019・雨夜の森
第19話です。
よろしくお願いします。
「なんだか、暗くなってきたね」
周囲の森を見回して、僕は、呟くように言った。
時刻としては、まだ夕方だ。
それでも、空を覆い尽くした灰色の雲のせいで、辺りは薄暗くなっている。
さっきまでは小走りだったイルティミナさんも、足元が見辛くなったためか、普通に歩き始めていた。
「そうですね。完全に暗くなる前に、ランタンを点けましょう」
「うん」
僕は、彼女の腕から降りる。
しゃがんだイルティミナさんの背後に回り、リュックの中からランタンと火打石を取り出した。
カッ カッ
彼女は手慣れた様子で火を灯し、そのランタンを白い槍の先端、翼飾りに引っかける。
おかげで、僕らの周囲はとても明るくなった。
(なんだか、明るいってだけで安心する……)
僕は、ホッと息を吐いて、少しだけ気を緩めた。
グゥゥ……
途端、僕のお腹が、浅ましくも鳴き声を上げる。
(う、恥ずかしい……っ)
イルティミナさんは「おや」と目を丸くし、赤くなる僕に優しく笑う。
「フフッ、そういえば、お昼も食べていませんでしたものね」
「う、うん」
「ですが、もう少し移動しておきたいのです。ごめんなさい、マール。今は、これで我慢をしてくださいね」
そう言って、腰ベルトのポーチから何かを取り出す。
見せられた白い手のひらにあったのは、真っ赤な木の実――昨日、集めた、チコの実だった。
落とされるそれを、両手に受け止めながら、僕は彼女を見上げる。
「これって、そのまま食べられるの?」
「はい。少し固いかもしれませんけれど、食べられますよ」
「ふぅん」
試しに1つ、口の中へ。
カリッ プチュッ
(ん、少し酸っぱいね)
固い皮の奥からは、酸味のある果汁が溢れてくる。
でも、味は悪くない。
もう1つ、食べよう。
(うん、酸っぱい)
でも、悪くない……これは、癖になる味だ。
僕は、カリカリとチコの実を食べ続ける。
イルティミナさんは笑いながら、そんな僕を抱えて、また歩きだした。
ランタンの揺れる灯りに、照らされる森の景色も、ユラユラと揺れている。
「イルティミナさんも、食べる?」
「あら? 私も、よろしいのですか?」
「うん。口、開けて」
目を閉じて、幼い雛鳥のように口を開く。
「あ……ん」
無防備なその表情は、なんだか艶めかしくて、少しドキッとしてしまった。
そんなイルティミナさんの舌の上に、チコの実を1つ、転がす。
指先がちょっと触れてしまった桜色の唇は、プルンとした弾力があって、しっとり柔らかかった。
カリカリ
「美味しい?」
「酸っぱいです」
「だよね?」
僕らは、つい吹き出すように笑い合った。
◇◇◇◇◇◇◇
それから、しばらく歩いた。
周囲はもう真っ暗で、ランタンの灯りが照らしている範囲以外は、闇の中に沈んでいた。
森の空気が、少し湿ってきた気がする。
(なんだか、降ってきそうだなぁ?)
僕は、濃淡のある頭上の雲を見上げて、心配になってきた。
イルティミナさんは、時々、立ち止まって、ランタンのぶら下がった白い槍の先端を、アチコチへと向ける。
(何をしてるんだろう?)
そう思いながら、思い切って、彼女に声をかけた。
「ねぇ、イルティミナさん? もうこの辺で、野宿の準備しない?」
イルティミナさんの真紅の瞳が、キョトンと僕を見る。
僕は、空を指差して、
「ほら、雨も降ってきそうだし、早く雨宿りできる場所を探した方がいいと思うんだ」
「そうですね……」
彼女も頭上を見上げて、呟く。
でも、その声は、何か煮え切らない様子だった。
「私も、そのつもりではいるのです。ただ、この近くにあったと思うのですが……」
そう言いながら、彼女は、また周囲を見回している。
(何かを探しているのかな?)
僕も、森へと視線を巡らせる。
揺れるランタンの灯りに、森の木々が照らされていく。
(……ん?)
ふと、その木の枝に、何かがぶら下がっているように見えた。
なんだろう?
目を凝らすと、それは赤い布で縛られた三角の木板だった。
ツンツン
僕は、イルティミナさんの綺麗な髪をつつく。
「イルティミナさん、イルティミナさん、もしかして、さっきからアレを探してた?」
「え? あ……」
僕の示した物を見つけて、彼女の表情がパッと明るくなった。
「よかった。お手柄ですよ、マール!」
「うん。……うん?」
(何が?)
置いてけぼりの僕を放って、彼女は、その木に近づき、三角の木板を掴む。
表面には、何かが書かれているようだ。
でも、知らない字だったので、僕には読めない。
イルティミナさんは、「なるほど」と呟いてから、ようやく僕の様子に気づいた。
「これは、案内板なんです」
「案内板?」
「はい。猟師たちの使う、森小屋の位置が示されているんです。どうやら、こちらの方ですね」
(へ~)
感心する僕に笑いかけ、イルティミナさんは、森の奥へと分け入っていく。
やがて5分もしない内に、ランタンの光の中に、丸太小屋が飛び込んできた。
「あった!」
「はい」
僕らは、すぐに木の閂を外して、小屋の中へと入っていく。
6畳ぐらいの狭い小屋だった。
中には、藁と獣皮で作られた寝床と囲炉裏のようなものがある。
その部屋の隅に、イルティミナさんは荷物のリュックをドスンと降ろし、ランタンを天井付近の柱に引っかけた。
(はぁ~)
小さいとはいえ、人工の建造物の中に入れて、なぜか安心する。
イルティミナさんは、囲炉裏の炭にも火を点けながら、ここのことを教えてくれた。
「ここは、猟師たちが共同で使っている小屋なんです。私たちのような冒険者も、たまに使わせてもらうんですよ」
「へぇ~」
「なんにしても、ここまでお疲れ様でしたね、マール。よくがんばりました」
「……僕、ずっとイルティミナさんに抱っこされてただけなんだけど……」
「…………。そういえば、そうでしたね?」
イルティミナさんは、小さく苦笑いする。
それから、イルティミナさんは、囲炉裏を使って、保存していた毛玉ウサギの肉やフォジャク草で、また簡単な料理を作ってくれた。
(毛玉ウサギ……君は、本当に美味しいよ)
申し訳なさもあったけれど、美味しさから感じる幸せの方が強かった。
もちろん、残さず食べたよ?
そして、満腹になったら、すぐに眠気が襲ってきた。
(さっきは、あんなこと言ったけど、実は疲れてるんだよね……)
移動中は、上下左右に揺られながら、何時間もジッとしていた。
不思議なことに、これだけでも結構な疲労感があったんだ。
僕の様子に気づいて、イルティミナさんはクスッと笑う。
自分の身体に、毛布を乗せながら、
「おいでなさい、マール」
「ん……」
眠かったのもあって、逆らう気はなかった。
素直に、彼女の胸に倒れ込む。
イルティミナさんの柔らかくて、大きく実った胸が、僕の顔面を優しく受け止めてくれる。
あぁ、幸せ……。
イルティミナさんも、僕を抱き枕にして、幸せそうに藁と獣皮の寝床に横になった。
バラッ バララッ バララララ……ッ
突然、屋根の方から、何かの当たる音が響きだした。
「あら、降ってきましたね」
あぁ、雨か……。
「フフッ、降る前に、ここに入れてよかったですね、マール。……マール?」
バラバラというリズム感のある音が、心地好くて、イルティミナさんの優しい声が遠く聞こえる。
(あぁ、本当に、あったかい身体してるなぁ)
寝ぼけたまま、彼女にスリスリする。
イルティミナさんの小さく笑ったような声がして、それを最後に、僕の意識は、眠りの世界へと落ちていった――。
◇◇◇◇◇◇◇
…………。
……………………。
…………………………………………。
それから、どれくらい経ったのか?
僕は、ふと目を覚ました。
「…………」
部屋の中は真っ暗で、ほんのりと囲炉裏の炭だけが、赤く周囲を照らしている。
すぐ近くには、眠っているイルティミナさんの白い寝顔がある。
まつ毛が長くて、本当に綺麗で、まるでお人形さんみたいだ。
でも、僕の頬を包む大きな胸は、呼吸のたびに上下を繰り返している。ムニムニと頬が幸せだ――なんて、いつもなら、そう思うだろう。
でも、今は違った。
(なんだろう……この感じ?)
僕は、自分の胸を押さえる。
妙に息苦しい。
窓の外は、真っ暗で、いつの間にか雨は上がっているようだった。
湿った空気が、なんだか重い。
「…………」
僕は、イルティミナさんを起こさないよう注意して、彼女の腕の中から出た。
小屋の中を見回す。
何もない。
僕は、音を立てないようにしながら、小屋の扉を少しだけ開いた。
冷たい空気が、部屋の中へと滑りこんでくる。
肌を撫でる冷気に、ブルッと身体を震わせ、そのまま、小屋の外に出た。
「…………」
森の中は、真っ暗だ。
深層部にいた時と同じだ。
初めて、夜の森に抜け出して、そこで、骸骨王に殺されたんだ。
あの紫の輝きを、僕は忘れていない。
「……なんで?」
だから、
「……なんで、あそこだけ、紫色に光ってるのさ?」
森の木々の向こうで、妖しく輝く光を、僕は見間違えない。
漆黒の闇の中、雨上がりの森の中にたたずんでいるのは、傷だらけの赤い鱗をした、片方の牙のない凶悪な竜の姿……その全身が、紫色の禍々しい光を放っている。
僕の手足が、震えだす。
――死の世界から蘇った赤牙竜ガドは、夜の森で、僕らの前にその姿を現していた。
ご覧いただき、ありがとうございました。