不香花の君
そよそよと涼しげな風が部屋を通り抜けていく。
暑さは和らいで、過ごしやすくなった。
熱気を含まないさらりとした風が、季節が秋へと移ろっていくのを情緒深く感じさせる。
衣替えをしたばかりだが、まだまだ小袿を重ねる者はいない。
まだ一つの襲しか見られないのは暦上ではとっくの昔に秋に入っていても、例年より少しばかり暑いからだった。
もう少ししたら、季節相応に色とりどりの衣装が視界を鮮やかに彩ってくれるようになるだろう。
儀礼を重んじるはずの宮中で、実際にここまで形式的になってしまっているのは、行事が時代に追い付いていないからだ。そういった話をひそひそ話している女房たちをよく見かける。
格式高い貴族が伝統を重んじるのも形だけ。
廃れるよりは良いのだろうけど、それで良いものかと悩ましい。
色々と思うことはあるけれど、巻き上げた御簾の向こうを見ればはらはらと落ち葉が舞っていた。
わずかに色を変えた紅葉が一枚、部屋へと入り込んでくる。
それに気がついてそっと腰を浮かす。
まだ重くはない装束を引きずって、彼女はその紅葉をつまんだ。
まだ青々しい中に朱が混じっている。
部屋にすべりこんだ物を拾ったのを見たこの部屋の主が声をかけた。
「三雪、何を拾ったの? 私にも見せて?」
「はい、姫さま」
名を呼ばれた三雪はそのまま渡そうと思ったが、ふと良いことを思い付く。懐から檜扇を取りだすと、広げてその上に紅葉を置いた。
ゆっくりと膝行して、姫と呼んだ主へと差し出す。
「こちらです」
見事な紅に染まった紅葉の描かれた扇に一枚の青々しい葉。
一見取り残されたように見える紅葉の葉だが、庭の紅葉はまだまだ青い。けれどうかうかしていれば染まり出した紅葉は、この扇に描かれるようにあっという間に紅に染まるだろう。
にっこりと笑い、三雪に声をかけた彼女はそっと紅葉をつまんだ。
「ふふ、機転を利かせたのは良いけれどまだまだね。ここに歌の一句でも添えれたら完璧だったのに」
「うう……」
言われて三雪は肩を落とす。ようやくまともな事ができたと思ったのに。
ひらひらと紅葉を弄びながら、さらに部屋の主は三雪に言葉をかける。
「歌が苦手なのは分かるけれど、詠まなきゃ上手くはならないのだから敬遠しちゃだめよ」
「叔母さま厳しい……」
「ひ め さ ま」
迫力ある笑顔で三雪の叔母である弘徽殿の女御・朱子が一文字一文字区切るように言えば、こくこくと三雪は頷いた。
こうやってたまにぼろが出てしまうのが幼い三雪の短所だが、こればかりは治すのに時間がかかるのは仕方ないと思う。
三雪にとって朱子は「叔母」であり、「姫」と呼ぶのは変な気分になるのだ。
三雪は今年で十三になる。
裳着を済ませたばかりの彼女は、社会勉強ということで叔母つきの女房として後宮に参内した。
話し相手をする程度なので、女房としての仕事がそう多く割り当てられていない彼女は、こうやって時折朱子から後宮女子の作法を教えてもらっている。
曰く「言葉には歌で返す」だの、曰く「常に機転を利かせて行動する」だの。
身に付けてきた教養を試すようなものばかりで正直へとへとだった。
それでも三雪が宮仕えをするのはある目的のため。
その目的のためなら、涙を飲んで朱子の鬼教育にも耐える所存だ。
三雪は扇を閉じて、元の定位置に座る。
心に朱子が言ったことは書き留めた。実践できるかは知らないが。
三雪が定位置に戻ると、外が騒がしく聞こえた気がした。
どうやら三雪たちのいる弘徽殿より南、清涼殿の方からのようだが……
気になってそわそわしていると朱子が行きなさいとでも言うように袖を振る。
行きたいと思ったが、さすがに女御である朱子を一人おいて行くのははばかれる。首を振ってその場に留まった。
「行けば良いのに」
「だって一人で歩くのが怖いんですもの」
「そんな小さい子を取って食うような大人はいないわよ」
肩をすくめたら、ころころと笑われた。子供扱いされてちょっと不満。
耳を澄ませてみたら、すぐ近くもざわついた。
女たちのきゃあきゃあとかしましい声が襖を隔てた隣の局にいた女房が声を上げた辺りで、何が起きたのか二人とも理解した。
簀子から一人の公達が姿を現す。
すっきりとした鼻筋と形の良い唇。睫毛は長く、きりっとした眼差し。上品な香を焚きしめた直衣。ゆったりとした足さばきで簀子を渡るその姿は颯爽とした風のよう。
女房たちの視線を独り占めにしながら涼しげにやって来るのは、今代一の美丈夫と謳われる頭中将・九条実明だった。
実明は朱子と三雪のいる部屋の簀子で足を止めた。
三雪と視線が合うとはにかむように微笑む。
三雪はそっと頬を赤らめて顔を伏せた。なんだか気恥ずかしくて。
実明は簀子に座ると朱子に一礼する。朱子は廂を挟んで奥の身舎にいるので少し遠かった。
脇によけた三雪に、年上の女房が襖をわずかに開けて局から声をかけた。
「御簾を卸して廂に中将様をお呼びしましょう。お手伝いするわ」
「は、はい。お願いします」
そうだ、御簾を上げていたのを忘れていた。
三雪は慌てて身舎の御簾を卸そうと腰をあげる。
声をかけた女房の他にあと二人、隣の局から出て来て一緒に御簾を卸すのを手伝ってくれる。
御簾を卸して実明の方を伺えば、他の局から出てきた女房が声をかけて廂に上がるように促している。どこからか茶と菓子を用意してきた女房まで。
なんだかんだとせわしなく動く女房に囲まれて実明は困ったように笑った。
「少し用があってこちらに参っただけなのだけれど……まさかこんな大事になるとは」
「貴方はめったに来ないから皆浮き足立ってるのよ。どうせ暇なんでしょ。付き合いなさいな」
上品に動いても動く人数が多いせいでばたばたとした印象がついてしまう。
ようやく落ち着いたときには身舎と廂の間に御簾が下げられ、女房たちは適当なところに座した。
三雪は御簾の内側、朱子のすぐそばに控える。
他の女房も御簾の内に入ったり、廂に出たままでいたりとまちまちだった。廂側にいる者の多くは袖で顔を隠したり、扇で顔を隠したり、顔を伏せたりしている。
心なしか廂側にいる女房の数が多いような気が。
「さて。弘徽殿の女御様におきましてはご機嫌麗しく……」
「はいはい。知らない仲でもないのだから堅苦しいのはよして頂戴」
「貴女がそう仰るのなら」
実明が微笑めば、御簾の外にいた女房たちがほう……とため息をつく。
今年二十六になる男の色気は、微笑み一つで女房たちを骨抜きにしてしまった。
朱子はそんな様子の女房たちに苦笑する。
実明はこういった女たちの反応が苦手で困ってしまうから普段は滅多に後宮に寄り付かない。それなのに来たというのは、弘徽殿にたまたま来るに値する価値があるからだ。
でもそんな事を知らない女房たちはぼそぼそと隣あった女房と言葉を交わしてはきゃあきゃあと喜んでいる。
大方、今のやり取りで朱子と実明との間に何か因縁があるのだろうと憶測が飛び交っているのだろうが、残念ながらそのような事実は一切なかった。
むしろ因縁があるのは……
「不香花の君はいるかな? こちらにお仕えしていると聞いたのだけれど」
柔和に微笑んで白々しくも尋ねてみた。
女房たちのざわつきが一段と大きくなった。
不香花の君とは実明の婚約者として名高い姫君の通り名だ。
実明はその存在を匂わせても姫君の存在そのものは特定させない。どのお家の筋かさえ伏せている始末。
最初は「六花の姫」と実明が呼んでいたのが、いつの間にやら花の存在はあれどその香りがしないことと、六花が雪の事を指しており昔の人が雪を香りの無い花と例えたことをかけて「不香花の君」と呼ばれるようになっていた。
今代一の美丈夫・九条実明の想い人「不香花の君」が宮中にいるなんて。噂好きの女房にはこれとはない話の種になる。
わざわざ弘徽殿にくるのだ。弘徽殿の女房の中で最近宮仕えを始めた者と言えば……
ざわつく女房たちに囲まれて、三雪がきょとんとしていると、すっと朱子が閉じた扇の先で朱子が三雪を差した。
集まりつつあった視線が一斉に三雪に集まる。
三雪は集まる視線に驚いて目を丸くした。
「さっき目が合っていたの見ていたわよ。ほら、彼女はそこ」
「なんのことやら」
しれっとした顔の実明に、やれやれと朱子は肩をすくめる。あまりしられてはいないが、実明のふてぶてしさは相当なものである。
「驚いたよ。先日屋敷を訪ねたら朱子様の元だと言われてしまって。先ほど主上から朱子様宛の贈り物を預かったのでそのついでに顔を見れないかと思ったんだけれど……会えて嬉しいよ」
さっき一瞬視線を交わしたものの、結局は御簾越しになってしまったことを残念に思いつつも、心底嬉しそうにはにかむ実明に三雪はそっと瞼を臥せた。
注目されることになれていないから、この状況は少々どころか大変居心地が悪い。
声をかけても良いのかどうか悩んだ末、朱子に助けを求めるように視線を送れば、彼女は仕方ないわねといった顔で実明に言葉をかける。
本来なら女御の言葉の代弁をするのが女房の仕事なのだが、まだ宮仕えし始めたばかりで世間というものに慣れていない三雪を慮っての優遇だ。
「そういえば貴方、この子が裳着をしてからまだ会ってないんじゃないかしら」
「仰る通りです。お祝いの品と文は贈らせていただきましたが、あまりにも公務の方が忙しくて顔を出せなかったのです」
「そんな事言って、うっかり他の同僚に知られて横取りされるのが嫌だったと素直に言えば良いのに」
「はは、意地悪はそこまでにしておいてください」
笑って受け流し否定しない辺り、朱子の言っていることは的を射ているのだろう。
裳着を迎えた三雪は成人した訳なのだから、うっかり垣間見して恋心を芽吹かせてしまう野郎がいるかもしれないのは事実だ。十三も離れた年下の幼妻(予定)を奪われでもしたら冗談ではないのが実明の本心に違いない。
三雪は兄のように実明を慕うが、実明はここ数年三雪を子供扱いしたことがない。見ていれば自然と分かってしまうものだった。
はらはらと他人事のように二人のやり取りを見ているけれど、実際はまさに三雪の話なのでこれはこれで居心地が悪かった。
他の女房の視線が突き刺さるのも変わらず。たぶん後で年上のお姉さま方に取り囲まれて根掘り葉掘り聞かれるに違いない。
とほほと肩を落としている三雪だが、時々噂に上る不香花の君がまさか自分の事だったとは夢にも思わなかったことが、一番の驚愕的事実だった。
実明が誰を好きになろうとお家の決めた婚姻さえ守ってくれれば程度に思っていたので、今更ながらとても恥ずかしくて見ていられない。
実明なりの冗談だと思いたいけれど、言われてまんざらでもないので頬がゆるゆると弛んでしまう。
ほんのちょっぴり頬も赤らめてしまうのは、自分が大人になって色恋の世界に踏み出してしまったからかしら。
「それで? 彼女の顔を見に来ただけではないんでしょ? 仕事の鬼な貴方の事だから、何かあるんじゃないの?」
「もちろん。こちらをどうぞ」
実明が小脇に抱えていた荷物を差し出した。