134・少女と森の採取
第134話になります。
よろしくお願いします。
翌朝、日の出と同時に、僕は起こされた。
「おはよう、マール君」
「……おはよ」
朝日に照らされる笑顔のイルティミナさん。
けれど、その姿は、やっぱり13歳の姿のままで、
(……夢じゃないんだね?)
僕は、いまだ自分が7年前の世界にいるのだと思い知らされる。
短い吐息と共に、上半身を起こす。
すると、彼女は微笑みながら、僕の髪を優しく撫でた。
……え?
「寝癖」
驚く僕に、そう笑う。
そして彼女は立ち上がると、部屋の出入り口へと向かい、
「朝食できてるから、マール君もすぐに来てね」
そう言い残して、去っていく。
(…………)
その姿にしばらく見惚れて、そして僕はパンッと頬を叩くと、寝台から起き上がった。
◇◇◇◇◇◇◇
居間には、すでに4人が揃っていて、僕を待っていた。
「おはよー、マァル~!」
両手を上げて喜ぶ幼女。
僕も「おはよう」と笑って、用意された席に着いた。
手を合わせ、みんなで朝食をいただく。
内容は、昨夜と同じメニューだった。
一応、スープの中身の野菜が少し違っていたけれど、味つけも変わらない。
もちろん文句はなかった。
(食べられるだけで、充分、ありがたいよ)
そう思う。
また食事中に教えてもらったんだけど、食事は1日2回、朝夕だけなんだそうだ。
成長期の僕には、地味にショック。
でも、豊かな村ではないから、それが精一杯なんだ。
今の季節はいいけれど、冬になれば収穫が減る。その時に備えて、今から食糧は備蓄していかなければいけないんだって。
やはり隠れて生きるというのは、大変だ。
そういう理由もあってか、幼い姉妹は今日も、森で採取を行うつもりだそうだ。
「大丈夫なのか?」
昨日の今日で、心配する父親のオルティマさん。
でも、
「大丈夫よ、今日はマール君もいてくれるし」
(え……? 僕も同行するの、確定なの?)
少女の答えに、ちょっと驚く。
オルティマさんは何か言いたげだったけれど、奥さんのフォルンさんが微笑みながら、
「まぁ、それなら安心ね」
と承諾したことで、言葉を飲み込んだ。
……この家族の力関係が、なんとなく見えた気がする。
「マール君もいいよね?」
「うん」
少女に問われた僕は、もちろん頷いた。
あまり、そばを離れたくないのも正直な気持ちだった。
そうして朝食後、僕は姉妹と3人で、ルド村の外の森へと再び足を運ぶことになったんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
朝日の木漏れ日を浴びながら、僕らは、木々の間を歩いていく。
採取場所までは、1時間ほどの距離だという。
その間、幼いソルティスの腰には、昨日の教訓でロープが巻かれ、その反対側の先端は、姉の手にしっかりと握られていた。
でも幼女は、時々、ロープの存在を忘れて、
トテトテ ポテンッ
「あぅ」
リスや小鳥などを追いかけようとしては、ロープに引っ張られて転んだりもした。
「もう、ソルったら……。大丈夫?」
「だじょーぶ!」
心配する姉に、右手を突きだして元気に答える幼女。
僕とイルティミナさんは、顔を見合わせて、笑ってしまった。
そんな風にして、僕らは森を歩く。
やがて、到着した採取場所は、川の近くの森だった。
「ここには、色々な木の実がなってるの」
少女のイルティミナさんは、両手を広げて周囲を示しながら、そう笑った。
(ふぅん?)
言われてみれば、なるほど、周囲の緑色の葉の中に、カラフルな色の実たちが見えている。
たくさんの種類があるようだ。
そして、その1つに僕は見覚えがあった。
「あ、チコの実だ」
かつてアルドリア大森林・深層部で見つけた時のように、僕のお腹ぐらいの高さの背の低い木に、赤と黄色の小さな実がいっぱいなっていた。
イルティミナさんが驚いた顔をする。
「知ってるの?」
「うん」
僕は笑った。
「黄色い方は、まだ熟してないから毒素が残ってて、食べられないんだよね?」
「うん。そんなことまで知ってるんだ?」
彼女は感心した顔である。
プチッ
僕は、赤い実を1つ、手に取って、
「前に、僕に教えてくれた人がいたんだ」
と呟いた。
彼女は僕の横顔を見つめて、
「もしかして、マール君のご両親?」
と訊ねてくる。
僕は、ゆっくり首を左右に振った。
「違うよ。親はいないんだ。気づいたら、1人だったから」
「……あ」
口元を押さえる少女。
僕は笑って、僕と同い年になってしまった白い美貌を見つめ返した。
「その人は、僕の恩人なんだ」
「…………」
「母親みたいな、姉みたいな、とても優しい人で、出会ってから、ずっと僕のそばにいてくれたんだよ」
「そうなんだ」
イルティミナさんは、小さく頷く。
それから、
「その人は今、どうしているの?」
と問われた。
(…………)
僕は少し迷ってから、
「行方不明、かな? だから、一生懸命探そうと思ってる」
と答えた。
彼女は「そう」と心配そうに答えて、それから、はにかんだ。
「すぐに見つかるといいね、マール君の大切な人」
「うん」
僕は頷いた。
そして、手の中にあった赤い実をかじってみる。
カリッ プチュッ
固い皮が破れると、あの酸っぱい果汁が、懐かしさと一緒に口の中いっぱいに広がった。
◇◇◇◇◇◇◇
森での採取は、2時間ぐらい行われた。
イルティミナさんは、幼い頃から父様に覚えさせられたそうで、食べられる物、食べられない物をしっかり判別できるそうだ。
(うん、さすがだね)
なぜか僕も誇らしい。
チコの実やフォジャク草しか知らない僕は、博識少女に言われた通りに採取する。
やがて、木の実や野草などを、種類ごとに分けて布に包むと、固さや重さに応じて順番に、それぞれの背負い鞄に詰め込んだ。
1つ1つは小さいけど、集まれば、結構な重さだ。
「少し休憩しましょう?」
額に煌めく汗を腕で拭って、少女のイルティミナさんは笑った。
うん、賛成。
僕らは、川原の砂利の中で、大きな石を選んで腰を下ろした。
(ふぅ)
炎症の残った身体で動いたので、ちょっと痛みがある。
イルティミナさんは靴を脱いで、清流の流れる川に、両足を浸していた。なんだか気持ち良さそう。
採取の間も遊んでいたソルティスは、川の中にいる小魚を掴もうとしたり、小さなサワガニに指を挟まれたり、とにかく元気だった。
森を抜ける風が、心地いい。
目を閉じたまま、その風に、自分の髪を遊ばせていると、
「……マール君って、シュムリアの人だったんだね」
と声が聞こえた。
(ん?)
目を開ける。
彼女はこちらを見ながら、微笑んでいた。
「父様に聞いたの」
「そう」
別に隠したいわけでもない――僕は頷いた。
「マール君、凄く遠くから来てたんだね」
「うん」
アルンまで、2ヶ月かかる距離だもんね。
パシャッ
彼女は、水面を蹴った。
陽光を反射して、綺麗な水飛沫が飛ぶ。
「いいなぁ。……私は、この村でずっと暮らしているから」
「村から出たことないの?」
「あるわ」
と答えて、
「でも、3回だけ。それも近くの同じ町に、父様たちと一緒に行商に行っただけ」
そう続けた。
彼女が言うには、村で狩った動物の毛皮や木彫りの玩具などを、近くの町まで売りに行くことがあるのだそうだ。そこで得た現金で、あるいは物々交換で、生活に必要な物を購入したりしているんだって。
(へ~、そういう生活なんだ?)
彼女は落ちていた枝を拾い、小さなナイフで削る。
シャッ シャッ
5分もしないで、翼を広げた木彫りの鷹が完成した。
「凄い」
僕は感心する。
イルティミナさんは、照れ臭そうに笑った。
「今は、簡単にやっただけよ? 本当は、もっと丁寧に削って、彩色もするんだから」
「そうなんだ?」
確かに、大雑把に削っただけ。
でも、今にも飛び立ちそうな躍動感があった。
「もしよかったら、あげる」
「いいの?」
やった。
「ありがとう、イルティミナ」
僕は、嬉々として受け取った。
早速、太陽の光に透かしたり、色々な角度から眺めてしまう。
(凄いなぁ)
うん、本当に格好いい。
そんな僕の反応に、イルティミナさんも嬉しそうに笑ってくれる。
でも、その笑顔はすぐに萎んだ。
「マール君みたいに喜んでくれる人、実は、あんまりいないんだ」
「え?」
キョトンと振り返る。
彼女は長く息を吐いて、美しい真紅の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめた。
小さな両手が、キュッと握られる。
「私ね――『魔血の民』なの」
短い告白。
(…………)
はっきりした声で、けれど、その内側で心が震えているのがわかった。
パシャン
ソルティスが、また小魚を掴もうとしたのか、水面の弾ける音がする。
僕は、ゆっくり息を吐いた。
「そっか」
とだけ返事をする。
「……驚かないの?」
彼女は、意外そうだった。
僕は苦笑する。
「なんとなく、そうだと思ってた」
「…………」
「僕は冒険者だから、『魔血の民』の知り合いもたくさんいるんだ。それに森でのオルティマさんたちの動きは、普通じゃなかったし、だから、その娘のイルティミナたちもそうなのかなって思ってた」
そんな風に答えておいた。
少女のイルティミナさんは、僕を見つめたまま、目を丸くしている。
それから、表情を少ししかめて、
「……じゃあ、私のこと、怖くない?」
「全然」
僕は、はっきり答える。
彼女は、泣きそうな顔をした。
すぐに俯いて、綺麗な髪のカーテンに、その表情が隠れる。
「……そっか」
短い呟き。
そして、あげられた顔は、また優しい微笑みを湛えていた。
「よかった。マール君に嫌われなくて」
「……ん」
僕も、笑顔だけを返した。
今の告白が、どれだけ勇気がいることだったか、僕には想像することしかできない。でも、教えてもらえたことが嬉しかった。
とても。
とても、嬉しかった。
「信じてくれて、ありがとう、イルティミナ」
だから、感謝の言葉。
それに彼女は驚いた顔をして、「ううん」とはにかむように笑ってくれた。
◇◇◇◇◇◇◇
彼女は、行商の時の『嫌な思い出』も話してくれた。
行商先の町は、珍しくも『魔血の民』が入ることを許してくれる町だった。
けど、差別があるかないかは、別の話。
「同じ品物でも、私たちが売る物は、値段が買い叩かれるの」
だそうだ。
初めて行った時は、まだイルティミナさんも幼くて、大人たちが商売の話をしている間、町の知らない子供たちと遊んだりもしていた。
ところが親から『魔血の民』だと教えられたその子たちは、途端に態度を変えた。
からかわれ、棒で殴られ、石を投げられた。
(…………)
その子らを殴ってやりたい。
仲良しだった子らの突然の豹変に、幼い彼女は、とてもショックを受けたそうだ。
「ここ、まだ石のぶつけられた痕が残ってるのよ?」
そういうイルティミナさんの手に導かれて、彼女の右耳の上、美しい髪の中の皮膚に触れさせられる。
サラッとした髪の感触に、ドキドキした。
でも、指先に感じた小さな肉の膨らみに、その感情も消えてしまった。
みみず腫れのような、小さな傷痕。
髪に隠れているけれど、彼女は女の子なんだ。
その事実や当時の心境を思うと、もう胸が痛くて堪らない。
「…………」
「……マール君……」
僕の沈んだ表情に、イルティミナさんは、なんだか優しい表情を浮かべていた。
ナデナデ
不意に頭を撫でられる。
「マール君みたいな人が、世界にいっぱいいたら、いいのにね」
「…………」
なんだか、こっちが慰められてしまった。
「ん~っ!」
気を取り直したように、彼女は、大きく伸びをする。
パシャッ
また水面を蹴って、
「ね? シュムリア王国って、どんな国?」
そんな質問をされた。
(ん~)
暮らして、まだ数ヶ月の僕だけど、僕なりの感想を正直に答えてみた。
「いい国かな」
「いい国?」
「うん。もちろん、いい面ばかりじゃなくて、悪い面もいっぱいあるよ。でも、総じていい国だと、僕は思ってる」
そう感じるのは、あの人の影響もあるだろう。
彼女の暮らしている国だから、彼女の選んだ国だから、僕も気に入ってるのかもしれない。
だから、色眼鏡で見ているのかも、とも思う。
でも、
「少なくとも『魔血の民』への差別は、アルン神皇国より酷くないかな」
その一点だけでも、僕は評価したい。
(もちろん、差別が完全になくなれば、一番いいんだけど……)
心の中で、そう付け加える。
イルティミナさんは、しばらく考えてから、「そっか」と呟いた。
パシャッ
また水面を蹴った。
そして、
「昔はね、おじい様たちもシュムリア王国に近い、辺境で暮らしていたんだって」
と言った。
「そうなの?」
「うん。でも、迫害が酷くなったから、土地を捨てて、神帝都のある方へと逃げだしたの。逃げた先で迫害にあって、また逃げて……ずっと、その繰り返し」
「…………」
「やがて、神帝都についたけれど、物価が高くて暮らせないことがわかって……」
そこで、少女はため息を1つ。
「そうして、今の場所に村を造って、ずっと隠れて暮らしてるんだ」
と締め括った。
(そうだったんだ?)
ちなみに、それがオルティマさんが子供の頃の話。
イルティミナさんは、おじい様の顔を見たことはなく、彼女が生まれる前に亡くなっているそうだ。
彼女は、清流の流れを見つめながら、
「おじい様たち、逃げるならシュムリア側にすればよかったのに……」
とぼやいた。
僕は、苦笑する。
結果を見れば、そうだったのかもしれない。
でも、国境破りは大罪だ。
キルトさんの話では、国境警備隊に見つかれば、死罪だということだった。
当時のおじい様たちの判断は、決して責められないと思う。
(むしろ、過去を悔やんでいるよりは……)
僕は言った。
「今からでも、みんなでシュムリア王国に移住すれば?」
「え?」
イルティミナさんは、目を見開く。
それを想像しているのか、少しだけ遠い目で、青い空を見上げた。
それから、再び僕を見る。
「その時は、マール君が連れて行ってくれる?」
「うん、いいよ」
僕は頷いた。
ここに残っていれば、悲劇が起きる。それを回避できるなら、移住の決断もいいと思った。
少女は、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、マール君」
「…………」
「じゃあ、その時は、ぜひお願いするね」
柔らかな声。
僕の提案は、ただの冗談や慰めだと受け止められたようだ。
(…………)
説得したいと思った。
でも、どう言っていいのかわからなくて、僕の喉からは、ついに言葉が出なかった。
歴史を勝手に変えていいのか、という恐怖もあった。
「マール君?」
「…………。ううん、何でもないよ」
それに気づいたイルティミナさんに、僕は、誤魔化すように首を振った。
バッシャン
その時、大きな水音が響いた。
2人でビクッとして、振り返る。
「あ~う~?」
魚を追いかけ、足を滑らせたらしいソルティスが、水面に尻餅をついていた。
お尻がびっしょりだ。
「…………」
「…………」
僕と少女のイルティミナさんは、顔を見合わせる。
堪えきれず、すぐに吹き出して、青空の下の森で、僕らは一緒に大きく笑い声を響かせた――。
◇◇◇◇◇◇◇
幼女のスカートを乾かし、採取した木の実のつまみ食いをしたりして、30分ほどの休憩は終わった。
ちなみに、ソルティスはカボチャパンツでした。
「じゃあ、帰りましょう」
「うん」
「あい~」
少女の号令で、僕らは立ち上がる。
背中には、集めた木の実や野草の詰まった鞄を背負っている。
もちろん幼女ソルティスは、また腰にロープを結ばれ、その反対側は姉が持つ。
そうして帰路へ。
ザッ ザッ
木々の間を抜け、草を払いながら、森を進んでいく。
幼い姉妹と歩いていると、まるでハイキングをしている気分だ。
その時、ふと風向きが変わった。
(……ん?)
かすかな生臭さが鼻を衝き、僕は足を止めると、背後を振り返った。
何もない森の景色。
「…………」
僕はしばらく、そこを見つめた。
「マール君?」
気づいたイルティミナさんが、不思議そうに声をかけてくる。
僕は彼女を見ずに、訊ねた。
「あのさ……昨日みたいに森で狼に襲われるのって、よくあること?」
「まさか」
驚いた声で、彼女は否定する。
「森の奥ならともかく、ここは村に近い場所だもの。危険な動物や魔物は、父様たちが狩っているわ」
「…………」
「それに森の奥に入るのが禁じられているのも、一番の理由は、外の人間に会わないためだもの。魔物と遭遇することなんて滅多にないわ」
そうなんだ。
(……じゃあ、僕の思い過ごしかな?)
頷いた僕は、「止まってごめんね」と謝って、姉妹と一緒にまた歩き出した。
5分ほど進む。
生臭い臭いは、変わらなかった。
「…………」
背後をもう一度、見る。
「マール君?」
「ちょっと、急いで帰ろうか」
僕はそう言うと、幼女ソルティスを抱き上げた。
イルティミナさんは驚いていたけれど、僕の表情から何かを感じたのか、素直に頷いてくれた。
そのまま、歩を速める。
「あーうー♪」
幼女だけは楽しそう。
ザッ ザッ ザッ
草を弾きながら、僕らは早足に歩いていく。
でも、臭いはずっとついて来る。
(……追いかけられてる?)
そう思った。
昨日、少女のイルティミナさんが襲われていたのは、ルド村から半日は離れた場所。
今日は、ルド村から1時間の場所。
だいぶ離れているけれど、獣たちの活動範囲としては有り得る距離なのかな?
「…………」
「…………」
僕らは、黙々と歩く。
最初より、生臭さが強くなっていて、もうイルティミナさんも異変に気づいているようだった。
「マール君。荷物、置いていこう」
「わかった」
せっかく集めた食糧だけど、命には代えられない。
ドサッ ドサッ
僕らは、重い背負い鞄を、地面に落とした。
更に、足を速める。
「走っちゃ駄目よ。走って逃げる獲物には、反射的に襲ってくるから」
「うん」
少女の警告に頷く。
ザザッ ザザッ
ルド村の隠された入り口の洞窟まで、あと10分もかからない距離になった。
もう少し――そう思った時だった。
「マァル~、イル姉ぇ?」
ふと、幼女の呟きが聞こえた。
「あえ、なぁに?」
小さな指が伸ばされて、僕らの背後の森を差す。
(…………)
振り返りたくないと思った。
隣の少女も同じ顔だ。
でも、それでも僕らは感情を押し殺して、そちらを見るしかなかった。
ゆっくり首を回していく。
その視線の先――密集した木々の奥に、真っ赤な毛皮の魔物がいた。
(……嘘でしょ?)
体長5メードはある巨大熊。
黒い毛並みの中、真っ赤な毛が模様のように全身を包んでいる。しかも頭部からは、捻じれた2本の角が生え、前方へと突きだされていた。
普通の熊じゃなかった。
「魔熊……」
イルティミナさんが驚愕したように、その魔物の名前を呟いた。
(魔熊……あれが?)
討伐依頼で、名前を見たことがある。
ベキ バキンッ
僕らに気づかれたことがわかったのだろう、巨大熊の魔物は、もはや追跡を隠すことをやめ、目前の木々を音を立てて粉砕しながら、ゆっくり近づいてくる。
その距離、およそ30メード。
「……嘘よ。なんで魔熊が、こんな場所にいるの?」
少女の声が、恐怖に震えている。
(…………)
僕は、唇を引き結んだ。
魔熊から目を離さずに、抱いていたソルティスを姉へと預ける。
「先に行って」
妹を抱きながら、彼女は驚いた顔をした。
「マ、マール君?」
「僕が足止めをしておく。君たちは、先に村まで戻って、助けを呼んで来てくれる?」
「で、でも――」
少女が声を発する前に、
「大丈夫」
カチャ
見せつけるように、左手で『妖精の剣』の柄に触れる。
「僕は、これでも『魔狩人』なんだよ?」
そう安心させるように笑った。
それでも、優しい少女は、逡巡しているようだった。
バキッ ベキキッ
だけど、状況は待ってくれない。
魔熊は、こちらへの接近を続けている。
僕は続けた。
「君たちがいても足手まといだ。1人の方が戦える」
「…………」
「それとも意地を張って、ソルティスちゃんも、ここに残させるつもり?」
ちょっと卑怯だけど、幼女を引き合いに出してみた。
イルティミナさんは苦しそうな顔をして、その手に抱いている大切な妹を見る。
「あ~ぅ?」
何もわかっていない幼女は、物珍しそうに迫る魔物を見つめて、幼い両手を伸ばしていた。
僕らは、つい苦笑する。
そして、少女の美しい真紅の瞳が、こちらを向いた。
「わかった。すぐ戻るから」
「うん」
貴重な数秒、僕らは見つめ合う。
そして、少女はこちらに背を向けると、妹を抱えたまま、一目散に森の奥へと走りだした。
(…………)
それを見送る。
そして僕は、大きく息を吐くと、もはや地響きを立てて迫る赤い魔物の方を、身体ごと振り返った。
「……さぁ、行くぞ」
覚悟を決める。
そして僕の右手は、『妖精の剣』の柄を握ると、その美しい刃を静かに鞘から抜き放った――。
ご覧いただき、ありがとうございました。
※次回更新は、3日後の月曜日0時以降になります。よろしくお願いします。




