705・蒼海の神狗
第705話になります。
よろしくお願いします。
それは、眼が退化して潰れた巨大なウツボのような魔物だった。
体長は約12メード。
皮膚の色は、まるで人間みたいな肌色。
表面には、筋肉の盛り上がりと血管の筋が薄紫色に見えている。
鋭い牙の羅列が薄闇の海中で鈍く光り、軟体性を感じる細長い身体は、まるで蛇みたいにとぐろを巻いて天井付近の壁に張りついていた。
(――やばい)
そう直感した。
この海域にいるのは、大抵、5メード以下の魔物だ。
それで戦闘になるのは避けたくなるぐらいの脅威なのに、ここにいるのは、その2~3倍のサイズなのだ。
しかも、強い『圧』がある。
強者の証。
生物としての格は、人間よりずっと上だと感じさせる存在感だ。
ズル……ッ
その巨体が解けるように動いて、こちらに頭部が向いた。
眼はない。
でも、僕らを認識している。
匂いかな?
それとも、エコーロケーションみたいな器官があるのかも……?
どちらにしても『魔物除けの香草』は、コイツには効いていない様子だった。
(どうする……?)
戦うか、逃げるか。
武器を構えながら、判断に迷う。
すると、キルトさんは黒い槍斧を巨大ウツボの魔物へと向けながら、反対の手で床の亀裂を指差した。
(!)
撤退の指示だ。
僕らは頷き、魔物に背を向けないように注意しながら、ゆっくりと亀裂に近づいた。
ビリッ
英雄の鬼姫様。
その発する圧力は、巨大ウツボの魔物にも警戒を抱かせるに充分だったみたいだ。
魔物はすぐに襲ってこない。
ジッと、僕らを観察している。
その隙に、僕らは亀裂へと辿り着き、その中へと潜り込んだ。
まずポーちゃん。
続いて、ソルティス。
その次に僕は、イルティミナさんの白い手に押し込まれるようにして亀裂を潜った。
(2人も、早く!)
亀裂を出て、すぐに振り返る。
5秒ほどして、イルティミナさんが長い髪をなびかせながら現れた。
そして、直後、キルトさん。
でも、彼女は亀裂を抜けた瞬間、その部分に向けて槍斧を鋭く突きだした。
ヒュボッ
水中でも鋭い刺突。
直後、亀裂の隙間に強引に巨体をねじ込みながら、巨大ウツボの頭部が現れ、そこにキルトさんの槍斧の刃が突き刺さった。
紫の鮮血が海中に広がる。
ゴゴォン
けれど、その程度の傷など気にしないとばかりに、魔物は亀裂を通り抜けた。
『……くっ』
体格の差もあって、逆にキルトさんが弾かれる。
槍斧が魔物から抜ける。
皮膚には、浅い裂傷のみ。
思った以上に皮膚が厚く、筋肉の密度も高いみたいだ。
(キルトさん!)
僕らは慌てて、吹き飛ばされてきた彼女の身体を4人がかりで受け止めた。
彼女の表情は厳しい。
水中戦では勝てない――そんな顔だ。
幻想的な海草の光が揺らめく空間で、僕ら5人は、巨大ウツボの魔物と数秒間、睨み合った。
勝てないなら、逃げるしかない。
海上で待っている漁船まで辿り着けば、あるいは勝機が掴めるかもしれない。
『逃げよう!』
僕はそう意思を込めて、みんなを見た。
みんなも頷く。
僕らは反転して、この広間のひしゃげた扉へと泳いだ。
扉の隙間を抜け、
ズゴォン
直後、そこに巨大ウツボの頭部がぶつかった。
(う、わ……)
少しでも遅れていたら、危なかった。
けど、安心もできない。
軟体性のある身体だからか、巨大ウツボの魔物は、人1人分の大きさの隙間を強引に潜ろうとしていた。
(ここも通れるの!?)
なんて厄介な……。
その事実に蒼白になりながら、僕らは螺旋通路を必死に下降する。
あの魔物が、その巨大さで隙間を通り抜けるのに苦労している間に、少しでも距離を稼がなければならない。
早く、早く!
必死に足を動かし、壁を手で押しながら泳ぐ。
コポコポ
顔を覆う気泡も小さい。
水中でのタイムリミットも近いのだ。
酸素の消費量を抑えつつ、けれど、僕らはできる最速で移動する。
命懸けの鬼ごっこ。
セントルーズ湾の海中遺跡では、まさに、そんな生死のかかった逃走劇が開始されていた。
◇◇◇◇◇◇◇
(――出口だ!)
やがて、僕らがこの塔へと入って来た通路の亀裂に辿り着いた。
すぐに、そちらに泳ぐ。
その時、イルティミナさんがハッとしたように背後を振り返った。
(!)
僕も、気配に気づく。
海中で音もなく、巨大ウツボの魔物が暗い通路の奥からズルリと姿を現したんだ。
――追いつかれた。
悔しさと恐怖、2つの感情が湧く。
僕は左右の手にある剣を構え……けれど、キルトさんの槍斧でもダメージを与えられなかった相手に、ほぼ意味がないことも理解していた。
ソルティスは杖を握り締め、ポーちゃんがその前に出る。
キルトさんも再び槍斧を構えた。
そして、イルティミナさんは覚悟を決めた顔で、水中にあるその口が小さく文言を紡いだ。
『――羽幻身・七灯の舞』
そう唇が動いた。
直後、彼女の瞳と『白翼の槍』の魔法石が真紅の輝きを放ち、そこから無数の光の羽根が噴き出して、7本の『光の槍』を海中に生み出した。
ビシュッ
イルティミナさんが自身の槍を突き出す。
それに合わせて、7本の『光の槍』は海中を走って、巨大ウツボの魔物へと直撃した。
ドパパァン
魔力爆発が発生する。
(う、わ……っ!?)
水中を伝わるその衝撃波は、僕らの身体を簡単に吹き飛ばした。
背中を通路の壁にぶつけ、止まる。
い、痛い……。
けど、そんな場合じゃない。
痛みを無視して顔をあげ、するとそこには、粉塵の舞う海中の景色だけが広がっていた。
魔物は……?
そう思った瞬間、
ボバァッ
(!)
その粉塵を抜けて、巨大なウツボの頭部が鋭い牙の並んだ口を大きく開けて、こちらへと突っ込んできた。
まずい。
水中ではかわせない。
僕は顔を強張らせ、
『――ポオッ!』
その突進してくる魔物の横っ面に、金髪幼女の掌底がぶつかった。
パァン
水中に神気の波紋が広がる。
ウツボの頭部は弾かれて、通路の側面に激しくぶつかった。
(ポーちゃん!)
神界の同胞の助けに、僕は歓喜の心の声を叫ぶ。
けれど、彼女は渋い顔だ。
そんな僕らの眼前で、弾かれた巨大ウツボの魔物は、まるで軽い脳震盪を受けただけの様子ですぐに動き出していた。
(……嘘だろ?)
ほとんど、ダメージになっていない。
よく見たら、先程のイルティミナさんの7本の『光の槍』による攻撃も、多少、皮膚からの出血を起こさせているだけだった。
そんなに頑丈なのか……?
いや、違う。
水中だから、威力が減衰してしまうんだ。
キルトさん、イルティミナさん、ポーちゃん、その人類最強格の3人の攻撃が、けれど水中では大きく弱められてしまう。
結果、この魔物が倒せない。
やはり、水中ではどうしようもない。
そう思い知らされる。
その時、僕の手をイルティミナさんが、ポーちゃんの手をキルトさんが掴んで、塔の外壁の亀裂へと引っ張るように泳いだ。
見れば、亀裂の外にソルティスがいる。
僕らも外に出た。
すると、ソルティスは『竜骨杖』の魔法石を輝かせて、亀裂へと向けた。
ビキビキッ
塔の外壁から太い木の枝が生えてきて、それは絡み合いながら、あっという間に亀裂を塞いでしまった。
上手い。
これで、魔物は閉じ込められた。
と思ったけど、
ベキン
直後、魔物が体当たりをしたのか、その太い枝たちが大きくひしゃげた。
(うわ……)
これは、駄目だ。
多分、時間稼ぎにしかならない。
ソルティスは悔しそうな顔だ。
でも、この少しの時間でも利用して、僕らは海の上を目指して泳ぎ出す。
間に合うか……?
そう危惧したのも束の間、
ベキキィ……ッ
巨大ウツボの魔物は、ほんの5秒ほどでソルティスの魔法を打ち破り、塔の外の広い海中へと出てきてしまった。
(早すぎる!)
海上まで30メード。
とてもではないけど、逃げ切れない。
どうする?
どうしたら……?
必死に泳ぎながら、けれど、見る見る内に魔物は僕らに追いすがり、直前まで迫っていた。
これ以上、抗えない。
(……死ぬ?)
その予感が強く、僕の脳裏を支配する。
4人の顔にも、絶望に似た感情が宿っていた。
その時、
リィン
小さな音色が聞こえた。
(え……?)
つられるようにふと顔をあげると、海の上から虹色に輝く『何か』が落ちてきていた。
それは、小さな球体だ。
(あ……)
僕は気づく。
同時に、そちらへと手を伸ばした。
パシッ
その虹色の球体は、この広い海の中、けれど、確かに僕の手の中へと辿り着いた。
(コロ!)
僕は歓喜する。
この虹色の球体『神武具』は、意思のある武具だった。
海上の漁船の僕の荷物の中に残しておいたけれど、僕の危機を察して、自分から僕の所まで来てくれたのだろう。
コロコロ、と。
勝手に甲板を転がり、海へと移動する球体には、漁師さんたちも驚いたかも知れない。
けど、
(これさえあれば……)
僕の両手は、球体を握り締める。
そのせいで、僕だけ泳ぎが止まっていた。
4人は先に進み、気づいたイルティミナさんが焦った顔で何かを叫び、僕へと手を伸ばした。
そちらに顔を向け、僕は笑う。
その背後からは、大きな口を開けた巨大ウツボの魔物が迫り、
バクゥン
小さな僕の身体を飲み込んだ。
…………。
時が停まったように、大切な4人の仲間は目を見開いて、その光景を見つめていた。
魔物は、僕を嚥下する。
でも、その動きが止まり、それ以上、4人を追うことはしなくなった。
逆に、その場で苦しそうに長い身をくねらせ、
ゴポゴポ
たくさんの気泡が周囲に溢れた。
そして、およそ10秒後、
ドパァアン
その細長い12メードの巨体が引き千切れ、海中に紫色の血液が大量に広がっていった。
4人は唖然となる。
その視線の中央、魔物の死骸の中心には、『虹色の外骨格』に身を包んだ人型の狗――すなわち、変身した僕の姿があった。
両手には、神化した2つの剣。
それは魔物の血に汚れ、すぐに海水に流されていく。
(ふぅ……)
間に合った。
僕は、安堵の息を吐く。
神気開放・究極神体モードの発動は、飲まれる寸前、ギリギリで完了していた。
…………。
魔物の死体は、海底へと落ちていく。
そこにある遺跡群。
その海中の古代都市にいた無数の魔物たちは、血の臭いに誘われたのか、すぐに気づいて死体に群がった。
ビチチッ ブチブチ
あっという間に肉片が千切れ、咀嚼され、骨だけになってしまう。
30秒ほどの狂乱。
それが過ぎれば、海はまた穏やかな様相を取り戻す。
それを見届け、
リィン
僕は『虹色の外骨格』を光の粒子に分解し、再び『虹色の球体』として、その手に握った。
(……うん)
ありがとね、コロ。
心の中で、深く感謝を伝えた。
すると、球体の表面に、嬉しさを示すような光の波紋が広がった。
あは……。
僕は、つい笑った。
そうして顔をあげると、すぐに僕の方へと泳いでくる4人の人魚みたいな美女たちの笑顔が目に映った。
ギュッ
『マール!』
誰よりも先に辿り着き、僕を抱きしめてくれるイルティミナさん。
(うぷっ)
大きな胸の谷間に、顔が埋まる。
白い水着の布越しなので、いつもより感触もダイレクトだった。
ドキドキ
さっきとは別の意味で、鼓動が速くなる。
キルトさんの手が、水中で僕の髪を乱暴にかき回した。
ソルティスが笑いながら、
ペチッ
水の抵抗を感じる平手打ちを僕の背中に落とし、ポーちゃんも真似をしてペチッと続けざまに叩いた。
そんなみんなに、僕も笑った。
イルティミナさんの美貌も、優しい微笑みを湛えている。
その奥にある海面からの揺らめく光が、まるで後光のようにその美貌を彩っていた。
…………。
静謐な青い海。
その美しく広がる雄大な空間を、やがて、僕ら5人は光の降り注ぐ上方を目指して、ゆっくりと昇っていったんだ。
ご覧いただき、ありがとうございました。
次回更新は、来週の月曜日を予定しています。どうぞ、よろしくお願いします。
またマールのコミカライズ第6話が本日(22日)公開予定となっています。
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