐに。その背中は、あぁ、確かに父親の背中だった。……ちとくさいこと言っちまったな。だがまぁ、これで大丈夫だろう。さてと、結末までしっかり見届けますか。


 俺は開け放された扉を通り、愛衣ちゃんの部屋に入った。父親はベッドの上で愛衣ちゃんを抱きしめていた。愛衣ちゃんは驚きで目をぱちくりさせている。


「愛衣、愛衣! ごめんな、愛衣がこんなにも俺のことを思ってくれていたなんて……。愛衣も母さんがいなくなって辛かっただろうに、本当にごめんな。父さん、お酒やめるよ。仕事もする。愛衣のことを何より大事にする。だから、だから。これからも、愛衣のお父さんでいて、いいかな」

「……! う、うん! お父さんは、私のお父さんだよ!」

「ありがとう、ありがとう……!」


 とうとう愛衣ちゃんまで泣き出しちまった。女の涙を見るのは好きじゃあねぇが、こんな涙ならまた見たい。そんな風に思っちまうくれぇ、綺麗な涙だった。


「そうだ、お父さん。おたんじょうび、おめでとう」

「!! ありがとう、愛衣」


 俺はそのまま、抱き合う二人をずっと眺めていた。しばらくして満足したのか、疲れたのか、父親がようやく愛衣ちゃんを離した。そしてこっちに振り返り、俺を見る。父親の目に、赤い目をした黒猫が映る。


「お前のおかげだ。ありがとうな。おかげで俺はもう一度、父親になれたよ」

「にゃあ」


 礼はいらねぇよ。どうやら俺はあんたに、家を貰っちまうみてぇだしな。


 俺は光り始めた自分の体を見てそう言った。いや、光っているのは俺の体だけじゃあない。父親の体もだ。


「な、何が起こってるんだ!」


 慌てふためく父親をよそに、光はより一層強くなっていく。そして一際強く輝くと、光っていたのが嘘のように消えちまった。


「お、お父さん。今の、何?」

「なんでもねぇよ、愛衣ちゃん。いや、なんでもないよ、愛衣」


 俺は俺に抱きついている愛衣ちゃんにそう答えた。そして後ろにいる猫を見る。真っ赤な眼をした黒猫だ。黒猫は何が起きたかわからず困惑している。一年前のことを思い出し、笑いそうになっちまうが、堪える。ここで笑っちまうほど、俺は薄情な猫、いや薄情な人間じゃないのさ。


 俺は黒猫の耳元に顔を寄せ、囁いてやる。一年前に俺があの人から聞いたセリフを、一言一句、違えることなく。



 情けは人の為ならず

 受けた恩は返さにゃならぬ

 救われたなら誰かを救え

 恩の輪っかがぐるぐるぐーるぐーるぐる



 黒猫は弾かれるように逃げちまった。あばよ、お前も頑張れよ。愛衣ちゃんのことは俺に任せてくれていい。俺は責任を取れる人間なのさ。


「猫ちゃん、どうしちゃったの?」

「なんでもないさ、愛衣。今日は外に行ってハンバーグでも食べようか」

「うん!!」


 今日もどこかで猫が鳴く。


 にゃんにゃんにゃおーん、にゃんにゃおーん。



お楽しみいただけましたら、感想、評価等よろしくお願いします。また、別の小説を連載していますので良かったらそちらも一読ください。URLは下にあります。

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下記の小説を連載してますので、是非ご覧ください。 アサシンの僕と魔導師のオレが融合した結果
― 新着の感想 ―
[良い点] むずかしいところもありましたが、黒猫さんがみんなから愛されたり、 時には心の支えになるところが良かったです!
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