017・休憩
第17話になります。
よろしくお願いします。
『トグルの断崖』を登り切った僕らは、そこで小休止することにした。
さすがに凄腕冒険者のイルティミナさんでも、重い荷物を背負ったままの50メートルのクライミングは、相当に疲れたらしい。
彼女は地面に座ったまま、両腕の防具を外して、酷使した白い腕を揉んでいる。
「大丈夫、イルティミナさん?」
「はい。――ごめんなさい、マール。少し休めば、回復しますので」
別に謝らなくてもいいのに。
僕は、彼女を安心させようと笑って、「ううん」と首を横に振った。
彼女も微笑む。
(うん、よかった)
「じゃあ、僕、今の内に使ったロープを回収してくるよ」
「あ、はい。では、お願いしますね」
声をかけて、僕は、ロープの方へと駆けていく。
長いロープを拾い上げ、固い結び目をなんとか解いて、直径30センチほどの円にまとめていく。途中で引っかからないように、ロープを回した木の方へと歩きながら、回収作業をしていると、
ヒュウゥゥ
「ん?」
ふと空を抜けてきた風が、僕の髪をさらっていく。
そちらへと視線を向けて、つい作業の手を止めてしまった。
(……ここまで来たんだなぁ)
目の前には、何もない空と、遥か下の方に広がるアルドリア大森林・深層部の雄大な景色があった。
塔の見張り台から『トグルの断崖』を見た時は、まるで自分を閉じ込める絶望的な壁のようだった。
なのに、今の僕は、その上に立っている――この景色こそ、それが現実である証拠だった。
(でも、ここがゴールじゃないんだ)
目指すのは、更に北上した先の『メディス』という街だ。
感慨に浸るのは、目的を達成してからでいいと思う。
僕は「うん」と頷いて、回収作業を再開する。
ロープを巻き取りながら、木の周りをグルッと回った時、
「あれ?」
その先の森に、倒木があることに気づいた。
それだけなら、珍しくもないんだろうけれど、その奥にも同じような倒木がある。
僕は不思議と気になって、ロープを持ったまま、少しだけ森の奥に入っていく。
(……なんだ、これ?)
唖然となった。
森の奥に、少し入った場所は、まるで台風か竜巻でもあったみたいに、森の木々が倒されていた。
近づいてみると、僕の身長ぐらいの太さの木もある。
「いったい、何があったんだろう?」
少し緊張しながら、周囲を見回す。
無事な木もあるけれど、それらの幹には、何か大きな引っ掻き傷のようなものが何条も走っていた。
その巨大さに驚き、恐ろしくなってしまう。
でも、そのおかげで、僕の脳裏には1つの仮説が生まれた。
(ひょっとして、これ……赤牙竜ガドのやったことかな?)
イルティミナさんと赤牙竜は戦いながら、トグルの断崖まで来て、そして崖崩れが発生した。
もしそうなら、これはきっと、その時の戦闘痕なんだろう。
ペタペタ
「でも、こんな頑丈な木をなぎ倒すなんて……」
倒木に触れながら、僕は身震いする。
赤牙竜が生きていたら、どれほどの脅威だったのか、思い知らされた気分だ。
そして、それを倒したイルティミナさんは、なんて強くて、格好いい女性なんだろう、と思った。
自分が倒したわけではないのに、まるで自分のことのように誇らしく感じてしまう。いやいや、本当に自分勝手なのはわかってるんだけど。
と、その時、
「マール? どこですか、マール?」
僕を呼ぶイルティミナさんの声が聞こえた。
(あっと、いけない)
突然、姿を消したから、心配させてしまったんだ。
僕はロープを抱え直すと、慌てて、彼女のいるトグルの断崖の岸壁へ、戻ることにした。
◇◇◇◇◇◇◇
「マール、今後は1人で、森に入らないでくださいね?」
怒られました。
イルティミナさん、口調こそ柔らかいけれど、真紅の瞳には、かなり非難の色が強かった。
(そ、そんなに怒らせることしたかな?)
疑問に思うけれど、素直に「ごめんなさい」と謝っておく。
それが奏功したのか、彼女は、大きなため息をこぼすと、なんとか怒りの矛を収めてくれる。
「それで、何があったのですか?」
「う、うん。実は――」
僕は、森で見た、竜巻が荒れ狂ったような痕跡を説明する。
すると、彼女は「あぁ」と頷いて、
「それは恐らく、私と赤牙竜ガドとの戦いの痕跡ですね」
と答えた。
(やっぱり)
僕は心の中で、納得する。
そして、目の前にいる魔狩人に、尊敬の眼差しを向けて、
「あんな太い木をなぎ倒すような怪獣をやっつけるなんて、本当にイルティミナさんって凄いんだね」
「さて、どうでしょうね?」
でも、答えるイルティミナさんの表情は、冴えない。
「本来は、3人がかりで挑む予定の危険な竜でしたから。今回は、運が良かったのでしょう。次があれば、また勝てる保証はありません」
「そうなの?」
とはいえ、赤牙竜がいない今、もう次なんてないと思うけど。
そう言うと、イルティミナさんは小さく笑った。
「名付きの赤牙竜は、珍しいですが、いないわけではありません。また依頼がある可能性はありますから」
「ふぅん? ……名付きって?」
「あぁ、同じ魔物の中でも、より凶暴なものには、名前がつけられるのです。このガドも、討伐依頼を受けた冒険者を13人も返り討ちにした、恐るべき経歴の竜ですから」
「13人……っ!?」
(ひぇぇ)
青くなる僕の前で、イルティミナさんは、自分の鎧の穴を触って、
「マールがいなければ、私も14人目になるところでしたね」
と、どこか嬉しそうに笑った。
いや、笑えるような話じゃないと思うんだけどなぁ、僕は……。
◇◇◇◇◇◇◇
さて、話も一段落したところで、僕らは休憩を終わりにすることにした。
「? マール、このロープに血がついているのですが?」
イルティミナさんに回収したロープを渡したら、そう言われた。
え?
キョトンとしながら、僕もロープを見ると、
(本当だ。血のシミができてる)
なんで?
不思議に思って、首をかしげる。
と、そんな僕の方を見て、イルティミナさんは突然、「あ」と声を上げた。
「マール。貴方の肘から、血が……」
「え? 肘?」
指摘に驚き、自分の肘を見る。
左肘……なんともない。
右肘……あ?
「本当だ、血が出てる」
3センチぐらい、皮膚がめくれて、そこから血が滴っていた。
なんで? と思って、すぐに思い出した。
(あぁ、トグルの断崖を登る最後に、思いっきりぶつけたね?)
打ち身の痛みだと思っていたら、出血してたのか。
「ごめんなさい、イルティミナさん。ロープを汚しちゃって」
「それは構いません。それよりも、すぐに治療しなければ……」
いや、大丈夫だよ。
「これぐらい。放っておいても、すぐ治るよ」
「駄目ですよ。破傷風になったら、どうするのです? ほら、いらっしゃい」
「うわっとっと?」
右手首を捻られて、僕は、強引に引き寄せられる。
僕を逃がさないよう、膝の上に抱きかかえて、イルティミナさんはリュックを漁った。
薬でも出てくるのかな? と思っていたけれど、違った。
出てきたのは、革製の水筒袋だった。
そっか、まずは水で洗い流すつもりなんだね。
(あれ? でも、これの中身って)
案の定、彼女が自分の手のひらにこぼしたのは、少量の『光る水』――『癒しの霊水』だった。
「これがあって、よかったです」
安心したように呟いて、彼女は、その手のひらの癒しの霊水を、僕の肘にかけた。
ピシャピシャ
ん。
少しひんやりする。
濡れた部分が、風に触れて、蒸発しているんだろう。
そして、その冷たさが消えるのと一緒に、痛みも消えていた。
(え?)
見れば、傷口が塞がって、もう薄皮ができていた。
(あ、あれ?)
傷口を洗うんじゃなかったの?
確かに、『癒しの霊水』は、『回復魔法の力を秘めた水』だって教えられていたけれど、
「あの……もしかして、これ、実は飲み物じゃない?」
「飲めもします。ですが、食糧や水は、別に用意するのが普通ですから。少しだけ、もったいないかもしれませんね」
やんわりと肯定されました。
(あ~、そうなんだね?)
僕は、それが無限に湧き出る環境にあったから、当たり前のように飲んでしまったけれど、本来はこういう傷を癒すための貴重な薬なんだ。
(もしかしたら僕は、物凄く恵まれた環境にいたのかも……?)
今更ながらに、そう思う。
イルティミナさんは、僕の肘が回復したことに「よかった」と満足そうに息を吐いていた。
そして彼女は、革製の水筒袋をリュックにしまい直すと、そのまま膝の上にいた僕を抱きかかえて、立ち上がる――って、
(おっとっと?)
「マールの肘も治ったことですし、そろそろ本当に出発しましょうか」
「あ、うん」
頷く僕に、イルティミナさんは優しく微笑みかける。
(……僕も、もう、このポジションには慣れたものだよ)
もはや達観して、なんだか遠い目になる僕。
そして彼女は、そんな僕を抱えたまま、赤牙竜の牙も積まれたリュックを背負い、白い槍も反対の手に掴みあげる。
「では、行きます」
そう短く告げて、
タンッ
軽やかに大地を蹴ると、僕らの姿は、崖上から『アルドリア大森林』の木々の中へと消えていった。
ご覧いただき、ありがとうございました。