640・大人になって
いつもより更新時間が遅れてしまいました。申し訳ありません!
それでは、第640話です。
よろしくお願いします。
王都での買い物を終えて、僕とイルティミナさんは夫婦の家へと帰ってきた。
外は夕暮れだ。
遠い西の山脈に太陽が沈み、王都の街にはポツポツと家々に光が灯り始めていた。
僕らも自宅の照明を灯して、2人で台所に立って、買ってきたばかりの食材も使って夕食作りを行った。
作るのは、基本、イルティミナさん。
僕は手伝い。
彼女に言われるままに、肉や野菜を切ったりして、水の沸騰したお鍋に投入する。
最初は根菜、次にお肉。
しばらく煮込み、出てきた灰汁を取って、出汁を入れて、葉物野菜などを投入して、またしばらくグツグツと……。
魚介系の醤油などの調味料を加えて、味を確認。
(うん、悪くない)
イルティミナさんにも味見してもらって、彼女は「もう少しだけ味を調えましょう」と更に調味料を加えた。
そして味見。
(わ……凄い)
これだけで味の輪郭がはっきりして、もっと美味しくなった。
さすが、イルティミナさん。
彼女は「ふふっ」と微笑み、手早く他の料理も作っていった。
…………。
やがて食卓には、肉と野菜のスープとバターで炒めたライス、茸とソーセージスライスの生サラダ、デザートにフルーツ盛り合わせヨーグルトが並べられた。
盛り付けも丁寧で、品がある。
うん、レストランで出てくる料理みたいだ。
僕とイルティミナさんは『いただきます』と手を合わせて、その日も食事を楽しんだ。
もちろん、僕の奥さんの料理は最高でした。
夕食後、後片付けをしてお茶も楽しみ、少し談笑してからお風呂に一緒に入った。
浴室で、
「あら? 指輪をつけたままなのですね」
と、奥さんに気づかれた。
昼間、買い物の時に買った指輪のことだ。
早く大人になって背が高くなりますように……という願いが叶うようにって、お守りみたいにずっと身に着けていようと思ったんだ。
そう言ったら、
「マールは今のままでも、充分、素敵ですよ?」
って、イルティミナさんは濡れた指で、僕の背中をスゥッと撫でながら、おかしそうに微笑んでいた。
でも、指輪を外せとは言わなかった。
きっと、僕の気の済むように、と見守るつもりなんだろう。
やっぱり、僕の奥さんは優しい。
僕も笑いながら、指輪を填めたままにしておいた。
…………。
ちなみにお風呂では、2人とも裸だったので、そのまま夫婦としての営みも楽しんでしまった。
うん、気持ち良かったです……。
やがて、夜空には紅白の美しい月たちが輝いた。
もう就寝の時間だ。
僕とイルティミナさんは、いつものように夫婦の寝室で、僕が抱き枕になってベッドに横になった。
ちなみにこの部屋は、結婚前はイルティミナさん1人の部屋だった。
今は僕も、ここで寝起きしている。
結婚前の2階にあった僕の部屋は、今は僕の絵を描くためのアトリエであり、そのための道具や描いた絵の保管室になっていた。
閑話休題。
僕らは「おやすみなさい」と言葉を交わして、目を閉じた。
チュッ
イルティミナさんが僕の髪にキスを落とす。
これも、いつものことだ。
そうして彼女の甘やかな匂いと体温に包まれながら、僕は安らいだ心地で眠りについた。
…………。
…………。
…………。
ふと、目が覚めた。
窓の外は暗く、まだ夜中なのは明白だった。
何だか今日は身体が熱い。
まるでお風呂に入ったあとみたいに、ちょっと火照っている感じだった。
(……トイレ、行ってこよ)
奥さんを起こさないよう注意して、僕はベッドから抜け出した。
……ん?
なんか、歩くと違和感がある。
もしかして、風邪でも引いてしまったのかな?
でも、そんな感じでもない。
まだ眠気もあったからか、深く考えずにトイレに向かって、用を済ませた。
ジャアア……
トイレを流し、併設された洗面所で手を洗う。
その時だった。
(あれ?)
僕の指が妙に長い。
というか、洗面台の蛇口がいつもより遠く感じる。
え……何これ?
あまりに違和感が強かったので、月明かりだけを頼りにしていたけれど、思い切って照明を点けた。
パッ
白い光が洗面台を照らす。
洗面台には、鏡があった。
そこには当然、自分の姿が映っていて、
「…………」
それを見た僕は、思いっきり目を見開いて、自分自身の信じられない姿を凝視してしまった。
な、ななな……!?
「何だこれぇええええええええええっ!?」
思わず叫んだ。
夜中であることは、もはや完全に頭から忘れていた。
近所迷惑甚だしい。
でも、その時の僕には、それを気にする余裕もなくて、ただ、ペタペタ……と自分の顔や身体を触って確かめることに夢中だった。
タタタッ
すると、廊下から迫る足音が聞こえた。
ズギュッ
白煙を上げるような勢いで急停止したイルティミナさんが、廊下から洗面所に飛び込んできた。
焦った美貌で、
「大丈夫ですか、マール!? 今の叫びはいったい何があ……ったの、で……?」
問い質すその声が萎んだ。
彼女の前には、僕がいた。
その僕を見て、イルティミナさんは呆けた顔をしていた。
僕は泣きそうだ。
「……イルティミナさん」
その名を読んだ。
いつもの自分の声とは少し違って、低めの声だ。
でも、彼女は気づいた。
気づいてくれた。
「まさか、マール……なのですか?」
そう聞かれる。
僕は「うん」と頷いた。
鏡に映り、驚く彼女の前にいる僕の姿は、いつもの少年ではなかった。
手足は長く、太くなった。
身長も20センチは伸びている。
そう……。
そこにいたのは、18歳ぐらいの外見にまで成長した僕――すなわち、大人になったマールだったんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
「……指輪の力は本物だったのですね」
深夜のリビングに移動して、大人になった僕をまじまじと見つめながらイルティミナさんは呟いた。
その瞳には、まだ困惑があった。
いや、僕もそうだよ。
僕の茶色い髪は肩まで伸びていて、首筋がくすぐったい感じ。
手足も長くなって、歩いたり、物を触ったりする時の遠近感もおかしくなっているんだ。
でも、ちゃんと自分の身体だ。
思わず、両手の指を閉じたり、開いたりしてしまう。
あと、子供の服だときつかったので、服はイルティミナさんのシャツとズボンを借りている。下着は……聞かないで。
(どうしよう?)
確かに大人の身体になりたいと思ったけれど、まさか本当になるとは思わなかった。
「元に戻れるのかな?」
不安になり、呟いた。
イルティミナさんは少し考え、
「その指輪を外せば、どうですか?」
(あ)
僕は、相当焦っていたらしい。
そんなことも思いつかなかった。
思い切って外そうとして、
ギュッ
(う……っ?)
でも、指も大きくなったからか、指輪はきつくて抜けなかった。
イルティミナさんは「あら?」と呟き、
「血流は止まっていないようですが、食い込んでしまっていますね。……どうしてもというならば、指輪だけ斬って壊してしまう手もありますけれど」
と言った。
…………。
そこまで言われて、僕は考え込んだ。
指輪を壊す。
それは言い換えれば、もう2度とこの大人の姿になれないということだ。
なれるのは、10~15年後。
……う、う~ん?
僕は、自分の奥さんを見て、
「あの……もう少し、この姿のままでいてもいいかな?」
と聞いてみた。
イルティミナさんは優しく微笑んだ。
まるで、僕がそう言いだすのではないかとわかっていたみたいな顔だった。
「いいですよ」
そう頷いてくれた。
僕も笑った。
「ありがとう、イルティミナさん」
そうお礼を言う。
いつもの自分の声よりも少し低くて、何だか不思議な気持ちだった。
そして、僕の笑顔を見たイルティミナさんは、なぜだか驚いたような顔をして、その頬がほんのりと赤くなっていた。
白い手を、豊かな胸に当てる。
そして、深呼吸。
「なるほど……これは新鮮ですね」
と、妙に熱そうな吐息をこぼした。
え……?
キョトンとなってしまう僕を見つめて、イルティミナさんは「立ってくれますか?」と言った。
(あ、うん)
僕は素直に頷いた。
ソファーに座っていた僕らは、向かい合うように席を立った。
あ……。
すぐ目の前にイルティミナさんの美貌があった。
ほぼ同じ身長。
いつもなら見上げている彼女の美貌は、けれど今、僕と同じ目線、同じ高さですぐそこにあったんだ。
ドキドキ
鼓動が早くなった。
甘やかな香りが、大人になっても変わらない鋭い僕の鼻に届く。
少し心が痺れた。
イルティミナさんの僕を見つめる真紅の瞳も、先程よりも濡れたような光沢を帯びていた。
その白い指が、僕の頬に触れる。
大人になった僕の顔に。
彼女は、熱い吐息をこぼした。
「その青い瞳の輝きは、やはりマールのままですね……。ですが、可愛らしさだけでなく、いつも以上の凛々しさとたくましさも感じられます」
「…………」
僕は、何も言えない。
イルティミナさんの指は、僕の首を触り、鎖骨を撫で、胸元へと滑っていった。
「筋肉もしっかりとありますね」
彼女は微笑む。
嬉しそうな、寂しそうな、不思議な笑顔だ。
確かに、今の僕は13歳の時とは違って、筋肉の凹凸がはっきりしていた。
ムキムキではない。
でも、しなやかに鍛えられた身体になっていた。
「…………」
僕は、イルティミナさんを見つめた。
彼女の指は、僕の長くなった髪に触れて、からかうようにクルクルと弄んだ。
「ふふっ」
笑みをこぼして、
「そうですね。もうしばらく、今のマールを楽しむのも良いかもしれませんね」
と悪戯っぽく言った。
凄く艶っぽい表情だ。
それには、思わず、僕まで赤面してしまった。
姿は大人になっても、どうやら僕は、この美しくて愛らしいイルティミナさんに魅了され続ける運命らしい。
僕も笑みをこぼして、
「うん、楽しんで」
チュッ
同じ高さになって、し易くなった彼女の唇に軽くキスしてあげたんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、イルティミナさんは朝早くから王都の商業区に行って、大人になった僕の服を買って来てくれた。
面倒をかけてごめんね?
でも、ありがとう。
早速、彼女の買って来てくれた服へと着替えた。
(ん……これでいいかな?)
動き易いシャツとズボン、それに防寒用のセーターだ。それ以外にも、外出用のダウンジャケットも用意してくれていた。
僕の全身を上下に見て、
「とてもよく似合っていますよ、マール」
と、僕の奥さんは微笑んだ。
鏡の前に移動して、僕も自分の姿を改めて見てみた。
身長は175センチぐらい。
顔は大人びて、でも、まだ少年から青年へと変わっている最中みたいに思えた。
……そんなに悪くない顔立ちだと思う。
少し精悍になったかな?
肩まで伸びている茶色い髪は、少し邪魔だったので切ろうかと思った。
けど、
「もったいない! ……駄目ですよ、マール? それはこうして、後ろでまとめておきましょう」
と、イルティミナさんが止めた。
そして、彼女が手ずから僕の髪を触って、頭の後ろで紐で結んでくれた。
ふむ……?
顔を左右に動かすと、鏡の中でまとめられた髪が犬の尻尾のようにフルフルと踊った。
「ふふっ」
イルティミナさんは満足そうだ。
…………。
僕が大きくなった分、イルティミナさんは相対的に小さく見えた。
大人なのは変わらないのだけれど、何と言うか、少女みたいに可愛らしさが増したように感じるんだ。
守ってあげたい……そんな気持ちが強くなる。
成長すると、こんな変化もあるんだね。
なんだか、凄く新鮮だ。
それから、いつものように2人で朝食を作って食べた。
……ん。
いつもの量だと、少し物足りない。
イルティミナさんは「あ……ごめんなさいね」と謝って、すぐに追加を用意してくれた。
僕は「ううん」と笑った。
身体が大きくなれば、消費するエネルギーも増えるし、食べる量も増える――当たり前のことだけど、これも面白かった。
談笑しながら食べる。
手足が伸びたこと、視線の位置が変わったことで少し違和感があったけど、すぐに慣れた。
そんな僕を見つめて、
「何だか不思議な感じですね。同じマールであるはずなのに、私の知らないマールが一緒にいるみたいです」
イルティミナさんはそう呟いた。
僕は「そう?」と首をかしげる。
それを見た彼女は、なぜか少し頬を赤くして、「何と言うか……男の色気のようなものを感じます」とはにかんだ。
そうなんだ?
今までも、男として意識してもらっていたとは思うけど。
でも、改めてそう言われると、僕も少しくすぐったくて、ちょっとだけ恥ずかしかった。
◇◇◇◇◇◇◇
朝食後、僕らは一緒に家を出た。
この指輪のことをより詳しく教えてもらおうと、昨日、老婆さんのいた屋台を訪れたんだ。
でも、屋台があった場所には、何もなかった。
「……場所を移動してしまったのでしょうか?」
イルティミナさんは呟いた。
周囲を探したけれど、見つからない。
近くのお店の人や屋台の人にも聞いてみたら、老婆さんの屋台は昨日の内に移動したらしく、けれど、どこに行ったかは誰も知らなかった。
好きにお店を移動できるのは屋台の便利な点だ。
だけど、今回は困ってしまった。
(ちゃんと元に戻れるんだよね?)
少し心配だ。
でも、戻れなくても困らないといえば困らない。
むしろ、イルティミナさんとお似合いの大人の男になれたのだから、このままでもいいのかもしれない。
そう言ったら、
「…………」
イルティミナさんは困った顔をしていた。
(???)
あれ……?
それには僕も困惑してしまった。
それから僕の奥さんは、「明日、ソルに聞いてみましょう」と言った。
僕がこうなったのは魔道具らしい指輪のせいだから、魔道具に詳しい彼女に聞けば、何かしら解決策も見つかるかもしれない。
ただ、彼女は今、王都にいなかった。
ポーちゃんと一緒に、コロンチュードさんのいる森の家に行っているんだ。
帰るのは、明日の予定。
なので、明日になったらソルティスの家を訪れようということになった。
そうして僕らは、家に帰ることにした。
でも、せっかくここまで来たので、街中をブラブラしながら遠回りをして帰ることにした。
ウィンドウショッピングをしたり、喫茶店に寄ったり。
…………。
背が高くなったせいか、イルティミナさんの顔が近い。
それが嬉しい。
あと、歩く時の歩幅も同じぐらいになったので、ペースも合わせやすくなった気がした。
(……大人の身体っていいな)
心の中で微笑んでしまう。
そうして人混みの中を歩いていると、時々、すれ違う人たちが僕らを振り返ったりしていた。
最初は、イルティミナさんを見てるのかな、と思った。
彼女は美人だ。
だから、僕の奥さんは、すれ違う人たちから注目されたり、時には男性から声をかけられたりすることもあるんだ。
今回もそうなのかと思った。
でも、違った。
(……あれ?)
今、こちらを見ていたのは女の人たちだ。
そして、その視線は僕の方へと向いていて、
「ね? 今の男の人、格好良くない?」
「一緒に歩いている女の人も綺麗だったわね」
「美男美女でお似合いだわ」
「羨ましいわぁ」
「ね~?」
そんな会話が聞こえてきた。
…………。
え? 格好いいとか美男って、僕のこと?
僕は愕然とした。
男としてこの世に生を受けて、見知らぬ女性から初めてそんな評価をされたんだ。
う、嬉しい。
自分にそんな時が来るなんて、思っても見なかった。
ちょっと感動だ。
そうして、ジ~ンとその余韻を味わっていると、
ギュッ
(アイタッ!?)
突然、お尻に痛みが走った。
見れば、イルティミナさんが可愛らしく頬を膨らませて、白い指で僕のお尻をつねっていた。
「どこを見ているんです、マール?」
拗ねた声。
え、イルティミナさん?
彼女は、僕を見つめた。
「貴方は、私の夫。他の女性の言葉などに耳を貸さず、ただ私だけを見ていればいいんです。……わかりましたか?」
「…………」
もしかして、嫉妬?
僕が他の女性に褒められて、嬉しそうにしてたから?
(…………)
か、可愛い。
こうした嫉妬は初めてで、何だか嬉しかった。
イルティミナさんは「マール?」と、僕の返事を求めるように名前を呼んできた。
僕は笑った。
彼女の頬に手を当てる。
「!?」
僕の奥さんは、驚いた顔だ。
その美貌を愛でながら、
「ごめんね、イルティミナさん。でも、大丈夫。僕が愛しているのは、イルティミナさん1人だけだから」
そう伝えた。
イルティミナさんは真紅の瞳を見開いた。
呆けたような美貌が少しずつ赤く染まって、その頬に触れる僕の手のひらに熱さが伝わってきた。
「な……あ……」
その口がパクパク動く。
やがて閉じて、何かを大きく飲み込んだ。
それから、
トン
彼女は1歩、大きく後ろに下がった。
手が外れる。
イルティミナさんは自分の中にあった熱を吐き出すように、深く息を吐いた。
それから、僕を睨む。
でも、その瞳は潤んでいて、ただ可愛かった。
そして、
「今のマールは、ある意味、とても危険ですね。……あの私の可愛いマールは、どこに行ってしまったのでしょう?」
なんて言う。
僕は苦笑して、
「ここにいるよ?」
と言った。
彼女は沈黙する。
「もう……なんだか私の頭の中は、少し混乱状態にあるようです。困ったマールが、本当により困ったマールになりました」
「…………」
また、ため息をつかれてしまった。
僕はそんな彼女を見つめた。
そして、長くなった腕を伸ばして、彼女の肩を抱いた。
「!?」
イルティミナさんはギョッとする。
身長が同じになって、ようやく、こういうこともできるようになった。
僕は笑顔で、
「ほら、行こうよ、イルティミナさん?」
と促した。
彼女は目を白黒させる。
やがて頬を赤くしながら、「もう」と諦めたように微笑んだ。
それから、僕の肩に頭を預けた。
心地好い重さだ。
(……うん、幸せ)
僕も微笑みながら、彼女の腰を抱くように支えた。
そうして僕とイルティミナさんは、夫婦で寄り添い合いながら、王都ムーリアの通りを歩いていったんだ。
ご覧いただき、ありがとうございました。
※次回更新は、来週の月曜日になります。どうぞ、よろしくお願いします。




