020・別れと約束
第20話です。
よろしくお願いします。
(なんで、赤牙竜がここに……? それも、あの紫の光をまとって!?)
僕は、震えながら、心の中で叫ぶ。
赤牙竜の巨体は、暗黒の森の中をゆっくりと、こちらに向かって進んでくる。
その紫の光は、周囲を妖しく照らし、赤い巨体がぶつかった森の木々は、悲鳴のような軋み音を、闇の中に木霊させる。
(……まるで悪夢の世界だ)
と、そんな呆然とする僕の口を、白い何かが塞いだ。
「――むぐっ!?」
「しーっ。静かに、マール」
(イルティミナさんっ?)
彼女は低い姿勢で、その唇に人差し指を当てている。
そのまま後ろ手に戸を開けて、音を立てずに、僕を小屋の中へと引きずり込んだ。
白い手が離れ、「ぷはっ」と息を吐く。
イルティミナさんは、すぐに窓辺に身を隠しながら、窓の外の森へと鋭い視線を送る。
僕は唖然としながら、潜めた声で聞いた。
「イルティミナさん、起きてたの?」
「風が冷たくて……見たら、扉が開いていて、マールが外に出たのがわかりました」
「あ……ごめんなさい」
そういえば閉めるの、忘れてた。
彼女は笑う。
「いいえ。――それでマールを心配して、追ってきたのですが、しかし、まさか赤牙竜までいるとは思いませんでした」
「あれは、いったい何なの?」
「赤牙竜ガドは、アルドリア大森林の深層部で、息絶えました。恐らく、その地に残された悪魔の魔力――闇のオーラの影響を受けたのでしょう。その結果が、あれです」
ベキッ ズズゥン
進路上の大木が、へし折られる。
黄色く濁った瞳には、もはや生気はなく、障害物を避けるという思考さえ見られない。
ダラリと開いた口からは、大量の唾液がこぼれている。
「もはや、あそこにガドの意識はありません。あるのは、亡者の本能である、生者を襲い貪ることだけです」
(…………)
ゴクッ
思わず、唾を飲む。
「わかった。じゃあ、気づかれない内に、早く逃げよう。すぐに、ここから離れないと」
「いいえ。それは、もう難しいかもしれません」
(え?)
イルティミナさんは、少し悔しそうに言う。
「距離が近すぎるのです。赤牙竜の走力は、私よりも上です。そして、奴は私たちの気配に、もう気づいている」
「そんな」
「申し訳ありません。トグルの断崖で、マールが気にしていたのはわかっていました。なのに、この結論に思い至らなかった。私の判断ミスです」
そんなことない!
あの赤牙竜が甦るなんて、いったい誰が想像できたっていうんだ。
ブンブン首を振る僕に、イルティミナさんは、小さく笑う。
不安を抱えながら、僕は、もう一つの道を聞いてみた。
「なら、戦う?」
(……あの闇のオーラをまとった、恐ろしい赤牙竜と)
けれどイルティミナさんは答えず、しばし黙り込んだ。
やがて、何かを決意したような表情で、部屋の隅に置いたリュックへと向かう。
そこから取り出した10センチほどの細い金属筒を、僕の手に握らせた。
「マール。貴方はこれを持って、メディスの方角に向かいなさい」
「え?」
「これは、発光信号弾です。捻れば、トリガーが出てきますので、空に向けて撃ちなさい」
これを……空に?
「夜半なので確率は半々ですが、これに気づいてもらえれば、私の仲間のキルト・アマンデスと、ソルティス・ウォンが迎えに来てくれるはずです」
「キルトさんと、ソルティスさん?」
「はい。……ですが、撃つのは、メディスまで5000メードの距離に近づいてからです。それがメディスから確認できる限界距離でしょう」
僕は、手の中の金属筒を見つめる。
そして、彼女を見上げた。
「わかった。……でも、イルティミナさんは?」
さっきから、僕の話ばかりで、自分のことは言わない。
イルティミナさんの美貌は、少しだけ悲しげに笑った。
「私は、ここで、あの赤牙竜の足止めをします」
「足止め!?」
無茶だ!
だって彼女は、前に赤牙竜と相討ちで殺されかけて、しかも今のアイツは、闇のオーラで強化されてるんだよ!?
(……勝ち目なんて)
でも、彼女は僕の目を見て、言い聞かせるように言う。
「奴は今、生者の気配を追っている。私たちのどちらかが、囮にならなければなりません」
「な、なら――」
「マールでは、囮になりませんよ?」
「っっ」
「フフッ、心配いりません。逃げに徹すれば、すぐにやられませんから、時間は稼げます。その間に、貴方は、キルトとソルティスと合流し、こちらに連れてきてください。3人ならば、必ず、あの赤牙竜も倒せます」
ズズゥン
足元が揺れる。
奴が、森小屋に近づいているんだ。
イルティミナさんの言っていることは、正しい。
多分、それが一番、お互いの生存率を高める方法だ。
それでも、僕はすぐに頷けなかった。
塔からメディスの街まで、40000メード……およそ40キロだと言っていた。
今日、半分進んでいたとしても、残り20キロ。
発光信号弾を撃てるのが、メディスから5キロなら、残りは15キロになる。
(夜の森を、15キロって……朝だよ?)
しかも、そこでイルティミナさんの仲間の2人を待って、そこから、ここまで戻らなければならない。
「ここまで戻ってくるのは、1日以上かかるよ?」
「わかっています」
頷いた彼女は、しゃがんで、僕の両肩を掴む。
「この時期、『紅の月』は太陽と同じ軌跡を描きます。それで、北を目指しなさい。――昼間の話、覚えていますよね?」
「うん」
「よろしい」
イルティミナさんは、笑って僕を抱きしめた。
「トグルの断崖で、貴方は言いました。『僕は、イルティミナさんを信じている』と。――私も、マールを信じているから、託すのです」
僕は、泣きたくなった。
それをグッと我慢して、言う。
「約束して?」
「え?」
「絶対に……僕が帰るまで、生きてるって」
僕のために、自分を犠牲にしようなんて、考えて欲しくない。
イルティミナさんに、死んで欲しくない!
彼女は、驚いた顔をして、そして優しく笑った。
その白い小指が、僕の小指に絡まる。
「いいでしょう。――私、イルティミナ・ウォンは、必ず生きて、貴方と再会いたします」
「うん」
見つめ合う彼女は、嬉しそうだった。
僕も、無理に笑顔を作って、頷いた。
そうして、僕らは覚悟を決めて、一緒に森小屋の中から、悪夢の森へと出ていった。
ご覧いただき、ありがとうございました。