絵巻の公達とときめく薫物
涼やかな風が吹きとおる身舎で、数人の女房と朱子が絵巻を覗き混む。その女房の内に三雪ももちろんいた。
絵巻の上座にいる女房が、添えられた物語を読み上げる。
「『男、名を明かして御簾の関を越える。関守は眠りについたまま、男が関を越えていくのに気づかず。男、姫と視線を交わす。男、姫の頬に触れると、姫、男と共に茵に倒れる』」
物語が佳境に入り、ごくりと誰かが息を飲む。
くるくると絵巻が進められ、多彩飾の絵で描かれた人物が動いていく。
暫く絵が続き、御簾に入った男と姫が体を重ねて朝を迎えた所で次の文が現れた。
「『朝、姫が目を覚ますより早く、男はその香を残して帰る。その薫物、侍従より憐れ。姫、今宵男は訪れるのかとその香を名残惜しく思えば、男より後朝の文届く』」
絵が流れる。
朝が来たことを憂えた姫のもとに文が届き、姫が文を広げる場面になる。
絵に添えるようにして凝った意匠の文字が綴られる。
「『もちづきの くもにかくるも なをあかし ふれえゆそでの かくもかなしき』」
望月が雲に隠れても、なお明るく眩い。そんな月に思わず手を伸ばしても月に手は届かないように、隠れていた貴女の名が明かされた今、私は触れたいと思っても貴女に触れられないということが、こんなにも悲しくもどかしいものとは。
和歌の意味を汲み取り、顔を合わせていた女房たちはほぅ……と溜め息をつく。
若い女房がうっとりとした表情で囁いた。
「物語の公達って素敵ですねぇ。あー、私もこんな恋がしたい~っ」
「所詮は物語よ。貴方にも通う恋人がいると聞いたけれど?」
「まぁ。恋人はいても素敵かどうかはまた別ですよ。物語のように素敵な恋……そうですねぇ、例えば不香花の君みたいな恋とかしてみたいです」
熱心に絵巻の彩飾を見ていた三雪は突然話題が振られて、思わず勢いよく顔をあげた。
朱子とその他の女房の視線が突き刺さる。
困ったように笑ってはぐらかそうにも、これは誘導尋問だ。彼女たちが曖昧にはぐらかされてくれるなんて、万が一にもあり得ない。
助けを求めようにも朱子は面白そうに微笑んでるし。もう、他人事だと思って。
「素敵な恋と言われましても、親の決めた婚姻ですから……」
「親に決められても、貴女のように大切にされることって珍しいのよ?」
「そうですねぇ。自分も付き合うなら頭中将のように優しい人が良いです」
「もう、不香花の君ったら自分が恵まれてるのを少しは自覚しないと頭中将様がお可哀想よ~」
「そ、そんなこと言われても……というかその不香花の君ってのも止めてもらえませんか」
「いーや♡」
きゃあきゃあと女房たちにからかわれて、三雪は途方にくれる。なんでこんなに騒がれないといけないの。
三雪も恋の話は好きだ。今見ている絵巻のお話しだってとっても素敵。
だけど自分の色恋沙汰を他人にどうこう言われたくはない。
実明のことは好き。小さい頃からずっと目をかけてもらってきて、嫌いになる要素なんてなかった。
実明は立派な人。
三雪はそんな人に釣り合うような完璧な女性になりたくて宮仕えに来たのだ。
その結果がこれとは……頭が痛い。
不機嫌が顔に出始めた三雪に、朱子が気づく。彼女は苦笑して、びこっと三雪の額を指で弾いた。
「いたい」
「こーら、顔に出てる。自分に都合がよく無いことでも微笑んで流すのが出来る女の秘訣よ」
「むぅ……」
「彼女たちは貴女を羨むだけで妬んでないのだからそんな風に気を悪くするものではないわよ」
三雪はまた口をへの字にしようとして、やめる。
出来る女は微笑んで受け流す。
三雪が納得はいかずとも実践に移してみれば、絵巻を囲んでいた女房たちがころころと笑った。
「ふふ、橘さんてすぐ顔に出るのね」
「そうですよねぇ、からかい甲斐があるというか」
「私たちもこんな初な頃があったのよね~」
「……」
呼び方を以前のように戻してくれた代わりに子供扱いされるのは納得がいかないが、彼女たち恋の猛者たちに比べれば三雪はまだまだお子様なのは否めない。
大人しく微笑んで受け流すを実践する。
その様子もまたたどたどしくて女房たちからしてみれば可愛らしいのだけれど。
くすくすと笑う女房たちから離れて部屋の住みにいた女房がすっと立ち上がりこちらへと参る。
彼女はその手に小さな香炉があった。
「できましたので、どうぞお聞きくださいませ」
絵巻を読んでいた女房と、もう一人の女房で絵巻を横へとずらして二人がかりで絵巻を巻いていく。
絵巻のあった場所に差し出された香炉を朱子は手にとった。
「そちらの絵巻『月将物語』より、お読みになられていた九の段で男が身に付けていたと思われる薫物を調合したものです」
手で扇いで、焚かれた香を燻らせる。
朱子はしばらく香を聞くと、はい、と三雪に渡す。
三雪も同じようにして香を燻らせた。香の独特の香りが鼻孔をすり抜けていく。
聞き上手ではないけれど、この香は良い香りだと思った。香としてとても整っていて、雑味もない。丁寧に練られてる香だと思わせられる。
三雪は香炉を他の女房にも届くように置くと、ちらりと香を焚いた女性を見た。
弘徽殿に仕える女房ではない……つまり朱子専属の女房ではない彼女。
香具師と呼ばれる彼女は本来ならこの場にいられる身分ではないのだが、さる方の推薦で数日の間、ここに仕えることになっている。
香に詳しいということで今回、巷で流行りの絵巻物とともに、それに出てくる薫物を用意してきてくれたのだ。
次々と香を聞いては、絵巻物の公達に思いを馳せる女房たち。
ただ、その中で三雪だけが微妙に浮かれ気分にはなれないでいた。
一瞬だけ見やった視線を、香具師の女性は目敏く気づく。
「橘様、お気に召しませんでしたか?」
「え、あ、その、そういうわけではないの」
どきりとして、三雪は口ごもる。
良い香りだと思った。気に入るかどうかでいえば、気に入る類いのものだ。
つまらなさげな顔になってしまった理由は香の良し悪しではないの。
「その……物語の公達の薫物と思っても、ときめく類いのものではなくて」
「あぁ、そういうこと。貴女をときめかせれるのは頭中将だけですものね」
朱子のあけすけな言葉に、三雪は頬をぽっと赤らめる。
確かに薫物だけでも心がときめく公達として思い浮かんだのは彼だけども!
「そ、そういうつもりでは……!」
「あぁ、やっぱり橘さんは不香花の君よね」
「その反応、頭中将様の片思いではないと見て少し安心しました」
「不香花の君って呼び方を嫌がるからもしやとも思ったけど……杞憂だったわね~」
頬を上気させて朱子に抗議する三雪の傍ら、ころころと女房たちが笑う。
うう、他所様もいるのに、そんな風に意地悪を言わなくても。
そんな三雪の様子を見た香具師の女性はが微笑ましそうにしてるから、余計に恥ずかしい。
「不香花の君……素敵じゃありませんか。私もそのようにお呼びしてもよろしいですか?」
「こ、困ります……!」
「困るもなにも、もう貴女の知名度、それで通っちゃってるじゃない」
うぐっ、と三雪は反論につまる。
嘆かわしいことだが、昨日の今日で浸透してしまったのは本当のことなのだ。
昨日、実明が来たのは辰の刻を過ぎた後だったのだが。今朝、気づいたらあちこちで噂されていた。
三雪は弘徽殿からでてはいないものの、どうせお喋り好きな女房たちの事だから、他の殿舎に渡っていてもおかしくはない。あぁもう、恥ずかしい。
「もしかしたらまだ伝わってないところも……」
もごもごと三雪が反論を言おうとしたとき、簀子の方がざわついた。
実明が来たときのような静かなざわつきじゃない。
古参の女房ですら叱りつけないほどのざわめき。
弘徽殿の女房が一人、慌てて入ってくる。
「ひ、姫様っ」
「どうしたの、慌てて」
「お、おかみが」
「主上がどうしたの?」
「主上のお渡りですっ」
伝えるや否や、朱子や三雪たちのいる位置からでも見える簀子に人が踏み込む。
まだ若く、精悍な顔つきの青年。
束帯姿で堂々と後宮を歩くのはまさしく今上帝だ。
驚いて女房たちは慌てて平伏する。朱子もまた女御といえども例にもれない。
「面を上げよ。畏まるな。遊びに来ただけなのだから」
「いらっしゃるなら先触れを寄越すくらいしてください」
「したではないか。ほら」
先ほど慌てて入ってきた女房に視線を向ける帝。
朱子は頭痛を和らげようと指で額をもんだ。先触れと同時に入っては先触れの意味はないというのに。
朱子が帝とわずかなやり取りをしているうちに、古参の女房が朱子のすぐ横にもう一枚畳を用意する。
女房たちは道を明け、帝の突然の来訪を歓迎した。
三雪もまた、彼女たちに混じって控える。香具師の女性も、三雪の隣に来て控えた。
まさかこんな昼間、何もない日に帝がいらっしゃるなんて。
三雪は初めて対面する帝に緊張する。粗相のないように、粗相のないように、粗相のないように。
もし万が一非礼でもしたらお家断絶だって目に見える。そんなことにならないように、決して、絶対、粗相のないように。
どきどきとしながら帝が朱子の隣に座るまで、三雪はじっと体を強ばらせる。
平伏はやめたが、顔は伏したまま。
「主上、今日は一体どんな御用事で……」
「用事がなければ来ては駄目なのか?」
「貴方がこんな時間にお渡りになるときといったら、公務に嫌気が差したか、内侍に叱られたか、もしくは面倒事がある時でしょう」
「はははは。うむ、間違ってはないな」
「ちなみに今日はどちらの理由で?」
「内侍に叱られたのは確かだが、そうではなくてな。実明が目にかけてるという不香花の姫を拝みに来た」
昨日からもう何度目だろうか。
またまたまた、三雪の元に女房たちの視線がひしひしと突き刺さった。
先ほど噂が伝わっていないところもあるかもしれないと言いかけたが……撤回。
主上にまで伝わってしまっていたら、この宮中に伝わってないところは最早ないに違いない。
気が遠くなりそう。