189・人に戻りし女
第189話になります。
よろしくお願いします。
突然のことに、僕は、全く動けなかった。
僕の青い瞳が見つめる先で、その女の人は、ゆっくり自分の両手を見つめる。
その褐色の肌に、もう刺青のようなタナトス文字はない。
(…………)
彼女の横顔は、無表情のままだ。
と、その赤毛の長い髪が揺れて、その美貌がこちらを向いた。
(う……)
視線が合い、僕は、なぜか息を止めてしまう。
「…………」
「…………」
瑠璃色の瞳に、僕の顔が映り込む。
そこに様々な感情の色が流れていったように見え、けれど、それらはすぐに消えていって、瞳は濁ったように光を失った。
その視線が、ベッド脇へと落とされる。
そこには、僕の冒険者としての荷物が置かれていた。
リュック。
防寒ローブ。
『妖精の剣』と『マールの牙・弐号』、『白銀の手甲』などの装備品。
イルティミナさんやキルトさん、ソルティスも、それぞれ自分のベッド脇に、自分たちの装備を置いていた。
「…………」
彼女は、しばらくそれを見ていた。
僕は、唾を飲み込んで、
「……あ、あの?」
思い切って、声をかけてみた。
でも、反応はない。
「…………」
無言のまま、彼女は、身体を捻って手を伸ばした。
自然な動作。
あまりに自然だったので、反応が遅れた。
褐色の手は、僕の新しい短剣である『マールの牙・弐号』の柄を掴んでいた。
シュルッ
鞘から抜く。
(え……?)
薄暗い室内で煌めく白刃に、僕の意識はようやく気づく。
唖然としている僕の前で、彼女は、抜き放った短剣の美しい刃を、自身の褐色の喉へと押し当てる。
(は、はいっ!?)
「ちょ……駄目っ!」
ガシッ
その女の人の手首を思いっきり掴んで、引っ張る。
刃が離れた。
けれど、その褐色の首から細く血がこぼれている。
ググ……ッ
(!?)
掴んだ手首に、より力が加わった。
その女の人は無表情のままに、再び、短剣で自分の首を斬ろうとしていたんだ。
って、なんで!?
「駄目だよ、何してるの!?」
「…………」
「ねぇ、やめて、やめてよ! 本当に死んじゃうよ!? ねぇ!?」
ググッ ググググ……ッ
僕は両手で、彼女の手首をしっかりと押さえる。
けれど、その女の人の力は、子供の筋力を上回っているのか、少しずつ刃が喉に近づいていく。
白刃が、不吉な輝きを散らしている。
「お願い、やめてよ!」
「…………」
必死に叫んだ。
でも、その表情に変化はなく、力も抜けることはない。
褐色の肌と刃は、もう3センチも離れていない。
(まずい、まずいまずい!)
このままじゃ、本当に喉が斬れちゃうよ!
本当に、この女の人が死んでしまう!
焦る僕の脳裏に、ふと、かつてキルトさんが見せてくれた技が思い出された。
(……っ)
やるしかない!
僕の小さな手は、彼女の喉に迫る短剣を、思いっきり握り締めた。
ギュッ
ずっと前、キルトさんが僕に剣のことを教えてくれた時に、『マールの牙』の刃を素手で掴んだことがあった。
刃は動かさなければ、斬れない。
その言葉を信じて、僕は今、短剣を握り締めたんだ。
けど、
プシュッ
「い……っ」
痛い。
指に鋭い痛みが走って、刃と皮膚の隙間から、鮮血が流れた。
キルトさんほどの技量や握力のない僕は、刃を全く動かさずにいることはできなかったんだ。
(でも、離すもんか!)
僕の指は今、刃と喉の間に、邪魔者となって存在している。
切断されない限り、彼女は死なない。
「…………」
濁ったような瑠璃色の瞳が、必死な僕を見つめる。
そこに、また感情の色が揺れたように見えた。
でも、短剣に込められた力は変わらない。
(う……うぅぅ)
指に、刃が食い込んでいくのがわかる。
こぼれた血が、ベッドの上に染みを作り、それが少しずつ広がっていく。
その痛みに、脳を焼かれていると、
「マール!?」
イルティミナさんの驚きの声が鼓膜を弾いた。
見れば、寝室の扉が開いていて、そこに驚いた顔をしているイルティミナさんたち3人が立っていた。
「ぬ?」
「は……? ア、アンタら、何してるのよ!?」
騒ぎを聞きつけて、来てくれたらしい。
僕が何かを言う前に、イルティミナさんが疾風のように駆け寄ってきて、褐色の手首を掴み、一気に引き離してくれる。
ガッ
拍子に、『マールの牙・弐号』が弾けて、回転しながら寝室の床にトスッ……と刺さった。
「私のマールに何をしているのですか!?」
「…………」
鋭い一喝。
けれど、目覚めたばかりの女の人は、無表情のまま何も反応しない。
まるで壊れたマネキンのように、力なくベッドに座ったままだ。
イルティミナさんは、真紅の瞳に怒りを燃やす。
けれど、僕の手から流れる血に気づくと、唇を噛み締め、すぐに僕の前に跪いた。
「ごめんなさいね、マール。助けに来るのが遅れました」
「ううん」
来てくれて助かった。
おかげで、僕の指も、まだ辛うじて繋がっている。
イルティミナさんは止血するように僕の手首を押さえて、僕の頭を押さえるようにして、その大きな胸に抱いてくれる。
「大丈夫。もう大丈夫ですよ」
「……うん」
優しく頼もしい声。
いつもの甘やかな匂いもして、緊張していた心も落ち着いていく。
(ふぅぅ)
彼女の胸の谷間で、大きく息を吐く。
と、
「ちょっと、マール。ほら、治療してあげるから、傷を見せなさいよ」
自分の大杖を手にしたソルティスが、そう声をかけてくれた。
「あ、うん」
イルティミナさんに抱かれ、止血されたまま、回復魔法をかけてもらう。
見たら、指の半分ぐらいが斬れていた。
う、うわぁ……。
夢中だったけれど、改めて見ると、今更、恐ろしくなってしまった。
ソルティスの魔法で、その傷も消えていく。
さすが、ソルティスだ。
「ありがとう、ソルティス。助かったよ」
「ふん、感謝しなさいよ」
小さく鼻を鳴らし、得意げなソルティス。
イルティミナさんは、治った僕の指を見つめて、「よかった……」と呟くと、また僕のことを抱きしめた。
(わっぷ……っ?)
また柔らかな弾力に挟まれて、ちょっと慌てる僕である。
「……ふむ」
ズ……ッ
キルトさんは、床に刺さった『マールの牙・弐号』の柄を掴んで、それを引き抜く。
刃は、僕の血で濡れている。
それを見つめ、それからその黄金の瞳は、ベッドに力なく座っている褐色の女を見た。
「…………」
焦点の合わない瞳が、シーツに向けられている。
キルトさんは、その姿を見つめた。
やがて、荷物から取り出した布で、刃の血を拭き取り、
「どうやら、色々と聞かねばならぬことがあるようじゃの」
そうため息をこぼす。
そして、『マールの牙・弐号』の刃を鞘に納めていく。
チィン
涼やかな金属音が、僕らの集まった室内で、静かに響いた。
◇◇◇◇◇◇◇
褐色肌の女の人は、まるで人形のようにベッドに座っている。
キルトさんは、その正面に立つ。
イルティミナさんは、僕を守るように抱きながら、妹のソルティスも自分の背中側に立たせている。
「そなた、なぜ、あのような真似をした?」
キルトさんの鉄の声が、静かに質問する。
女の人は答えない。
瑠璃色の瞳は、濁ったようなまま、シーツを見つめている。
あのような真似……すなわち自殺。
僕が止めなければ、この人は間違いなく、自分で自分の喉をかき斬っていただろう。
その有り得た未来に、背筋が寒くなる。
(本当に……なぜ?)
黄金の瞳で10秒ほど見つめて、けれど反応はなく、キルトさんは仲間の少女を振り返った。
「ソル。もしやコヤツは、敵に捕らわれたら自決するような魔術的な暗示でも、『闇の子』にかけられていたのか?」
「違うと思うわ」
魔法使いの少女は、はっきり否定する。
「人に戻したあとにも調べたけれど、そういう魔法的な魔力の流れの淀みはなかったもの。有り得ない」
「ふむ」
(そうなると……)
僕らの視線が、褐色に美女に集まる。
「そなた自身の意思なのか」
「…………」
キルトさんの言葉は、僕の予想通りだ。
(でも……なんで?)
反応しない女の人に、キルトさんは言葉を重ねる。
「記憶があるのか?」
ピクッ
その一言に、女の人は初めて反応し、その身体が小さく震えた。
(記憶……?)
「魔物であった頃の、人としての罪を重ねていた時の記憶じゃ」
……あ。
それは、つまり……『闇の子』に命じられるまま、自分たちのために罪なき人々を殺害していた記憶。
魔物であったならば、平気だったろう。
けれど、人間に戻った今は?
(つまり彼女は……)
犯した罪の重さを受け止められなくて、その罪悪感から死のうとしたの?
思わず、その顔を見つめる。
ポタッ
その瑠璃色の瞳に、大きく涙が溜まり、両の目からこぼれ落ちた。
「……ぅ……うぅうう」
低い慟哭。
褐色の手がシーツを強く握り締める。
「どうして……どうして、私を人に戻したの?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「お願い……死なせて。どうか、このまま死なせてくださいっ。じゃないと私は……私は……っ! う、あ……うぁあああああっ!」
悲痛な声が、寝室に木霊する。
ベッドの伏せて、大声で泣き叫ぶその姿に、僕らは何も声をかけることができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
その女の人が落ち着くまでには、30分以上かかった。
イルティミナさんはその間に、宿の厨房を借りて、柔らかなお粥を作ってきた。
「食べなさい」
「…………」
「この3日間、眠り続けたのです。少しは食べねば、人の肉体はもちませんよ」
泣き腫らした目で、褐色の女の人はお碗を見る。
でも、手は伸びない。
(…………)
僕の考えが足りなかったのかな……?
魔物にされてしまった人を、人間に戻す――それは正しい行いだと思っていた。
(でも……)
それが、その人自身を自殺しようとするほど追い詰めるなんて、思いもしていなかった。
僕は……間違っていたのかな?
「――アンタのせいじゃないわよ」
コツン
ソルティスの小さな拳が、僕の頭を殴った。
見れば、珍しく彼女は、真面目な顔で僕を見つめていた。
「マールは、何も悪くない」
「…………」
「この女を救いたかったんでしょ? なら、マールの行いは正しい。悪いのは『闇の子』じゃないの」
(……ソルティス)
イルティミナさんも、妹の言葉に大きく頷いている。
キルトさんも頷いた。
「ソルの言う通りじゃ」
そして、その黄金の瞳は、褐色肌の女の人へ向けられる。
「もちろん、そなたにも罪はない」
「…………」
「そなたの行いは、魔物にされたことで思考にバイアスがかけられた結果じゃ。その原因は、『闇の子』にある。そなたも被害者でしかないのじゃ」
力強く、暖かな声。
女の人の瞳が、感情を揺らしながら『金印の魔狩人』を見上げる。
銀髪の美女は、白い歯を見せて笑った。
「まずは食え」
「…………」
「人間、腹が減っては、悪い方にばかり考えがいってしまう。まずは腹を満たすことじゃ」
…………。
僕も言った。
「勝手なことをして、ごめんなさい。……でも、それでも僕は、貴方に生きていて欲しい」
「…………」
彼女は、僕の顔を見つめる。
イルティミナさんが強引にその手にお椀を持たせ、木製のスプーンを握らせた。
温かな湯気。
甘やかなお米の匂い。
褐色肌の女の人は、しばらく見つめたあと、そこにスプーンが差し入れられ、
ハムッ
一口、お粥がその口の中に消えた。
「……美味しい」
小さな呟き。
もう一口。
そして、もう一口。
彼女は、ゆっくりと食べ始める。
ポロッ
その頬に涙がこぼれた。
「う……うぅ、う」
泣きながら、彼女は生きるために食事を続けてくれたんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
「そなた、名は何という?」
食事を見守りながら、ふとキルトさんが問いかけた。
手が止まり、
「……レヌ……レヌ・ウィダート、です……」
と、彼女は答えた。
(レヌさん……だね)
キルトさんは頷いた。
「ふむ。レヌ、そなたには聞きたいことがいくつかある。食事をしながらでも良い。答えられるならば、教えてもらいたい」
「はい」
レヌさんは、瑠璃色の瞳でキルトさんを見つめ、はっきりと応じる。
「そなたの出身は?」
「この、テテトです。北東にあるギタルカ領の山村の生まれです」
「ほう」
キルトさんは、片眉を上げた。
「では、そなたが魔物になったのは、このテテトの地でか?」
「……はい」
「それは、いつじゃ?」
「……およそ3ヶ月ほど前、です」
その時のことを思い出しているのか、レヌさんの声と表情は暗い。
(3ヶ月前っていうと……)
僕らが、まだアルン神皇国にいた頃だ。
その頃から『闇の子』は、このテテト連合国でも暗躍してたんだね。
「ふむ」
キルトさんも手に入れた情報を噛み締めるように、口元に手を当てながら唸る。
と、ソルティスが紅い瞳を細めて、レヌさんを見つめながら、
「あなたも『魔血の民』ね」
と言った。
「…………」
コクンッ
レヌさんは、うつむきがちに頷いた。
(レヌさん、『魔血の民』なんだ?)
そっか。
それで彼女の自殺を止めようとした時、僕は、全力で引っ張ったのに抗えなかったんだ。
(でも、レヌさんが本気だったら、僕の制止も簡単に振り払えた気もする……)
そうならなかったのは、彼女自身の生存本能か、僕の指を切断したくないという無意識の優しさだったのかな?
そんな風に考えている間にも、キルトさんからのレヌさんへの質問は続く。
そうしてわかったことは、幾つかあった。
まず、レヌさんの年齢は、23歳。
テテト連合国で、『青印の冒険者』をやっていたそうだ。
「とはいえ、稼ぎはあまりありませんでしたが……」
と付け加える。
テテト連合国は、北東に行くほど『魔血の民』への差別が強い。
北東にあるギタルカ領も、そうだった。
所属する冒険者ギルドからは、低賃金の依頼ばかりを斡旋され、時には、危険度の高い依頼を知らされずに受注させられることもあったそうだ。
クエストを完遂しても、難癖をつけられ、報酬を減らされる。
正規の料金は、まず受け取れない。
「……そんな馬鹿な……?」
僕は、唖然とした。
冒険者ギルドは、所属する冒険者の味方だと思っていた。
ショックを受ける僕に、イルティミナさんが言う。
「私たちの所属するギルド『月光の風』は、ムンパ様が『魔血の民』の救済目的で設立されたから特別なんです。シュムリア王国でも、他ギルドではそういう事例が少なからずあるそうですよ」
(……そんな)
とはいえ、それはシュムリアでも少ない事例。
けれど、レヌさんのいたギタルカ領では、当たり前の日常だったそうだ。
おかげで彼女は、いつも貧乏だった。
それでも故郷の山村では、両親や妹たちが暮らしており、そこに仕送りをするためにも彼女は、冒険者としてがんばっていたそうだ。
その日常が崩れたのは、半年ほど前。
ギタルカ領では、天候不順による不作で、各地で食糧難が起きたのだ。
レヌさんの故郷の山村も、その1つ。
レヌさんは、肉体に鞭を打って、いつも以上に働き、家族のためにたくさんの仕送りを用意した。
ただ無理がたたって、病にかかる。
自分の手で、村まで届けることができない。
そこで依頼として、仕入れた食料を村に運んでもらうようにと、ギルドの冒険者に頼んだのだ。
ところがだ。
「その冒険者は、行方をくらましました」
レヌさんが身を粉にして手に入れた、貴重な食料ごと。
(…………)
国中が食糧難だからこそ、その食料は高く売れる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
僕も、3人も言葉がなかった。
レヌさんがその事実を知ったのは、病から回復した2週間後のことだった。
ソルティスが言う。
「ギルドから、保険は下りなかったの?」
「はい……契約時に、私の記入に不備があったとかで認められませんでした。……ただ、どのような不備かは、教えられていません」
はぁ?
(それは、つまり……ギルドが支払いを嫌がって、嘘をついて拒絶したってこと!?)
そこまで『魔血の民』への差別は酷いのか。
「何よ、それ!」
ソルティスも怒っている。
「腐っていますね、そのギルドは」
「うむ」
年上の2人も怖い顔だ。
けれど、レヌさんは悲しげに笑うだけだ。
きっと彼女も当時は、色々と抗おうとしたんだろう。
(……けど、どうにもならなかったんだね)
僕は、悔しくて仕方がない。
そのあと、レヌさんは、取るものも取り敢えず、病み上がりの身体を押して、故郷の山村に向かった。
けれど、
「両親と妹は、死んでいました」
…………。
飢えで病気になり、そのまま亡くなっていた。
レヌさんの家族だけでなく、飢饉によって、多くの村民が亡くなったそうだ。
もし、レヌさんの仕送りがあったなら、少しは状況が違っていたかもしれない。
ただ、その仮定は、もう無意味だった。
絶望にかられたレヌさんは、行方をくらました冒険者を追った。
追って、追って、追い続けて、1ヶ月後、ようやく見つけた。
けれど、相手は5人パーティー。
こちらは、病み上がりのレヌさん1人。
いくら『魔血の民』といえども勝てるはずはなく、彼女は、返り討ちにあってしまった。
(…………)
雪深い街道で、瀕死の彼女は倒れていた。
もはや、寒さも感じない。
奪われ、蔑まれ、疎まれるだけの人生……自分は、本当にそんな存在なのかと涙をこぼしながら、無念の死を受け入れようとした。
――その時だ。
「気がついたら、黒い子供が、死にかけた私を覗き込んでいたんです」
ドクンッ
レヌさんの言葉に、僕らは息を呑む。
その黒い子供は、赤い三日月のように笑いながら、
『――復讐する力が欲しくはないかい?』
そう問いかけたのだそうだ。
ご覧いただき、ありがとうございました。
おかげ様で体調も良くなり、ストックも少しずつ溜まってきました。とはいえ、まだ2~3話分のストックが足りていないので、来週は火、金の2回更新でお許し下さいね。
ということで次回更新は、来週の火曜日8月13日0時以降を予定しています。
少し変則的な更新になっていますが、どうぞ、よろしくお願いします。




