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蔵人の雑談

墨のほのかな薫りが鼻腔をくすぐる。

さすがは最高級の大陸原産の墨。これを贅沢に使ってたっぷりの墨をする。

しゃこしゃこと水に馴染ませながら大陸渡りの陶硯に墨を蓄えると、筆に墨を含ませ紙へと穂先を滑らせた。

するすると踊るように筆を滑らせる。

力強く、時には弱く。

何かを思うときの心は文字へと反映される。

書きたかったものを書き連ねると、彼は筆を置いて紙を満足げに見下ろした。うむ、これでよいか。

後は放置するだけ。墨が乾いた頃にたたんで、奴が出仕したら渡せばよい。

ふと、きしきしと簀子の軋む音がした。気のせいかと思って耳をすましたら音が大きくなる。どうやら人がこちらへ向かってくるようだ。

一つ壁を隔てた向こうには、黙々と政務をこなしている蔵人たちがいる。まだ今日声を聞いていないのは……


「九条実明、参内いたしました」


噂をすれば何とやら。当直日に当たっている九条実明がその参内を告げる。

彼はこっそりその様子を壁の向こうから窺った。

実明は殿上間(でんじょうのま)に入る前に、立ったまま優雅な礼をとる。沓を脱ぎ、適当な場所に腰を下ろした。

実明は日給の簡のための放紙を記そうと、持参した硯箱を広げて墨をすりはじめた。

しゃこしゃこと墨をする中、他の蔵人たちの視線がちらちらと彼に集まる。

視線が集まっていることに気づいているだろうが、実明は涼しげな顔で墨をすり続る。ほどよい濃さが出ると筆に持ち変え、さらさらと出仕の証を記した。

日給の簡の自分の名前の下にそれを張り付けて出仕の手続きを完了させると、今気付いたかのように目の合った蔵人の一人に声をかけた。


秀親(ひでちか)、何か私の顔についているかい?」


実明が朗らかに笑いかけると、秀親───藤原秀親はくわりと噛みつくかのように立ち上がった。


「実明ー! 俺聞いたんだからな! お前の嫁さん今宮仕えしてるんだってな!? 水臭いじゃねぇか! ずるい! 俺にも紹介しろよ!」

「秀親様、言葉遣い。主上の前ですよ」


ぴしゃりと横から秀郷に注意するのは、紀岼祢(きのゆりね)だ。

だがその岼祢も、興味深そうに実明を見上げている。


「水臭いとは。何の事だい?」

「とぼけんなよ~! 不 香 花 の 君!」


一文字一文字はっきりくっきりしっかりと声を出して主張する。他にも仕事を始めていた蔵人もうんうんと頷いている。

何が起きてるのか分からずに首をかしげているのは、昼御座(ひのおまし)で文をしたためていた彼だけだ。櫛形の窓で会話は筒抜け。

気になってひょっこりと櫛形の窓から顔を出す。


「ふきょうかの君とは誰のことだ?」

「主上!」


秀親がぎょっとして声を出す。実明はため息をついて額に手をやるし、岼祢はそれだけ大声を出せばねぇ……とそ知らぬ顔をする。

注目を集めた若き帝は興味深そうに実明を見た。


「なんだ、実明に通う者ができたのか?」

「違いますよ主上。実明には婚約者がいたのですが、こいつったら何を言ってものらりくらりと交わしてどこぞの姫かさえ教えてくれなかったんです! それが! 昨日! 積極的に葡萄を届けにいったかと思えば! 弘徽殿の女御付きの女房にその婚約者がいたというではありませんか!」

「秀親様、馴れ馴れしすぎです。袖も邪魔です」


身振り手振りで大袈裟に言う秀親に、岼祢が嫌そうな顔で嗜める。ばっさばっさと直衣の袖が座った岼祢の顔にかかって鬱陶しい。

他にも硯に袖が触れないかとはらはらしていた蔵人も、ほっとしたように岼祢を見た。

秀親は蔵人の中でも三位と特に位が高いため、他の蔵人たちは口出しができずに事のなり行きを見守るしかない。秀親と気軽に話ができるのは昔馴染みの実明と、年下ながらも家格が申し分ない岼祢くらいだ。

話に交わりたくとも、この三人に加えて帝まででしゃばってしまっては、うっかり軽はずみなことを言ってしまえば首が飛ぶ。

それでも不香花の君については興味津々なので、黙々と仕事をしながら耳を傾けているしかないのだ。


「珍しく自分から行きたがっていたと思ったが、そういうわけか……だが前に、実明の婚約者は六花の君と聞いた気がするが?」

「元々そう言ってたんですけど、実明様がなかなか詳細を語らないので……故事の不香の花をかけまして不香花の君となった次第に御座います」

「ほう……というか実明、まだ結婚していなかったのだな? 余が六花の君の名を知ったのはもう三年も前になる気がするのだが」


帝の指摘に、実明は飄々とした答えを返す。


「まだですよ。彼女は先日、裳着をしたばかりですので」

「は!?」

「えっ?」

「む?」


秀親や岼祢、帝以外にも驚きの声があちこちで上がる。数年も前から婚約者がいると豪語していたからいつ結婚するのかと思ったら……まさか相手が裳着前の姫君だったとは。

殿上間が静まり返る。

岼祢が恐る恐るといった体で、声を振り絞って聞いてみる。


「ちなみに実明様、姫君のお年を伺っても……?」

「今年十三となりました」

「……余も朱子と年が離れているなと思っていたが、そなたほどではないなぁ……」


帝が十七に対し、朱子が二十四。七つも差があれば、男と女よりは兄弟に近い感覚が間に横たわる。

子も作らず、だらだらと夜の伽を過ごしているのはそういう理由なのだが……まさかそれを上回る者がいたとは。

実明が二十六に対し、噂の姫君は十三。十三も差がある。

それだけ差があっても色恋に発展するものなのだろうか……いやまぁ、どこぞの翁が若い娘をめとるよりは現実的だけども。


「お前……よく我慢できるなぁ……」

「可愛い姫君を私好みに育てるのは、なかなか趣深いものがあるよ?」

「うわ、実明様黒い」


実明の発言に岼祢は誰が見ても明らかな具合に引いた。

まるで巷で流行っている物語のようだ。主人公が、見初めた少女を何年もかけて自分好みに調教……ではなく教育していく物語。

他の蔵人も顔を引きつらせている。

ぽたりと誰かの筆から墨が落ちた。


「いやいや、そういうことじゃなくてな……? もっと夜のな……?」

「秀親様、下品です」

「裳着前の姫に手を出すほど、私が常識から外れているように見えるのかい?」


声を潜めて言えば、白い目で二人から見られて秀親はむっとする。純粋に心から同じ男として実明のことを心配してやったのに。

ちなみに他の蔵人もうんうんと頷いている。女遊びの噂などとんと聞かない実明の潔癖さを皆知っているから。


「それで? 噂の姫君とやらはどこの家の者なのだ? 」

「おや? 主上にお伝えしておりませんでしたか?」

「いや、聞いていないぞ?」


帝がふるふると首を振った。この帝は皇族の血筋から離れていたためか、いちいち仕草が幼く野暮ったい。

そもそも、本当は書類のやり取りをするための窓から顔を出すのもよろしくないのだ。

現に後ろから、茶を持ってきた尚侍(ないしのかみ)だろうか「主上! そんなところから顔を出してはなりませぬ!」と叱る女性の声が聞こえる。当然のように帝はその声を無視しているが。


実明は微笑んで、改めて帝に伝える。


「大納言・橘兼資(たちばなのかねすけ)様の姫君です。主上も一度、お会いしているはずですよ」

「橘大納言に娘なんていたっけか」

「私も初耳です」


秀親と岼祢が不思議そうな顔をする。

他の蔵人たちも噂に上がったことがないためか、誰一人としてぴんとくる者はいなかった。

その中で唯一、帝だけが目を丸くしている。


「橘大納言の娘……もしや奢弦寺(しゃげんじ)の時のか?」


実明はそうですよと頷いた。

二人で視線を交わして納得する帝に、秀親が確認するように尋ねる。


「奢弦寺とは、主上が即位前に身を寄せていたという……」

「そうだ。時折、橘大納言の奥方たちが詣でて来ていた。その時に……童と思って遊んでたら橘の姫だと聞かされたということがあったが……実明、確かあの時そなたいたな? その時の姫か? あのきゃっきゃっと騒いでいた、ころころとした顔の」

「そうですよ。あの時より姫らしくなられておりますから、あの醜聞は忘れてやってください」


帝が窓から身を乗り出して実明に言えば、実明は柔和な面持ちで頷いた。帝の後ろで女房が「主上はしたない!」と悲鳴を上げてるが、誰も聞いちゃいない。

帝はそうかそうかと頷いていたが、だんだんと女房の怒りが殿上間にまで伝わってくる。

生成りかと見まごうばかりの様相だ。書類仕事をしている振りをしていた蔵人が何かを見てしまったようで引きつった顔で筆を取りこぼす。


帝がやれやれといった体で窓から顔を引っ込めた。

その代わりに一つの文を窓から差し入れる。


「実明の婚約者については分かった。とりあえず実明、婚約祝いにこれをやろう」

「祝い品なら結婚したときに改めて欲しいんですけどね」

「そちらは結婚したらな」


実明は窓から差し出された文を手に取る。

これは? と帝に視線を向けた。

帝は窓から離れ、御帳台に戻ったようだ。声だけが飛んで来る。


「葡萄の場所を突き止め、保護せよ。ただの偶然なら良いが、神の地であれば直轄地として召し上げ社を建てる」

「御意」


実明は文を懐にいれ、礼を取る。

それから秀親を見てにっこりと微笑んだ。


「それじゃあ行ってくるけれど、くれぐれもうちの可愛い姫君を困らせないようにね」


極上の笑みで「うちの嫁に手を出したら承知しねぇぞ」と暗に釘を差す実明に、秀親はこくこくと素直に頷く。他の蔵人も触らぬ神に祟りなしとばかりに仕事に戻っている。

出仕したばかりだが退出する実明の颯爽とした背中を見ながら、岼祢がぼそりと一人ごちた。


「実明様、やっぱり黒い……」


素直に思ったことを言ってしまう岼祢だが、はっきりとこんなことを口に出して言える身分と度胸があるのは蔵人の中でも彼ぐらい。

まさに彼は仕事を続けてる蔵人たちの内心を代弁して見せたのだった。

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