恋のいろは
朱子がため息をついた。
全く、この主上は暇人なのかしらと考えていることが手に取るように分かる。
朱子はとりあえず、一度は渋ってみる姿勢をしてみた。
「そんな興味本位で来られた主上に彼女を差し出しては、私が頭中将に叱られてしまいます」
「なんだ、余のお願いを聞いてはくれんのか」
「頭中将には御身からお伝えくださいね?」
三雪は朱子の言葉に思わず体を揺らした。危ない、気が遠くなりすぎて前のめりになってしまった。
朱子は直接的には言わないけれど、三雪に帝の話し相手になれと言ってるようなもの。叔母さまのいじわる!
心配そうに香具師の女性が三雪を見ている。
三雪はぎこちなく笑うと、顔を伏せた。
「で、どの娘だ?」
「当ててごらんなさいな。主上が見つけたのなら私も頭中将に何か言われても返せますので」
「ふむ……分かった。ならばそなたたち、皆顔を見せよ」
命じられるまま、三雪も顔を上げる。
帝の視線が順に女房たちを過ぎていく。
「ふむ……見慣れた顔ばかりだな」
「あらま。女房のお顔一人一人お覚えで?」
「そなたが入内して何年経つと思う。さすがに古参の者たちの顔は見慣れているし、率先にして動く若い女房も覚えやすい」
「まぁ、うちの女房をじろじろと見ていたのですか……」
「あ、いや、そういうつもりではなくてな?」
「冗談ですよ。ふふ、可愛いお人」
朱子にからかわれ、帝の顔がひきつった。
彼女の女房たちのからかい癖は主人から引き継いだものだったらしい。三雪はその事実に苦笑した。
思わず笑ったのが帝の目に着いたのか、帝が三雪の方を見る。それから隣にいた香具師の女性にも目を向け、それから三雪に視線を戻した。
「そなたら二人は、見かけぬ顔だな。……そなたが、不香花か」
三雪は内心どきりとする。
鋭く、何もかもを見透かそうとする瞳が、正しく三雪を射ぬいた。
どうして、分かったんだろう。
いやでも勘違いかもしれない。
「あら主上どちらを?」
「もちろん、そこの白撫子の襲の娘だ」
完全に自分の事を指摘された。
勘違いなんかではなかった。
表が全て白で統一された、裏が蘇芳、紅、紅梅、青、淡青の襲。
白撫子の襲と呼ばれる、淡い色目の襲を来ているのは三雪で間違いない。
三雪はどうすればいいのか分からなくて忙しなく視線を動かす。こちらから話しかけるべき? 名乗るべき? それとも話しかけられるのを待つべき?
途方に暮れていると、朱子が助け船を出してくれた。
「主上、どうして彼女が不香花だと?」
「年を聞いたからな。どう考えても彼女だろう」
三雪は恥ずかしくなって顔を伏せた。まさか年まで知られているとは。
この口ぶりだと、もしかしなくと実明から直接話を聞いたのかもしれない。
「ふふ、主上、その言い方だと宇治が年増のように聞こえましてよ?」
「あ。あー……すまない、そういうつもりでは……」
「いえ。実際、不香花の君より年が上なのは確かですので」
香具師の宇治は中性的な面立ちの女性だ。年はまだ十代にも見えるし、もしかしたら二十代かもしれない。
確かに三雪と並べば、彼女の方が年が上に間違いなく見えるだろう。
「退屈しのぎの遊戯にもなりませんでしたね」
「遊戯のつもりだったのか?」
「もちろん。そうじゃなきゃ、とっくにお教えしてますよ。まぁ頭中将に叱られてしまうのも間違いではないのですが」
くすくす笑う朱子に、三雪はげんなりする。遊びでこんなことされたらたまったもんじゃない。
膨れっ面になりたいが、できる女は微笑んで流すもの。
先ほど朱子に言われたことを実践して顔をあげれば、ばっちり帝と視線が交錯した。びっくりしてまた顔を伏せてしまいそうになるが、こらえて微笑みかけた。
帝の目元が和らいだ。
その表情の変化に、ふと三雪は既視感を覚える。
どこかで見たような……
「不香花、そなたいつまで後宮にいるつもりだ?」
「え? あ、えっと……い、いつまででしょう……?」
不意に聞かれて三雪は記憶の棚を漁るのをやめる。
それから答えようとして……自分が求められた答えを持っていないことに気づいた。
朱子に乞われて三雪は宮仕えを始めた。そのついでに実明に相応しい女性になるため自分を磨くつもりでいたから、具体的な期間などは気にしてなかった。
三雪の母は体が弱くて三年前に亡くなった。女性として母にこれから教わるべきだったものを、三雪は朱子に教わるためにここに来たのが一番大きい理由だ。朱子もそのつもりで三雪を呼んだ。
だからいつまでと言われても……
朱子はなかなかその「教え」とやらを教えてはくれない。
朱子はいつ、自分に「教え」を授けてくれるのだろう。
そう思って朱子の方を見れば、朱子は微妙な顔をしていた。
彼女がそんな顔をしているなんて珍しい。
「えっと……私っていつ下がれば良いのでしょう?」
「えっ……あー……そうね……三雪が大人になってからなんだけど……」
「えっと、裳着を済ませたので宮仕えに参ったのですけど」
朱子が顔を覆った。
三雪が不思議そうに小首をかしげると、一緒に絵巻を見ていた女房が何か察した様子で、恐る恐るという体で尋ねてくる。
「橘さん。さっきの絵巻の意味理解してる……?」
「意味って?」
「男女が一夜を過ごすことです」
「一緒に寝るんですよね?」
「一緒に寝るってことは~?」
「朝までぐっすり。こーゆー物語のお姫様って皆寝坊助ですよね?」
あちゃー、と女房たちも顔を覆う。
三雪がますます不思議そうな顔になる。
女房たち含め、朱子や帝、この場にいる全ての者が思う。
彼女は純粋。とっても純粋。
それはもう、純粋すぎて下手なことを言えないくらいに。
ここまで純粋だと後朝の文も帰るときの挨拶代わりのもの程度にしか思ってないのだろう。
三雪の家の者は三雪にこの手の知識を一切教えてこなかったらしい。
女房たちは朱子にそっと聞いてみる。
「どうやったらここまで綺麗な子ができるんですか……」
「兄上に『頭中将から何も教えなくて良いと口止めされてきたが、やはり心配なのでそれとなーく三雪に恋のあれこれ、結婚のあれこれを教えてやってほしい』って言われたのよ……私もここまでとは思ってないわ」
「……本当に、頭中将様から大切にされてたんですね……」
「いやもうこれは頭中将様、確信犯じゃないの……?」
女房たちの目が生温かくなる。
先ほどまでとは違った居心地の悪さに、三雪はたじろいだ。
なんか、皆の目が優しい。意味がわからない。何か不味いことを言ったのだろうか。
そんな中、帝が口を開く。
それはもう空気を読まないで。
「ふむ……もしや不香花は」
「主上、品を欠きますのでお黙りくださいませ」
発されようとした言葉を言い終わらないうちに察した朱子の丁寧な口調を装った言葉に遮られて、帝は口を閉じる。不敬だが、今のは自分が悪い。
三雪が困っている様子を見て、帝はちらりと朱子を見た。
「どうするつもりだったのだ?」
「宮中にいればあちこちの女房に恋人がいるから察してくれるかなーと思って。ほら、まだ彼女が宮仕えをし始めて数日ですし」
「……まぁ、そなたが預かってる娘だからな。余は口を出さないでおこう」
そうしてください、と朱子は頷いた。
「時が来れば、自ずと察するかと思いますので」
「地道だな」
自分の預かり知らぬところで自分の話が進んでる。
何なのだ、何を話してるのだ。
よく分からなくて、すすす、と隣にいる宇治に顔を寄せる。
「ねぇ、私何か変なこと言ったのかな」
「言ってませんけど、皆さん不香花の君が怖い狼さんに食べられるのを心配してるんですよ」
「むぅ……」
狼とは遠い遠い京の向こうの山にいるという獣だろうか。大きい犬だと聞いてる。
そんな獣が京に現れるのだろうか?
生温かい視線を受ける中、宇治の言葉にうーん? と唸っている三雪を見て、宇治もまた、優しく微笑んだ。