100・飛行船の旅
第100話になります。
よろしくお願いします。
その日の夜、僕らを乗せた飛行船は、アルンの空へと飛び立った。
(おおお……本当に浮いてる!)
窓から見えるロンドネルの街が、どんどんと遠ざかる。
イルティミナさんも、僕を背中側から抱くようにしながら、一緒に窓を覗いている。1つ隣の窓には、ソルティスが張りついている。キルトさんは、少女に窓の大部分を譲りながら、隙間から外を眺めていた。
「本当に、空を飛ぶのですね」
「うん」
感心したようなイルティミナさん。
大きく頷く僕。
「うは~、これは凄いわ!」
「ふむ、そうじゃの」
ソルティスも興奮していて、あのキルトさんも物珍しそうだ。
やがて、夜の闇へと、ロンドネルの街は溶けていき、残されたのは、人々が暮らす光の集合体だ。
とても綺麗で、幻想的だった。
(耳がキーンとなってきた)
気圧が変わってるんだ。
高度は、もう2000~3000メードぐらいかな? 飛行船は、雲と同じ高さを飛んでいる。
「……なんか、耳が変だわ?」
ソルティスが呟く。
「唾を飲んだり、あくびするといいよ」
前世知識のアドバイス。
キルトさんも、頷いた。
「ふむ、高山に登った時と一緒じゃな」
「うん」
僕ら4人は、みんなで唾を飲んだり、大きく口を開けて、あくびを誘ったりした。
ちょっと面白い光景だった。
翼の先端にあるプロペラが回り、飛行船の速度が上がる。
(……雲が綺麗だな)
雲海だ。
紅白2つの月光に照らされて、柔らかそうな水滴と氷晶の海原は、時に青白く、時に紅色に染まっていて、美しかった。
キシ ギシシ
風にあおられて、時々、船体の軋む音がして、揺れる。
「……空中分解しないでしょうね?」
「…………」
変なこと言わないで、ソルティス。
青ざめる僕に、大人2人は、余裕のある表情で、可笑しそうに笑っていた。
そんな風に、空の旅を楽しんでいると、
コンコン
不意に、部屋の扉がノックされた。
「失礼する」
入ってきたのは、黒い鎧ではなく、軍服姿のフレデリカさんだった。
(わ、格好いい)
男装の麗人だ。
艶やかな長い青髪は、細い三つ編みにして、頭の後ろで、お団子にまとめられている。
彼女は、碧色の瞳で僕らを見回して、
「遅くなったが、夕食の準備ができた。船内食堂まで案内する」
そう告げた。
「わ、やった」
「私、お腹ペコペコだったのよ」
喜ぶ僕とソルティス。
成長期の僕らの発言に、彼女は「それはよかった」と小さく笑った。
そうして僕らは、フレデリカさんの案内で、船内食堂へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇
船内食堂は、40人ぐらい一緒に食事ができそうな、円形のレストランだった。
周囲はガラスの壁で、景色が一望できる。
でも今は、真っ暗な夜なので、室内の光を反射して、外の様子は見えなかった。
(ちょっと残念)
昼間なら、きっと素晴らしい景色が楽しめるだろう。
軍服姿の人たちが座る間を抜けて、僕ら4人は、フレデリカさんに案内された席に座る。料理は、すでにテーブルに用意されていた。
「うわぁ」
「美味しそう!」
歓声をあげる僕とソルティス。
赤身の綺麗なローストビーフが、花びらのように並んでいる。かけられたソースも、模様みたいで面白い。添えられた新鮮そうな野菜が、彩りを華やかにしている。
他にも、蒸かしたホクホクの芋や、焼いたチーズと目玉焼き、瑞々しい果物とクリームのデザート。
(もう涎が止まらないよ)
フレデリカさんは、笑う。
「貴殿らの口に合うといいんだが」
うん、早く試させてください。
そして、僕らは食事を開始した。
(に、肉が、口の中で溶ける……っ!)
高級なお肉なんだろうな。
僕もソルティスも、手が止まらず、一心不乱に並んだ料理を胃袋に納めていく。キルトさんとイルティミナさんは、ちょっと苦笑いしていた。
「子供が食欲旺盛なのは、良いことだ」
フレデリカさんは、そう笑って、自分の食事を始める。
背筋を伸ばしたまま、ナイフとフォークを綺麗に使って、上品に食べる姿は、とても格好良かった。
2人の魔狩人も、礼儀正しく食べ始める。
「…………」
「…………」
僕とソルティスは、ちょっと反省して、ペースを落とすことにしました。
食事が一段落した頃、
「気になっていたのだが、フレデリカ? そなたは、もしや、ダルディオス将軍の親族であるのか?」
キルトさんが突然、ワインのような果実酒のグラスを傾けていた彼女に、そう質問した。
(……ダルディオス将軍?)
問われたフレデリカさん――フレデリカ・ダルディオスさんは、グラスをテーブルに置いた。
「あぁ、娘だ」
と首肯する。
キルトさんは「やはりな」と頷き、イルティミナさんは驚いた顔をする。
ソルティスは、「?」と知らない様子。
僕は、聞いた。
「その人、誰?」
「常勝無敗の大将軍アドバルト・ダルディオス。――アルン第1騎士団の団長であり、アルン神皇国で1番有名な将軍ですよ」
へぇ?
(じゃあ、フレデリカさんは、その娘さん?)
実は彼女、凄い人だったんだ。
フレデリカさんは、苦笑する。
「すでに常勝無敗ではない。7年前、そちらのキルト・アマンデス殿に、父は敗れている」
「えっ!?」
僕らの視線が、凄まじい勢いで彼女に向いた。
今度は、キルトさんが苦笑して、
「昔、御前試合でな」
(……御前試合?)
彼女は、グラスのワインを一気飲みして、スタッフにおかわりを頼むと、興味津々の僕らに、7年前のことを教えてくれた。
7年前、アルン神皇国では、祝宴があった。
アルン皇帝陛下とシュムリア王家出身の皇后様がご結婚されて、10年目という節目の祝いだ。
当然、その祝いの席には、シュムリア王国側からも、たくさんの人々が招待され、その中の1人には、当時、『金印の魔狩人』として2年目で、すでに『シュムリア最強』との呼び声も高かったキルト・アマンデスも含まれていた。
そして、皇帝の御前で行われた宴席でのこと。
催しの1つとして、戯れに、常勝無敗のダルディオス将軍と金印の魔狩人キルト・アマンデスの決闘が、突如として持ち上がった。
「わらわも若かったしの」
噂の将軍との手合わせに、彼女の胸も躍った。
酒宴の席でもあり、皇帝もそれを求めて、忠実なるダルディオス将軍も承諾、2人は、御前試合をすることとなった。
凄まじい戦いだった。
皆の酔いが冷め、熱狂と興奮が渦巻いた試合は、けれど大方の予想を裏切り、なんと若かりしキルト・アマンデスが、歴戦の雄であるダルディオス将軍の木剣と鎧ごと、その右肩の骨を打ち砕き、見事、勝利を収める結果となった。
アルン神皇国の象徴たる将軍の敗北に、人々は呆然。
シュムリア王国側も、まさか本当に勝つとは思っておらず、実は危うく、外交問題になるところだったそうだ。
(じゃあ、なんで戦わせたんだろ?)
呆れる僕らである。
キルトさんは苦笑して、
「本来は、アルン強しと華を持たせる場であったのじゃろうな。気づかぬわらわも、愚かであった」
「ふぅん?」
「しかし、その窮地を救ってくれたのは、皇帝陛下じゃ」
アルン皇帝陛下は、その戦いぶりに感嘆し、若き『金印の魔狩人』を素直に称賛した。
おかげで、場は収まった。
そして、勝者の褒美として、キルトさんに与えられたのが、あの『雷の大剣』だ。
ダルディオス将軍も、素直に敗北を認めて、彼女の強さを称賛してくれた。後日、屋敷に招かれて、また酒を交わし、そこでも飲み比べで打ち負かして、2人は、とても仲良くなったんだって。
(……さすが、キルトさん)
もうそれしか、言葉がないよ。
その時、当時13歳だったフレデリカさんは、1度、キルトさんに会っているそうだ。
「何!? そうなのか?」
それを聞いたキルトさんは、驚いている。
どうやら覚えてないらしい。
フレデリカさんは「無理もない」と苦笑した。
その時の彼女は、貴族のご令嬢としてドレス姿だった。
今とイメージが全然違う。
そして、そんな貴族令嬢だったフレデリカさんが、女だてらに騎士になったのも、実はキルトさんの影響だったそうだ。お酒に酔ったキルトさん、幼い彼女に、剣の握り方や振り方などを講義して、軽く手合せもしたらしい。
「…………」
「…………」
「…………」
「す、すまぬ」
僕らの視線に、思わず謝るキルトさんだった。
それにしても、ダルディオス将軍か。
(どんな人なんだろ?)
ちょっと興味が湧いた。
キルトさんは、言う。
「正直に言うとの、もう1度やって勝てる自信はない。それほどの御仁じゃ」
「…………」
「それにダルディオス将軍の真価は、万を超える軍勢を手足のように扱う指揮力であり、大局を見極める集団戦での軍事力じゃ。常勝無敗は、戦時下における称賛であり、個人の武に対してではない。――少なくとも、わらわには、その軍才はないからの」
そして彼女は、再び注がれたワイングラスを傾ける。
(なるほどね)
キルトさんの言葉に、フレデリカさんもどこか満足そうだ。
が、すぐに表情を改め、
「確かに私は、そのダルディオス将軍の娘だ。父を尊敬もしている。しかし、父は父、私は私だ。――貴殿らを案内する任を賜ったことと、父の存在は関係ない」
「ふむ、そうか」
その忠告に、キルトさんは頷いた。
(…………)
きっと彼女にも、色々あったのかな?
有名な父の存在が人々に色眼鏡をかけさせ、彼女自身の努力や実力を認めてもらえなかったりとか、偉大な父と比べて、自分に失望したりとか、辛い出来事も多かったのかもしれない。
イルティミナさんが、澄まして言う。
「ご心配なく。将軍の存在など、私たちは、元から気にしていませんよ」
フレデリカさんが、驚いたように振り返った。
そんな彼女を見つめて、
「それに先日の戦いで、貴方の実力はわかっています。――貴方の強さは、充分、信頼に値するものでしょう?」
「…………」
真紅の瞳に見つめられ、フレデリカさんは一瞬、泣きそうな顔をした。
でも、本当に一瞬だ。
すぐに真顔になって、
「そうか」
「…………」
「すまないが、所用を思い出した。私は、これで先に失礼する」
そう席を立って、彼女はそのまま、レストランから出ていってしまった。
(…………)
チラッと見えた横顔は、真っ赤だった。
残された僕ら4人の間には、なんだか、優しい空気が残っている。
僕らは笑い合って、食事を再開した。
と、ふと思い出したように、キルトさんが付け加える。
「そういえば、7年前のその時、シュムリア王国に帰る道すがら、わらわは、傷だらけであったイルナとソルを見つけたのじゃったな」
「……え?」
驚く僕。
思わず、姉妹を振り返る。
「そうでしたね」
「ごめん。私、よく覚えてないわ」
そんな答え。
…………。
(なんだかアルン神皇国って、この3人の因縁が、いっぱい詰まった土地みたいだね?)
そう思った。
そして僕は、そんな3人の美しい仲間たちを眺めながら、最後のローストビーフの一切れを口に運び、溶けていくそれを、喉の奥へゴクンと飲み込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇
あれから3日が過ぎた。
天候も安定していたおかげで、僕らの空の旅は、順調に進んでいる。
日中、窓の外に広がるのは、広大なアルンの大自然だ。
荒野を抜けた先には、森林や草原が広がり、陽光を反射する青い湖や大河、落差の凄まじい滝などが現れた。遠方には、白い雪帽子をかぶった山脈が連なっている。
(あれは、飛竜かな?)
山の近くに、黒い影が、いくつか見える。
こんなに距離があるのにわかるんだから、1匹1匹が相当な大きさだ。ちょっと怖い。
眼下の森林では、3人の巨人が歩いている姿があった。
「あれは、トロールですね」
久しぶりのイルティミナ先生が、横から教えてくれる。
身長3メードぐらいの太った巨人たちは、頭が妙に小さくて、足は短く、逆に、腕は地面に届くほどに長くて、太い。その手には、丸太みたいな棍棒が握られている。
そこには、血がべっとり付着していて、彼らは歩きながら、巨大な猪みたいな死体を食べている最中だった。
(本当に、魔物だらけの世界だなぁ)
つくづく、そう思った。
空から見える地上の景色は、ほとんどが大自然だ。人間の支配している領域は、本当に少ない。
夜になると、それが顕著にわかった。
真っ暗な地上には、人の暮らしている場所には、光が灯る。
それの、本当に少ないこと。
大部分が闇に包まれた中、人々の光は、数少なくポツンポツンとあるだけなのだ。闇の部分は、危険な魔物たちの生存領域、それに包まれる光たちは、吹けば飛ぶように弱々しく見えて、妙に恐ろしい気持ちだった。
(……だから、魔物を狩る『魔狩人』がいるんだね?)
改めて、イルティミナさんたちの凄さを感じた気がした。
さて、そんなある日のこと、僕は、キルトさんに呼び出されて、飛行船の中にある格納庫の一角にいた。
そこには、なぜか御者のシュムリア騎士さん3人と、フレデリカさんを始めとしたアルン第7騎士隊の10人もいる。……なんで?
僕以外も、全員、不思議そうな顔だ。
そんな一同を見回し、それから最後に僕を見て、キルトさんは師匠の声で言った。
「マール、そなたには今から、この全員と剣を合わせてもらう」
「へ?」
突然の言葉に、僕は驚く。
いや、みんなが驚いていた。
彼女は言う。
「ここにいる全員、『魔血の民』ではない。その『魔血』なき実力者たちの剣を、そなたも1度、知っておけ」
「う、うん」
そういえば僕は、『魔血の民』以外の人の剣を、あまり知らなかった。
唯一知っているのは、ならず者や野盗ぐらいかな?
キルトさんの視線は、僕以外にも向く。
「そなたらも、アルン、シュムリア、両国の剣の違いを知れ。親善の目的もあるが、手を抜くでないぞ? ――せっかくの機会じゃ、このキルト・アマンデスの実力も、見せてやる」
最後の一言に、全員どよめいた。
その瞳が、子供のように輝いている。
(あぁ、やっぱりみんな、強さに憧れがあるんだね?)
全員、騎士になるぐらいだ。
剣の修練も、凄まじい年月を費やしているだろう。そして、キルト・アマンデスの剣は、その頂点に位置する剣だもんね。
(……そう考えると、僕って本当に恵まれてたんだなぁ)
今更、気づく。
フレデリカさんも、父を超える剣への期待に、切れ長の美しい瞳を爛々と輝かせていた。
僕も、負けてられないな。
拳を握って、気合を込める。
そんな一同を眺めて、キルトさんは、満足そうに頷いた。
「よし。では、始めるぞ!」
◇◇◇◇◇◇◇
結果から言うと、僕は、全敗してしまった。
(みんな、強い……)
生まれながらの肉体ハンディがない状態で、言い訳もできない。少しは勝てるかも、なんて慢心は、粉々に打ち砕かれた。
「はぁ……」
格納庫の壁に寄りかかって座り、僕は、木剣をぶつけ合って、痺れた自分の手を見つめる。
目の前では、シュムリア、アルンの両騎士2名と、同時に1人で戦っているキルトさんの姿があった。その凄まじい剣技の応酬は、僕よりずっと格上だった。
情けない。
(全然、未熟だよ、僕)
痛感したのは、剣技と剣技の間の『繋ぎ』の部分だった。
1つ1つの剣技なら、そこまで負けてない。
でも、それらを流れとして使う時、その繋ぎ目で、僕は停滞が起きてしまう。他の人たちには、それがない。滑らかで淀みなく、まるで美しい音色を奏でているようだった。一方の僕は、ブツ切りの嫌な音色。
その瞬間だけを見ている僕と違って、みんなは、戦い全体の流れを見て、剣を振るっていたんだ。
(どうしたら、いいんだろ?)
目の前の、高レベルな戦いを見せられながら、悩む。
「どうした、マール殿?」
と、そんな僕の隣に、フレデリカさんがやって来た。
上着は脱いで、白いTシャツと軍服のズボン姿だ。青い髪は、頭の後ろでお団子にされていて、今は、稽古で少しほつれている。白いうなじの汗を、タオルで拭く姿は、健康的な美しさと、女らしい妙な色っぽさがあった。
少しドキッとする。
(こらこら)
そんな場合じゃないだろ、マール?
自分の心をたしなめる僕の隣に、彼女は、当たり前のように腰を下ろした。「ふぅ」と、熱い息をこぼす。
「やはり強いな、キルト殿は。まるで歯が立たん」
「うん」
称賛の声は、けれど、なんだか嬉しそうだ。
でも、答える僕の声は、暗い。
気づいたフレデリカさんは、少し心配そうに僕を見る。
「本当にどうした、マール殿? どこか怪我をしたのか?」
「ううん」
首を振る僕。
(ちょっと、聞いてみるかな?)
そして僕は、彼女に、自分の気づいた己の欠点についてを相談してみた。
その拙い説明を、彼女は、何も言わずに、最後まで聞いてくれる。
全てを聞き終えて、
「それは、経験の差だ」
と、答えた。
「経験?」
「そうだ。剣の戦いは極まってくると、ある程度、流れが決まってくる。頭で考えるのではなく、身体が勝手に動く」
「…………」
「あとは、どの流れに持っていくか、両者のせめぎ合いだ。自分の流れに持っていった方が、大抵は勝つ。――剣技とは、そのための手段に過ぎない」
フレデリカさんは、真剣だ。
相手が子供だからと、侮ることも、甘やかすこともなく、答えてくれている。
でも、
「ごめんなさい。よくわからないよ」
僕は、正直に告げた。
フレデリカさんは、優しく笑った。
「だから、それをわかるために必要なのが、経験なのだ」
「…………」
「この先も精進し続けていれば、勝手に、わかるようになる。少なくとも、私はそうだった。気づいた時には、そうなっている」
そうなのかな?
まだ不安な僕に、フレデリカさんは、逆に質問してきた。
「そもそもマール殿は、剣を習い始めて、どのくらいだ?」
「えっと……3ヶ月ぐらい?」
本当は、もうちょっと短い。
「3ヶ月っ!?」
フレデリカさん、突然、格納庫中に響く大声をあげた。
思わず、休憩中の他の人たちも、こっちを見る。
(び、びっくりした)
耳が痺れたよ。
でも、フレデリカさんは、僕以上に驚いた様子で、
「まさか、それだけの剣の腕が、3ヶ月だと!? 有り得ん!」
「いや、でも」
ほ、本当なんです。
恐縮する僕を、フレデリカさんは放心したように見つめ、それから、大きくため息を吐く。
「それが本当なら、経験が足りないのも当たり前だ。私はてっきり、幼少時より剣を握ってきたのかと思っていた」
「…………」
グイッ
彼女は、僕の右手を引っ張り、その手のひらを見る。
「なるほど」
呟き、今度は、自分の手のひらを、僕に見せてくれた。
白くて細い指。
でも、その肌には、所々が硬く、黄色に変色した部分がある。剣ダコだ。
「わかるか?」
「…………」
「私は、7年以上、剣を振り続けて、ようやくここだ。マール殿の手は、まだまだ柔らかい」
確かに、僕の手にもあるけれど、フレデリカさんのそれより、ずっと柔らかい。
彼女は、言う。
「他の者たちも、私と同じか、それ以上の年数を剣に費やしている。たった3ヶ月のマール殿が、そんな私たちに並びたいとは、少々、失礼だとは思わないか?」
「ご、ごめんなさい」
僕は、つい謝った。
フレデリカさんは、真摯な口調で、浅慮な僕へと言ってくれる。
「まずは、もっと剣を振って欲しい」
「…………」
「上を目指すのは、悪いことではない。しかし、時間をかけ、先に基礎となる土台をしっかり造ることが、強くなるための最短距離だと私は思う。そこに近道はないはずだ。今は焦らずに、頭よりも、この手と身体に剣を覚えさせた方がいいだろう」
僕の両手を、自分の両手で握りながら、彼女は僕を見つめる。
硬い手だ。
どんな言葉よりも、その感触が伝えてくる。
「うん」
僕は、彼女を見つめ返して、頷いた。
フレデリカさんも笑った。
(ちょっと焦ってたんだね、僕は)
そう気づいた。
自分が『神狗』だと言われて、人々を守るため、『闇の子』と戦うために、早く強くなりたかった。そのために、小手先の剣技ばかりを覚えたけれど、大事なのは、それをいつ、どう使うか判断する経験の方だった。
戦ってる最中に、使う剣技を、いちいち考える時間はない。
反射で動けるようにしなければ。
そのためには、一にも二にも、経験だ。
ギュッ
僕は、フレデリカさんの手を、強く握り返した。
「ありがとう、フレデリカさん!」
笑顔でお礼を言うと、彼女は、少し驚いた顔をする。
「あ、あぁ」
そそくさと手が離れて、
「……マール殿は、本当に神狗らしくないな。親しみ易いにも、ほどがある」
「そう?」
僕は、首をかしげた。
稽古の熱がまだ抜けきっていないのか、少し顔の赤いフレデリカさんは、大きく息を吐いて立ち上がった。
木剣を片手に、僕を見る。
「また私と手合せしてみるか?」
「もちろん!」
答えて、僕は、跳ね起きる。
フレデリカさんは、碧色の瞳を細めて、穏やかな笑みをこぼした。
「もしも弟がいたら、こんな感じなのかもしれないな」
独り言のような、小さな呟き。
すぐに表情を改めて、
「よし、では行くぞ」
「来い!」
僕らは、木剣を構え、そして、激しく打ち合わせた。
格納庫には、熱い稽古の音が、いつまでも響く。
こうして、僕らの空の旅は続いた。
――そして、それから1週間後、僕らの乗った飛行船は、ついにアルン神皇国の首都である神帝都アスティリオに到着したのだった。
ご覧いただき、ありがとうございました。
※次回更新は、明後日の金曜日0時以降になります。よろしくお願いします。




