143・帰ってきた銀印の魔狩人
第143話になります。
よろしくお願いします。
(……このタイミングでっ!?)
『神体モード』に耐え切れる限界は3分間――でも僕は、これで最後だからと、それを超過して力を行使していた。
およそ5分間ほどだろうか?
それは、先の消滅を覚悟した戦闘だった。
けれど酷使された肉体は、あろうことか崩壊するより先に、強引に『神体モード』の解除を行ってしまったようなのだ。
ガクンッ
「……くっ」
身体が重い!
羽根のようだった身体が、今はまるで錆びた鉄屑のように重く、足が動かない。
正面からは、翼を裂かれた『黒い飛竜』が迫ってくる。
左腕は折れている。
僕は、右手1本で剣を構えて、それを振るった。
ズキッ
「ぐっ!」
けれど、『神気』に侵された肉体は、酷い鈍痛を引き起こす。
乱れた剣は、飛竜の薙ぎ払うような腕に弾かれて、僕の軽い身体は簡単に吹き飛ばされた。
ドゥッ ザザァア
地面にバウンドし、7~8メードは滑っていく。
『……〈神狗〉の力を消すなんて、どういうつもり?』
黒い飛竜は、怪訝の声を漏らす。
カハッ
僕は仰向けになったまま、口から血を吐いた。
『?』
飛竜の血のような赤い双眼が、僅かに細まる。
そして、
『そう……貴方、ずいぶんと不安定なのね。何があったのかはわからない。けれど、それで容赦する気もないわ』
禍々しい殺意に彩られた声。
僕は、全身を苛む激痛に涙を滲ませながら、必死に身体を起こしていく。
(……駄目だ、負けるわけにはいかない)
ここで負けたら、ルド村の人たちが――何よりも、あの姉妹までが死んでしまう。
それは、僕が知る世界よりも、更に最悪の世界だ。
(そんなこと、許されない!)
僕は、歯を食い縛る。
「……神気、解放……っ!」
バチチッ
強引に、体内に神気を送り込む。
一瞬、痛みが消えて、身体が羽根のように軽くなる。獣の耳と尻尾が生えて、
(っっっ)
次の瞬間、凄まじい痛みが全身を襲って、悲鳴をあげそうになった。
血が出るほど唇を噛みしめ、それに堪えて、
「がぁああ!」
ドンッ
僕は絶叫しながら、黒い飛竜へと飛びかかった。
剣技も何もない、ただの特攻。
『……馬鹿ね』
黒い飛竜は、憐みにも似た声を漏らすと、愚かな子供めがけて、その巨大な鋭い牙を閃かせた――。
◇◇◇◇◇◇◇
(……あぁ)
必死に抗ったけれど、駄目だった。
通常の『神体モード』でも互角だったのに、心を乱した状態では、300年を生き抜いた魔物に敵うはずもなかったんだ。
ミチッ ミチチッ
散々になぶられた僕は、今、左腕を咥えられ、巨大な口からぶら下げられていた。
腕の肉には、鋭い牙が何本も突き刺さっている。
「……う、ぐぅ……っ」
激痛が脳を焼く。
『神体モード』は、とっくに解除されている。
奇跡的に、右手には『妖精の剣』を握ったままだった。
でも、振る力は残ってない。
(僕は……なんて弱いんだろう?)
多少は強くなった気になって、誰かを守れるつもりになっていた。
なんて勘違いだ。
メキッ
「~~~~」
左腕の骨を、飛竜の牙が、更に砕いたのがわかった。
痛い。
痛い痛い痛い。もうやめてくれ。
「は……ぁ……ぐ」
でも、声は声にならなかった。
悲鳴は散々に上げた。
叫び過ぎた喉は、とっくに傷つき、枯れてしまっていたんだ。
代わりに口から溢れるのは、血だ。
内臓が、どこかやられたのかな?
もう全身の痛みが酷すぎて、どこが痛いのかもわからない。
(早く……殺してよ)
そう本気で思った。
左目は潰れている。
残された右目にも血が流れ込み、周囲で燃え盛る炎と合わせて、僕には赤に染まった世界だけが見えていた。
「――こ――に来――ぞ」
「――皆、下が――やく!」
何か、声が聞こえた。
さっきから、身体が揺れている。
ボロボロの僕を口からぶら下げたまま、黒い飛竜は歩いているようだった。
揺れる赤い視界の中、
(……あ)
ルド村の人たちが見えた。
みんな、怯えた表情で、手に鍬や鋤などを構えている。
オルティマさんの仲間の狩人が、弓を引き絞り、鋭い矢を放った。
カィンッ
小さく火花が散り、けれど黒い鱗は、簡単に矢を弾く。
「――駄目だ――逃げ――」
「早――」
人々は、迫る恐怖から逃れるように後退った。
周囲には、炎が燃え盛る。
逃げ場など、ほとんど残されていない。
皆の表情には、絶望があった。
(…………)
その中でただ1人だけ、違う表情をしている少女がいた。
その子は、僕を見ていた。
傷だらけで死にかけた、虫の息の子供である僕の姿を、大きく目を見開いて見つめていた。
「……マール、君?」
…………。
その声だけ。
なぜか、はっきりと僕の耳に聞こえた。
彼女は逃げることもせず、棒立ちになっていた。
娘に気づいたオルティマさんが、慌てて、自分側に引き寄せようとする。でも、他の村人の流れに遮られ、手が届かなかった。
ドスゥン
「……あ」
ほんの数秒の放心。
それだけで、少女の目の前には、漆黒の魔物が辿り着いていた。
少女は、ようやく我に返った。
けれど、動けない。
黒い飛竜の血のような赤い双眼は、愉悦の色を灯して、ゆっくりと細められた。
漆黒の竜の前足が動き、眼前の少女へと巨大な爪を突き立てようとする。
(――――)
それを見た瞬間、僕の中の何かが弾けた。
動かなかったはずの右手が反射的に跳ね上がり、妖精鉄の美しい刃を、黒い飛竜の右眼へと突き刺した。
ズブリ
『――がっ!?』
声にならない悲鳴をあげ、黒い飛竜が激痛にのけぞった。
ブチンッ
拍子に口が強く閉まり、僕の左腕は咬み千切られる。
吹き出す血が、少女の美貌を濡らした。
同時に、剣の柄から右手が外れ、僕の身体は地面へと落下する。
落下の衝撃で激痛が走り、それに白く脳を焼かれながら、
「――逃げて、イルティミナさん!」
絶叫が喉から溢れた。
――でも、血塗れの少女は、動かない。
自分の顔に触れて、そしてその指先が真っ赤に染まっているのを確認すると、
「…………」
倒れている僕を呆然と見た。
美しい真紅の瞳の奥で、何かが揺れ動いていた。
すぐ近くでは、目を潰された巨大な飛竜が暴れているというのに、まるで視界に入っていない。
ただ僕を。
まるで世界に2人だけしかいないとでもいうように、僕だけを見ていた。
不意に、しゃがんだ。
血に滲んだ僕の視界の中で、彼女は草原に膝をついて、震える指で僕の頬に触れた。
そして、
「――マール?」
小さく呟いた。
その懐かしい声の響きに、僕は驚いた。
それは、
その声は、間違いなく、少女のそれではなくあの人の響きがあって、
ズゥン
黒い飛竜が、こちらを向いた。
激痛と憤怒に猛り狂った1つ目の眼光が僕らを捉えて、至近距離から、幼い人間2人を捕食しようと動きだす。
「…………」
「…………」
でも、僕らは互いを見つめ合っていた。
少女の全身から、キラキラと虹色に光る粒子のような何かがこぼれていく。
その輝きの意味に気づく前に、
タン
少女は、僕を左腕一本で抱きかかえると、軽やかに身を反転させた。
ドゴォオン
『!?』
片目を失った飛竜が、一瞬前まで僕らのいた空間を噛み砕く。
同時に、その右眼に刺さっていた『妖精の剣』は、いつの間にか、少女の右手の中にあった。
(……あ……あぁ)
その動きは、決して素人のものじゃなかった。
魔物との戦いに慣れた、熟練の魔狩人の動きだった。
そして、
「私は……貴方には、本当に返し切れない恩ができてしまったのですね」
泣いているような、笑っているような声。
少女の全身から、剥がれ落ちるように、虹色の煌めく粒子が空へと飛んでいく。
その美しい光の中心に――僕の探し求めていたあの人が、大人の姿をしたあの銀印の魔狩人イルティミナ・ウォンの姿があったんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
風に長くたなびく、深緑色の髪。
美しい真紅の瞳。
失踪した時と同じワンピースに裸足の姿で、僕を左腕1本で支えているのは、紛れもなく、13歳の少女ではなく、20歳となったあの人そのものであった。
(……イル、ティミナさん……)
残った右目を見開く僕に、彼女は微笑んだ。
あの優しい微笑み。
ギュッ
一度、強く抱きしめられる。
「ごめんなさい。……ただいま、マール」
「――――」
耳元で囁かれた、その声。
触れる温もり、甘やかな彼女の匂い……あぁ、間違いないっ。
(イルティミナさん!)
その腕に抱かれて、僕は泣いた。
顔をグシャグシャにしながら、堪え切れない涙がポタポタと地面へ落ちていく。
イルティミナさんの手は、『よしよし』と赤子をあやすように、僕の髪を優しく撫でてくれる。
その時、
「……イルナ……なのか?」
呆然とした声が聞こえた。
オルティマさんだった。
いや、彼だけではない。
少し離れた場所にいたルド村のみんなが、驚いたように、大人になってしまった彼女を見ていた。
「…………」
イルティミナさんの美貌は、悲しげに微笑んだ。
ズキッ
それに胸が痛んだ。
深い郷愁。
後悔。
色々な想いが込められた微笑みだった。
それに気づいて、母親であるフォルンさんが、何かを言おうと口を開こうとした。
でも、その前に、
「父様、母様……7年前はごめんなさい。今度は、私が皆を守ります。――今の私なら、それが叶うから」
静かな決意の声が響いた。
彼女の両親は、息を呑む。
「イル姉ぇ~?」
母親の腕の中にいた幼女が、何もわからないままに、大人になった姉へと短い両手を伸ばした。
イルティミナさんはかすかに微笑んだ。
けれど、すぐにその表情を消すと、未練を断ち切るように、村人たちに背を向ける。
その真紅の瞳が向いた先には、『漆黒の飛竜』の姿があった。
巨大な黒い飛竜は、突然、現れた美しい女に、警戒した視線を送っている。
『……なんなの、貴女?』
イルティミナさんを中心に、円を描くように移動しながら、竜は問う。
彼女は、答えた。
「――貴方の命を狩る者です」
視線を外さず、美しい『魔狩人』の声で。
抱かれていた僕の身体が、優しく離され、地面に座らされる。
「すぐに終わらせます。少しだけ待っていてくださいね、マール?」
いつもの笑顔。
(…………)
コクッ
静かに告げるその人に、僕は強い覚悟を感じながら、頷いた。
彼女は、笑みを深くする。
そして立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。
その右手には、僕の『妖精の剣』。
燃え盛る炎の世界で、舞い上がる火の粉が、美しくその背中を照らしていく。
黒い飛竜は、威嚇するように唸り、姿勢を低くする。
「…………」
その姿を静かに見つめると、
タンッ
美しい『銀印の魔狩人』は焦げた大地を蹴り、素晴らしい速さで、眼前の巨大な魔物へと襲いかかった――。
◇◇◇◇◇◇◇
その戦闘は、まるで夢を見ているようだった。
いくら『銀印の魔狩人』といえど、相手は赤牙竜ガドに匹敵する『圧』を持った飛竜である。決して容易く勝てる相手ではない、と思っていた。
それなのに、
シャッ ギィン ヒュコン
『が……っ!? ぎぃ……っ』
あの人は、そんな魔物を圧倒していた。
(……す、凄い)
前から、強いとは思っていた。
でも、今日のイルティミナさんは、強すぎた。今まで僕が見た中でも一番と思えるほどに凄味があった。
防具を着ていない彼女は、巨大な飛竜の攻撃を、1度でも喰らえば、間違いなく絶命する。
だというのに、
(……5センチもない)
相手の攻撃をかわすのは、ほんの1~2センチの異常な距離だ。
その間合いから繰り出される反撃は、竜の硬い鱗を断ち切る威力で、その肉まで刃を喰い込ませ、切断している。
恐ろしいほど研ぎ澄まされた剣技だった。
僕とは、レベルが違う。
『神狗』となって、彼女と同じような凄まじい身体能力を得ていたからこそ、中身の差によって、これほどまで顕著な差が生まれる事実に、もはや衝撃を通り越し、感動さえ覚えている。
『な……なんなの、貴女!?』
血塗れの飛竜が叫ぶ。
イルティミナさんは答えずに、薙ぎ払われた前足をかわすと、それを踏み台にして跳躍した。
空中で独楽のように回転し、
ヒュコン
飛竜の巨大な翼が片方、根元から断ち切られた。
悲鳴と共に、紫の血が迸る。
それを背景に、イルティミナさんは着地する。
同時に『妖精の剣』を下段から振り上げ、
ザキュン
今度は、飛竜の長く太い尾を切断した。
「…………」
鮮血の向こうに見えたその美貌は、驚くほどに無表情だった。
極限までの集中。
ただ真紅の瞳だけが、ギラギラと強烈な殺意の光を漲らせている。
(……あぁ、そうか)
僕は、ふと思った。
――彼女のこれまでの冒険者としての日々は、全て、この瞬間のためにあったのかもしれない。
忘れられない悲劇。
もう1度、同じことが起きた時に、それを跳ね除けられるだけの力を得ようと、彼女は戦いの日々を重ねていたのかもしれない。
そして奇しくも、本当にその悲劇の瞬間に、今の彼女は立っていた。
イルティミナ・ウォンという女性の全てが、ここで最大限の光を放とうとするのは、当然のことなのだ。
(がんばれ、イルティミナさん!)
声の出ない僕は、必死に心の中で応援する。
全身の負傷や火傷による痛みも、完全に頭から吹き飛んでいた。
ただ、その姿から目を離さない。
心にあったのは、それだけだ。
――そして、その時は訪れる。
『妖精の剣』を手にして、イルティミナさんは、飛竜のもう片翼を斬り裂いた。
黒い皮膜が地に落ちる。
絶叫した飛竜は、大きく喉を膨らませ、凄まじい火炎を放った。
イルティミナさんは被膜を蹴り上げ、盾にする。
ぶつかった炎は、角度を変えて、天へと高く伸びていく――その灼熱の下を、地を這うような姿勢で彼女は走った。
自らの放った炎による死角。
飛竜の隻眼が気づいた時には、イルティミナさんの放った斬撃は、深くその喉を斬り裂いていた。
ドパァン
膨らんでいた喉は、破裂した。
その傷口から、大量の炎が溢れて、飛竜自身の肉体を容赦なく焼いていく。
『――――っ』
声にならない咆哮が周囲に木霊した。
イルティミナさんは、剣を構えながら、ゆっくりと離れる。
炎に包まれながら、飛竜はそちらを見た。
断末魔の力だろうか?
紫色の光が、その全身に滲み上がった。
闇のオーラ。
かつて、変身した人喰鬼も見せた『悪魔の魔力』。
黒い鱗を、炎の高温で赤く輝かせながら、飛竜は全身に紫炎をまとったまま、イルティミナさんへと突進した。
(……イルティミナさん!)
彼女は動かなかった。
静かに虚空を見上げて、
「――我が手に戻れ、白き翼よ」
右手を高く掲げた。
ヴォオン
突然、虹色の粒子が集まり、その手の中に、あの純白に輝く美しい槍を形成した。
カシュッ
翼飾りが大きく開く。
その内側にあった紅い魔法石が煌めき、先端にある刃が炎を反射して輝いている。
そして、いつもの投擲体勢。
(……あぁ)
やっぱりイルティミナさんには、あの白い槍が似合うな――ふと、そう思った。
迫る、巨大な『紫炎の飛竜』。
そして彼女は、これまで何千回、何万回としてきた動作と同じように、その白い槍を放った。
ドパァアアン
白い閃光は、大きく開いた竜の口へ吸い込まれ、その頭部を爆散させた。
紫の輝きが消える。
残された胴体は、『銀印の魔狩人』の横をヨタヨタと走り抜ける。
ドゴッ ガガァアン
そのまま、燃え盛る家屋へと突っ込み、崩れた残骸に埋もれてしまった。炎が天を焦がすほどに強くなり、たくさんの火の粉が流れていく。
キラキラと光が舞う中に、
「…………」
目を閉じて、立ち尽くしているあの人の姿があった。
まるで泣いているようにも、何かの達成感を味わっているようにも、全てを拒絶しているようにも見える不思議で美しい横顔だった。
でも1つだけ。
彼女の長い旅は、ようやく終わったのだと思った。
(……イルティミナさん)
その姿を見届けた僕は、なんだか眠くなった。
とても。
とても眠くなった。
まぶたが重く、ゆっくりと閉じていくのに逆らえない。
狭まる視界。
ふと、イルティミナさんがこちらに気づいて、振り返った。
月のような白い美貌。
本当に綺麗な人だなぁ……と、ぼんやり思った。
少し慌てた様子で、彼女は、こちらに駆けだした。その口が動いて、何かを言ったけれど、よく聞こえなかった。
(――――)
目を閉じる。
そのまま僕の意識は、遠い闇の奥へと消えていってしまった――。
ご覧いただき、ありがとうございました。
※次回更新は、3日後の月曜日0時以降になります。よろしくお願いします。




